その2 天国と地獄
バランスを崩し膝をついた僕の胸に、柔らかな獣がしがみついてくる。熱い吐息と溢れる涙がシャツ越しに伝わり、鼓動を否応なく高鳴らせる。
この感覚は知っている。
僕が上京する日、こうして妹がすがりついてきた。叶うことのないわがままと分かっていて、一秒でも僕を引き止めようとして。
「西君、ゴメン……ゴメンね……」
「何で牧野が謝るんだ?」
「だって、あえかちゃんが悪いんじゃないのに、わたし、八つ当たり……ッく……」
「うん、分かってる、分かってるから」
ポンポンと、背中を叩いてやる。小さい子どもを寝かしつけるみたいに。牧野の嗚咽も少しずつ収まっていく。
しかし、二日連続で女の子を泣かせるなんて、何者かの呪いでも受けたんだろうか。まあ和久宮が泣いたのは僕のせいじゃないけど……。
「ありがと……もう大丈夫」
そう言って、牧野がゆるゆると顔を上げる。
赤くなった鼻の頭を手のひらで隠しながら、「わたしカッコ悪いね」と照れくさそうにはにかむその顔は、いつもより少し幼く見えた。
「あ、西君の上着、濡らしちゃった」
「気にすんな、すぐ乾く」
「埃もつけちゃった、手が汚れてたから」
僕は握りしめたままだったハンカチで牧野の手を拭った。「いいよ」と引っ込めようとするのを、強引に掴んで。
ある程度キレイになったところで、その手を引いて立ち上がらせる。右肩の痛みを感じないことに内心安堵しつつ。これで「痛てッ」なんて言ったらそれこそカッコ悪過ぎる。
すっかり素に戻った牧野が、アーモンド形の瞳をぱちくりさせて僕を見つめ、感想を一言。
「西君って、本当に紳士だね。眼鏡も似合うし」
「まあな」
「田舎育ちの野生児とはとうてい思えない」
「うるさいぞ」
「でもそういうギャップも、わたしは好きだな」
「……やめろって。誤解を招く」
教室にはまだ誰も来ないと知りつつも、そわそわと周囲を気にする僕。
すると牧野はなぜか唇を尖らせて。
「何回言ったら、分かってくれるの?」
「えッ」
「わたしは構わないよ、誤解されても」
その瞬間、キラキラと弾けた牧野の笑顔。胸にハートの矢がブスッと刺さる。
それはどういう意味で……という問いかけにもたつく間、牧野はクスクス笑いながら、脚立を抱えて立ち去ってしまった。
◆
牧野が居なくなり、教室は早朝らしい静寂を取り戻した。何だかどっと疲労感を覚え、僕はふらりと壁へもたれかかる。
あんな風に泣かれるまで、ちっとも気づかなかった。
「皆、意外と“僕”のことも気にかけてたのか。参ったな……」
和久宮が恨みを持たれるのは、恋愛がらみとも限らない。
例えば『皆の委員長』だったはずの僕が、和久宮にばかり肩入れしていることを良く思わない奴もいるのかもしれない。くすぶる不満のはけ口として、和久宮の好きな花に八つ当たりした、とか。
まあこの可能性は低いとは思うけれど……もしそうなら、僕がこのまま和久宮のボディーガードを続けることが火に油となってしまう。かといって、ストーカー対策を放棄するわけにもいかない。
「しょうがない、もう少しこのまま様子を見るか」
ため息とともに天井を仰ぐと、いつもの場所にいつもの人物が視えた。こっちに背中を向けてゴロンと寝転がる、学ラン姿の頼もしい先輩が。
慌てて僕は姿勢を正す。ずっとバタバタしていてすっかりお礼が遅くなってしまった。
『先輩、昨日はありがとうございました』
先輩は、リスクを冒して僕に声をかけてくれた。そして廊下を蹴った僕の背に、強い追い風をのせてくれた。
もしあのサポートがなかったらと思うと、ゾッとする。たぶん僕の手は空を切り、和久宮はあえなく階段を落ちていた。大事な花瓶もろとも……。
『そうだ、お礼にまたニコチンガムを』
『……要らねぇよ』
『先輩?』
何やら様子がおかしい。僕は眼鏡を外してジッと目を凝らした。
天井に寝転んで背を向けたまま、微動だにしない先輩。学ランの背中に刺繍された金色のドラゴンは、どことなく黒ずんで見える。
いや、ドラゴンだけじゃない。先輩のいる一角が――
『気づいたか、ボーズ』
『……はい』
それは悪霊化の兆候だった。
越えてはならない一線を越え、人間の世界に踏み込んだ霊の悲しい末路。
僕は床に膝をつき、額を床に押し付けて謝罪した。そんな真似をしたところでどうしようもないと分かっていて。
『すみません、僕のせいで……』
『謝んな。こっちに情を向けるな。本格的に憑きたくなってくる』
背中越しに響く声はいつも通りのトーンなのに、何もかもが違う。凍てつく闇を孕み、僕の身体に怖気を走らせる。
単なる悪霊化とは違う……僕はそう感じた。先輩が闇に包まれながらもハッキリと理性を保っているから。
善良な霊が、知性をもった天使に近づくのと似ている。
これは……。
『何か俺、えらい奴に見込まれちまったみてぇだ。“上”から直々に命令されたよ。このままお前に取り憑いてろって。願いを叶えるフリして一番大事なもん奪って絶望を与えろってよ。……んな面倒くせぇことできっかよ。俺はしばらく寝ることにすっから、絶対起こすんじゃねぇぞ』
『……分かり、ました』
『分かってねぇな。全然分かってねぇ。今の俺は人間に“触れる”んだよ。お前の手を使って、お前に近づく女にもな』
ドクリ、と心臓か嫌な音を立てた。こめかみをいやな汗が伝う。
――決して情を残すな。
先輩の背中はそう訴えていた。僕は唇を噛み締め、頷く。
もし僕が先輩を心に留めたまま、些細な願いを抱いたら……例えばざわつく教室を静めたいと思ったら。
先輩はあっさりとその願いを叶えてしまう。和久宮に取り憑いた妖精みたいに僕を操って。
そして願いが叶った暁には、相応の対価を奪うだろう。ニコチンガムなんかじゃなく、僕が絶望するような何かを。
きっと、僕が大切に思っている女の子を……。
忘れよう。忘れるしかない。
大丈夫、僕は“彼女”のことだって忘れられたんだ。
八十五年後、身軽な身体に生まれ変わったら、絶対この場所に戻って来よう。
その時は、またくだらないことで笑いあえるはずだから。