その4 花瓶の中の天使
最初、ソイツの姿は全く見えなかった。
僕は何となく、和久宮が持ち込んだ『黒い花瓶』への違和感を覚えつつも、まあスルーしていた。
しかし先週ついに目撃してしまった。授業中、花瓶の口からちょろんと人形の腕らしきものが出てプラプラ揺れていたのを。授業終了のチャイムと共に引っ込んだそれを、僕は気のせいだと思いたかった。
なのに、腕、顔、上半身、全身……と親指サイズの人形はだんだん大胆に姿を見せるようになり、金曜には背中の透き通った羽でパタパタと空を飛ぶようになり。
たまたまこっちを通り掛かった時、間近で見たソイツはまさに生けるフィギュアだった。
腰まで伸びた金色の巻き髪と、生意気そうなエメラルドの瞳が印象的な、小学生くらいの美幼女……ただし身長は十センチ弱。しかも全裸。
十六年近く生きてきて、いろんな怪しいモノを見てきたけれど、こういう西洋風の種族は初めてだった。
その時点では「さすが東京、物の怪もグローバルだなぁ」なんて呑気に考えていた。
ところが週明けの今日、悲劇は起きた。
英語の授業中、ソイツは花瓶の中からパタパタと飛んできて、いつも通り和久宮の頭の上に止まった。
最初はアホ毛をいじって遊んでいたのだが、すぐに飽きたのかつむじのあたりで寝転がり、クゥクゥと居眠りを始めた。すると頭上のソイツにつられて和久宮もコックリと船を漕ぎ出し……なまはげ似の英語教師ジェームズが目ざとく発見。「ヤルキナイコ、デテイケ!」と怒鳴られ、和久宮は涙ぐんでいた。(妖精は瞬時に花瓶へ逃げ帰った)
それで懲りたかと思いきや、ソイツは数学の授業中にもパタパタ飛んできて、またもや和久宮の頭に止まった。タイミング良く先生に指された和久宮があたふたと立ち上がる。
その時初めてソイツは言葉を発した。そこらの幼稚園児みたいに無邪気な声で、
『いち!』
「いちです」
つられて和久宮がそれを口にする。
答えは『(x-2y)(x-2y-1)』だった。
数学教師のオッサンは「もしや君は中等部の生徒かね? 校舎を間違えたんじゃないのかな?」とねちねち嫌みを言い、またもや和久宮は涙ぐんでいた。(妖精は瞬時に寝たフリをしていた)
……もう黙ってはいられなかった。
このまま放置すれば、和久宮は成績を落として自滅するだろう。それはいくらなんでも可哀想過ぎると思った。
妖精から悪意のようなものは感じないけれど、遊び感覚で人間を害する物の怪も少なくない。とにかくヤツとは言葉が通じるみたいだし、事情を聴いた上で「あんまり悪戯すんじゃねーぞ」と忠告するつもりだった。
しかし、放課後いくら待てども和久宮が花瓶の傍を離れることはなく、結局普通に声をかけることにしたのだが。
それが失策と気付いたときには、後の祭り……。
◆
『ねぇ、なんでアタシが見えるの? なんでなんでー?』
顔の回りをパタパタと羽虫のごとく飛び回る妖精。意外とお喋りなヤツだ。
和久宮はといえば、僕の狙いが花瓶と分かった途端に態度を一変。ようやく逃げなくなったと思ったのに、またジリジリと後退し始めた。当然、花瓶はしっかりと胸に抱いたまま。
『ねぇ、ニンゲンなの? マモノなの? その顔はマモノっぽいからマモノかなー』
パタパタパタパタ。
精巧な裸体が目の前をチラチラして、非常に鬱陶しい。僕は思わず舌打ちした。
「あー、ウゼェ」
「えッ」
「いや、和久宮には言ってない。その……」
――お前にだゴラ!
と、目の前の羽虫を射殺さんばかりに睨みつける。そのポジションがちょうど和久宮の瞳との対角線上だったため、怯えた和久宮がまたもや亀になる。羽虫は「マモノマモノー」と飛び続ける。
さすがにイラついてきた。
いっそ『妙な物が見える』というこの体質を暴露すべきかと考え、「やめとけ」という己の声に踏み止まる。
物事にはTPOというものがある。今暴露したところで、ますます変人扱いでドン引きさせるだけだろう。ここは僕自身の力で解決せねば。
そうだ、今までだって何度も、物の怪がらみの修羅場はくぐり抜けてきたじゃないか。
まずは冷静に、花瓶だ。
ヤツはあの花瓶からあまり離れられない。それは移動教室にくっついて来なかったことで証明済み。
「あのさ、和久宮。少しだけその花瓶貸し」
「――嫌です!」
こんなに大きい声も出せるのか……と素直に僕は驚き、同時に戸惑った。
頼りない子犬の瞳が、いつの間にか母犬のそれに変わっている。大事な我が子を奪われるまいと牙を剥くかのように僕を睨みつけ、花瓶をいっそう強く抱きしめて。
「これ、すごく大事な物なんです、お祖父様の形見なんです、これだけは誰にも差し上げるわけにはいきません……!」
――このカツアゲ野郎!
語尾にそんな言葉がくっついた気がした。一応優等生として人生を歩んできた僕にとっては、眼鏡がずり落ちてしまう程の大ダメージだ。
もうどうでもいい、勝手にしやがれ……そう投げ出したい気持ちをグッと堪えて、ギクシャクと微笑みかけてみる。
「頼む、ちょっと触らせてくれるだけでいいから」
「嫌です!」
「じゃあ近くで見るだけでも」
「嫌です!」
「何なら金払ってもい」
「嫌です!」
……というマシンガンのごとき拒絶は、和久宮のせいじゃない。
いつの間にか和久宮のつむじに舞い降りた羽虫が『イヤ』と囁いているからだ。明らかに僕をからかっていると分かるクスクス笑いで。
……もう許さん。こうなったら正攻法は捨ててやる。
ガキの頃、僕はトンボ取りの名手だった。地元じゃ『冬夜名人』と呼ばれてたんだ!
さあ唸れ、我が右腕――
『ヘンタイ』
「ヘンタイ!」
「うえッ?」
和久宮の頭に伸ばしかけた右手を、慌てて引っ込める。
何やら嫌な予感がしてチラリと振り返れば、見知らぬ女生徒が廊下からこっちを伺っていた。なぜか真っ青な顔をして……。
「いや、違うんだ、これは」
『タスケテ』
「助けて!」
「てめぇは黙ってろッ!」
反射的に、和久宮の頭のてっぺんに向かってガァッと吠えた。すると和久宮は。
ふらり、ぱたん。
……倒れた。
貧血、もしくは過度の恐怖体験により。
大事な花瓶はゴロンと転がり、小花がハラリと床に散らばる。クソ生意気な羽虫は、なぜか花瓶の中にひゅんと吸い込まれた。
背後で覗いていた女子が「先生ぇぇぇ、誰かぁぁぁー!」と叫びながらバタバタと走り去る。
倒れた和久宮をそっと抱き起こしながら、僕は考えていた。
痴漢冤罪を立証するのって大変だろうな、と……。