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その5 見てはならない秘密の花園

 コトコトと音を立てていた鍋が、プシュッと湯気を吐いて静止した。と同時、蓋に組み込まれた赤色のピンが内側から飛び出す。

「このピンが立ったら、圧力が充分かかったって合図だから、火を弱火にして十分、その後火を止めて三十分放置すれば完成だな」

 シンプルイズベストな解説と共に横を向くと、さっきまでそこにいたピンクのエプロン姿が消えている。

 というか、僕の背中の後ろにこそっと隠れている。

「何してんだよ、和久宮」

「だって、お鍋が『プシュッ』って……」

「それがどうした」

「爆発するかと思って……」

「まあ、そういう幻想を抱かれがちだよな、圧力鍋って」

 今作っているのは、僕の得意料理その一、ゴロゴロ野菜のクリームシチューだ。玉ねぎのみじん切りと小麦粉を混ぜたホワイトソースから作るそれは、フードプロセッサー及び愛用の圧力鍋のパワーを借りて、ほんの一時間ほどで素晴らしいとろけ具合になる。

 和久宮は避難生活初日にこれを食べて感激したらしく、「作り方を覚えたい」と前から言われていた。そこでゴールデンウィーク最終日、頑張った集中学習週間のご褒美にと、こうして料理教室を開いてやっているわけだが。

「はぁ、難しいな、お料理って……」

 和久宮はエプロンのポケットから紙とペンを取り出す。何やらメモしているのでそいつを覗き込んでみると。

 一、鍋に材料を入れる。

 二、火をつける。

 三、プシュッと音がして赤色のピンが立つ。それは内部に充分な圧力がかかった合図であり爆発する前兆ではない。

 四、ちょっと弱火にする。

 五、完成!

「なんかコレ、工程抜けてね?」

「えッ、どこが?」

「……」

「……」

 そうだ、基本的に和久宮はこういうヤツだった。

 興味を持ったことと、それ以外との落差がクッキリ。

 勉強でも教科ごとのムラが激しいから、教えるのも一苦労だ。暗記モノのゴロ合わせをしたり、問題をなぞなぞっぽく加工したり。そういう作業は僕も嫌いじゃないから構わないけれど。

 いかんせん、成績を上げるには時間が足りない。

「もう家事はいいから、予習の残りやっつけとけよ」

「うん、ありがと」

 はにかみながら頷いて、フリルがついたピンクのエプロンを外す和久宮。その下の私服は紺色の中学ジャージという、全く色気のないものだ。差し押さえられたという豪邸からは服もさほど持ち出せなかった上に、親に託されたこづかいが月五百円という現状では仕方あるまい。

 ちなみにロリ系なピンクのエプロンは、桜子さんにプレゼントされたものだ。

 避難翌日、半ば強引に顔合わせしてからというもの、化粧品や髪を結わえるゴムなどちょいちょい貢物を受けているらしい。最近「二人まとめてうちの子になっちゃいなさいよ」と誘われたけれど、桜子さんには中学生から幼稚園児までの男女四人という立派なお子さんがいるため、きっちり遠慮しておいた。

『むにゃむにゃ……おはよーマモノ……今日のご飯も美味そうだな。腐ってないニオイがする』

 リビングに落ち着いた和久宮がノートを広げると同時に、昼寝を終えた妖精がパタパタと飛んできた。そして付け合わせのブロッコリーサラダを仕込もうとする僕の邪魔をする。

『アイツの勉強邪魔しないのは偉いけど、僕の料理も邪魔すんな』

『あッ、なんかイイ匂いがするぞ! ここからする……くんくん……』

 妖精が羽を止めたのは、流しの隅に出しっぱなしにしていた白ワインだ。シチューの隠し味として少しだけ入れたそれは、コルクが斜めに嵌って匂いが漏れだしている。

『お前、酒が好きなのか? ガキンチョのくせに』

『ガキじゃない! アタシはりっぱな大人だもん!』

 ぷうっと頬を膨らませて、まな板の上に仁王立ちする妖精。思いっ切り邪魔なそいつをどかすべく、僕はワインのコルクを抜いた。途端にふらふらと瓶へ吸い寄せられる妖精。まるでまたたびを与えた猫みたいだ。

『ねー、ろーや……』

『牢屋って何だよ。匂いだけでもう酔ってんのか』

『コレ、ちょっとだけのませてけろ……』

『子どもには飲ませられん』

『ちょっとだけ、えっちなことしていいぞ……』

『しょうがねぇな』

 白ワインを小皿にちょろっと落とし、本体を冷蔵庫にしまう。すかさずキッチンワゴンに飛び乗った妖精は、皿の縁に手をつき、猫みたいにピチャピチャと舐め始めた。西洋人らしい透明感のある肌が、ぽわんと桃色に染まっていく。

 ぽわん、と。

 白い煙が立った。

「うまーい」

 ――ッ!?

 僕は“ソイツ”を抱えて廊下にダッシュ!

 リビングからは「今子どもの声しなかった? 大家さんちの舞ちゃん?」という、和久宮のぽわんとした声が。僕は返事をせずトイレに飛び込んだ。

 抱きかかえていたソレを、便器の上に座らせる。

 サラッサラの金髪が柔らかな肌に滑り落ち、危うく便器の中に浸かりそうになるのを防御する。その髪を胸の前に垂らし、見てはならない秘密の花園を覆い隠して、ホッと一息。

 ……。

 ……。

 ……つけるわけがなかった。

『ななな、何なんだお前! いきなり三次元化するとか、かの有名なM先生の『世界妖怪大全』にもそんな物の怪は出てなかったぞ!』

「トーヤが何を言ってるか分からないよ」

『バカ! そっちの声出すな! テレパシーでしゃべれ! すぐそこに和久宮がいんだぞ!』

『あ、あえかに会いたい! この身体ならしゃべれる!』

『今アイツは勉強中だ! 絶対邪魔しないって約束だろッ?』

『そうか……すまん』

『いや、僕も怒鳴って悪かった……その、まずは落ち着いて話を聴こうじゃないか。どうしてこうなった?』

 僕はトイレ消臭剤のグリーンな香りで気分をリフレッシュさせつつ、ぷにっとした頬や二の腕やひざ小僧のあたりをチラチラと観察する。

 どこからどう見ても、三次元。さっきのアルコールがまだ残っているのか、やたらと血色が良い。

『なんでだろー? 千年ぶりのお酒だったからかなぁ。桃源郷のジジイに聞いてみないと分かんない。壺からジジイ呼び出せるかなぁ』

 その釈明は、ミジンコほども意味が分からなかった。

 そうか、電波と対峙したノーマルな人間はこういう感想を抱くものなのか……南先生、ごめんなさい。

 ……なんて反省してる場合じゃない。

 僕は言われるがままに、玄関先に飾ってあった黒い花瓶を持って再度トイレへ。実体化した幼女な妖精が、花瓶の口に向かって「おーい、ジジイー、生きてるかー」などとリアル声で叫んだため、僕はゲホンゴホンと咳をしながら水をジャージャー流した。

『返事がない。ジジイは死んでいるようだ』

『そうか、それはご愁傷様……っていうか、ジジイって誰だ?』

『桃源郷に住んでる神様のジジイ』

『そうか、じゃあお前は何者だ?』

『アタシは麦の精。「千年の孤独」って美味しい麦焼酎で、信じてくれるひとを桃源郷に連れてってあげるの』

 良く分からないけど、何となく分かってきた。

 確か中国あたりの伝説にそういう話があった気がする。『壺中天』とかいうタイトルで、壺売りの老人が「この壺に手を入れてみよ、さすれば桃源郷に連れて行ってやる」的な誘いをするという……。

 しかしどう見ても、コイツのビジュアルは西洋だし、ピーターパンのティンカーベル。桃源郷というよりネバーランドに連れて行かれそうだ。

 だけど麦焼酎ってのはいったい何なんだ。もしやこの花瓶は花瓶じゃなくて徳利なのか?

『あ、何か疑ってる顔……マモノのくせに生意気な』

『別に疑ってないよ。ただちょっと荒唐無稽で信じられないってだけで』

 黒くてずんぐりした、地味なこと極まりないその花瓶……もとい徳利を眺めて僕が呟くと。

『まあ壺に手を入れたとしても、みんなが桃源郷に行けるわけじゃないからね。心のキレイな人間だけ』

 マモノには無理かなー、なんて便器の上からクスクス笑いで挑発するリアル幼女。

 それじゃ試しにと、僕は花瓶の口に人差し指をズブッ。

「――ひゃうんッ!」

「バッ、な、なんて声出してんだッ!」

「……西園寺君、さっきからどーしたのー? 舞ちゃん来てるの?」

 背後のドアがコンコンとノックされる。僕はビクッと震えた。

 目の前には全裸の金髪幼女。しかも小さな唇を半開きにし、恍惚とした眼差しで僕を見つめている。その表情はシチューのごとくとろけきっていて、今にもえっちな何かが漏れそ……いや、そんなことはどうでもいい。

 今はどうやってこの扉を死守するかだ。もちろん鍵はかけてある……はず?

 そういえば、さっき花瓶を取りに行ってそのまま……。

「あれ、開いてる……」

「待て和久宮! 開けるな! 僕は今ウンコ中だ!」

「えッ」

「もうちょっとで出るとこなんだ、邪魔すんな!」

「わ、分かった」

 和久宮がドン引きしようが、知ったこっちゃない。とりあえず危機が去ったことに安堵しつつ、僕は目の前で『ウンコマモノー』とかいう妖精に対峙した。

『頼む、ひとまず元の姿に戻ってくれ。今は僕も上手く和久宮に説明できる自信がない』

『お酒抜けないとムリー』

『どうすれば抜ける? 水でも飲むか?』

『ムリー。もっと苦くてマズイものじゃなきゃムリー』

 と言われても、半畳のトイレ空間にそんなブツは無い。部屋に戻ればあやしい薬がいろいろあるけれど、ごそごそ探す間にトイレを覗きこまれたら……。

『しょうがない、コレ舐めてみろ』

 僕は指先を軽く噛み切った。真っ赤な血がぷくんと膨れあがる。

 それを妖精の口元に差しだすと、ちょっと嫌そうな顔をしつつ、おずおずとピンク色の舌を差し出し……。

 ペロン。

 一舐めした瞬間、ボフンと白い煙が上がった。

 その煙の中から現れたのは――

「あれぇ? おかしいなー」

 おかしいのは僕の脳みそであって欲しい、切実にそう思った。

 ウェーブのかかったしなやかな金髪、透き通るような白い肌、柔らかそうな肩や二の腕やひざ小僧……は元のまま。

 しかし、今やそれらが全てサイズアップした上に、手足がニョキッと伸びている。

 何より、金髪を押し退けんまでに隆起した二つの膨らみが……。

 どこからどう見ても、完璧な美少女だった。推定年齢十五歳くらいの。

「何でだ! 何で育ってるんだ!」

「あーあ、マモノのせいで、おとなにさせられちゃった」

「僕は何もしてない!」

「したじゃん、アタシの中にむりやりアレ入れて、そのあと血が……」

「変なとこ省略するな!」

 マジでもう無理! 電波受信限界!

 天井を見上げて頭をかきむしる僕の背後から、再びコンコンとノックの音が。

「邪魔してごめんね? なんか辛そうな声がするから、どうしても気になって……お腹痛いの? お薬持ってくる?」

 すげー優しい子だよこの子は!

 だがその優しさが今は辛い!

『頼む、何とかしてくれ、せめて最初の幼女に戻ってくれ!』

『んー、しょうがないなぁ。じゃあ“契約”する?』

『する! 何でもする!』

『あえかを幸せにするまで解けないけど、いい?』

『する! 幸せにする!』

『分かった、アタシの名前はムギコ。今度からそう呼んでね』

 そう言って、妖精は便器から立ちあがった。僕より十センチほど低い身長。プラス、僕の肩に手を乗せ、踵を軽く持ち上げて。

 エメラルドの瞳を悪戯っぽく煌めかせて。

 ちゅっ。

 僕の唇に触れたそれは、リアルなようで、半分夢のような、不思議な感触だった。

 次の瞬間、妖精ことムギコは、煌めく光の礫を残して目の前から消えていた。まるで本物の天使みたいに。

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