その1 牙を剥いた蛇
選挙公示日の朝も、天気は快晴。
降り注ぐ太陽の光を浴び、僕はしっかりと大地を踏みしめながら通学路を進んでいた。和久宮は、「ちょっとやることがある」と先に自転車で向かったので、今日は一人きりだ。
だからこそ、冷静に気持ちの整理ができる。
入学直後、最初の生徒会ミーティングで「立候補までが最大の山場」とか「熾烈な前哨戦」なんて言葉を聞かされたとき、僕は「大げさだな」と鼻で笑っていた。たかが学校の生徒会ごときで、と。
今となってみれば、己の甘さに吐き気がする。
三次元の世界は欲に塗れていてドロドロで……だからこそ悩んで、苦しんで、たぶん僕は少しだけ大人になった。
今は和久宮のためとか、そんなちっぽけなことじゃなく、僕自身のために立ちあがりたいと思っている。
大事な仲間の涙を見るのは、もうたくさんだ。
僕は、皆が笑顔で過ごせるような学校にしたい。
そのためなら、何だってやってやる……!
そんな決意と共に足を踏み入れた早朝の教室には、すでに一人の生徒がいた。
和久宮とは違う、すらりとした細身のシルエット。朝の光を受けて、天使の輪を浮かび上がらせるサラサラのショートカット。パッチリとしたアーモンド形の瞳。上気した薄紅色の頬。
そして、口元につけた痛々しい絆創膏など掻き消すような明るい声で。
「西君、おはよ!」
「牧野……おはよう、っていうか、大丈夫なのか?」
「昨日はお騒がせしました。わたし、やっぱり選挙出るよ!」
凛と背筋を伸ばし、笑顔を浮かべて堂々と宣言する牧野。それは雲ひとつない青空のような、澄み切った笑顔だった。
あまりの眩しさに僕は目を細める。
「昨日西君にもらった塗り薬、すっごい効いたよ。腫れるかなぁと思ってたのに、痛みも熱もスーッて引いて……不思議だね。気持ちもなんだかスーッって落ち着いたの。別にどってことないよねって。だって、好みじゃない先輩にちょっと言い寄られたくらいで夢を諦めるなんて、もったいないよね?」
クスッと小悪魔的に笑ってみせる牧野は、昨日とはまるで別人みたいだった。
牧野もこの荒波に揉まれて、少しだけ大人になったのかもしれない……そう思うと、なんだか胸が熱くなる。
「ついでに、宣言しとくね。わたしは私利私欲だらけのイヤな子だから、開き直ってハッキリ言っちゃう」
「ん?」
窓辺に佇んでいた牧野が、トコトコッと軽快な足取りで寄ってきて、僕の右手をキュッと掴んだ。
そして。
「牧野美緒は、西園寺冬夜を心から応援してます。西園寺君をサポートするためにも、絶対生徒会に入りたい!」
キラキラ輝く大粒の瞳には、曇りない確かな愛情が浮かんでいる。僕の心臓をドキドキさせるその愛情は、友情なのか、同志に向ける信頼なのか、それとも……。
ぼんやりと考える間に、手のひらの熱はパッと離れた。
牧野は「迷惑かけた他の皆にも、挨拶回りしてくるね!」と走り去った。
そのスカートが弾んで、視えそうなのに視えないパンツ……。
僕はそこに、女心というものを感じ取った。複雑すぎて、僕にはまだ読み解けない感情を。
◆
牧野が元気いっぱいな姿を見せたせいか、拡散された悪意――柳副会長への糾弾は沈静化しつつあった。
暗く澱んだ気持ちは浄化され、ポジティブな応援メッセージへと生まれ変わる。
クラスメイトたちは、僕と牧野の『ウグイス嬢』をやると一致団結。休み時間のたびに校内のあちこちへ散らばり、選挙の前哨戦ともいえる根回し工作に取り組んでくれた。
その面子の中には、当然和久宮も加わっていた。
というより、和久宮は誰よりも熱心に活動していた。授業終了のチャイムと同時に教室を飛び出し、予鈴ギリギリで戻ってくる。
僕自身も『支援者』の人たちに取り囲まれてしまうから、声をかけてやる余裕はなかったけれど……なんとなく「大丈夫」だと思った。
ガラス細工みたいなお嬢様は、もういなかった。ロングヘアをきゅっとひとくくりに結わえ、汗水流して駆け回る和久宮の姿を見送りながら、僕は「もうボディガード役は卒業かな……」なんてちょっと寂しく思ったり。
そうして、そわそわと浮足立つ空気の中、ついに迎えた昼休み。
僕は約束どおり生徒会長室を訪れ、会長直筆の『推薦状』を手にすることができた。
会長は英語の資料やら引き継ぎ関係の書類やらにデスクごと埋もれかけの状態で、こっちも見ずに「頑張れよー」と声をかける適当さ。もし当選できた暁には、僕もこのスタンスを踏襲させてもらおうと思う。
四階の生徒会長室から、昇降口前の選挙用特設スペースへ向かう途中、すでに噂を聞きつけた多数の生徒から握手を求められた。
「頑張ってください」とか「応援してます」の後に、なぜか「西園寺さん」という敬称をつけてくる……相手は先輩方だというのに。せめて「西園寺君」とフランクに呼んで欲しい。
「すみません、そろそろ時間なんで」
次々伸びてきてキリがない皆の手を押しやり、僕は『立候補者受付』と張り紙がされた折りたたみ机に向かう。
そこには生徒会役員の面々及び、顧問の教師、そして立候補を既に済ませた一年の生徒たちが勢ぞろいしていた。
彼らの中に牧野の姿を見つけ、声をかけようとした僕は――凍りつく。
ほっそりとした牧野の肩に、誰かの手が乗せられている。骨ばった男の手だ。
ついさっきまでは明るかった太陽を覆い隠す、暗い雨雲……その雲を操っている人物を目にした瞬間、僕の理性は吹き飛んだ。
「何してんだよッ、牧野に触るな!」
殺気を滲ませた声に、ざわついていた周囲がシンと静まりかえる。
たった一人だけ、僕の声に心を揺らさない人間――瀬川副会長がニヤリと微笑んだ。営業スマイルじゃない、心底楽しくて仕方がないといった笑みで。
「牧野、大丈夫か?」
瀬川副会長と牧野の間へ強引に割り込んだ僕は、煮えたぎる心を押し殺し、なるべく落ち着いた口調で声をかけた。
しかし、牧野は俯いたまま僕のことを見ようとしない。その頬は青褪め、握りしめた手は色を無くすほど白い。
強張った握り拳を両手で包んでほぐしてやると、堅く閉ざされていた牧野の唇が開いた。
「……ごめん、西君。わたしやっぱり立候補できない」
「何があった? コイツらに脅されたのか?」
「心外だなぁ、西園寺君。僕らがそんな野蛮なことをするはずないじゃないか」
大仰に両手を広げてみせる瀬川副会長。その視線がチラッと向かった先には、既に立候補者の名前が貼られた特大のボードがあった。
十名分の役員推薦がついた、新入生たちの名前が羅列されている。
それは事前の調整どおり、各クラス一名ずつ――のはずが。
その中にダブりがあることに気づいた僕は、ヒュッと息を呑む。
一年B組の名前が男女二人分。どちらにも役員推薦がついている。男子の方は副会長への立候補。女子の方は……会計。
ぐるりと周囲を見渡せば、サッと伏せられる一人の女子の顔があった。牧野のことを「美緒ちゃん」と親しげに呼んでいたB組副委員の女子だ。
つまり、これは。
「……ギリギリで、牧野への推薦を取り消したのか」




