その5 よそはよそ、うちはうち
五分待って貰うまでもなく、僕はサクッと自宅ドアを開いた。
今朝ようやく最後のゴミ出しを終え、『百パーセント引っ越し終了宣言』したばかりのフレッシュな部屋には、見られて困るものなど何一つない。
「じゃ、入って」
「お邪魔しま……あッ」
「何だよ」
と、和久宮の視線を追った先、玄関の突き当たりの窓辺にぶら下がるのは、数枚のシャツ&トランクス。
「気にすんな。気にしたら負けだ」
「ハイ……」
と、よく分からない根性論でごまかし、僕は室内を案内した。
間取りは2LDK。玄関の左手には風呂とトイレ、右手には四畳半の寝室が二つ。その奥がカウンターキッチンを備えた十二畳のリビングだ。
建物自体は古いものの、三階の東南角部屋と日当たりは良く、全面リフォーム済みだから清潔感もある。当然虫さんに悩まされることもない。
「はぁ、すごく素敵なお部屋です……」
リビングのあちこちに配置された観葉植物を見やり、ため息を落とすばかりの和久宮。妖精も興味津々といった様子でパタパタ飛びまわっている。
僕はリビングの窓を大きく開け放ち、空気の入れ替えを行った。さりげなく洗濯物を回収しつつ。
「まあ、元々ファミリー用物件だからな。我ながら贅沢だと思うけど、ちょっと裏技を使って安く借りさせてもらった」
「裏技?」
「ここの一階に住んでる大家さんと交渉したんだ。屋上緑化に協力するから家賃まけてくれって。まだ苗植えたばっかだけど、夏には美味い有機野菜がザクザク採れるようになる」
ちなみに家賃は破格の五万円。そこらのワンルームマンションより安い。
とはいえ、毎月十万円の奨学金からそれを支払うとなれば、生活は決して楽じゃない……と思っていたけれど、世の中下には下がいる。和久宮家に比べればここは天国だ。
「あと寝室が二部屋あるのは、たまに妹が泊まりに来るから。和久宮はその奥の部屋使って。風呂も台所もご自由に。冷蔵庫の中の物も好きなだけ食っていいぞ。昨日仕込んだシチューも入ってるから」
つい早口になってしまうのは、少なからず僕も緊張しているせいだ。
やっぱり今の僕に、三次元の女子と部屋で二人きりなんてシチュエーションはまだ早い。RPGで例えるなら、レベル一の冒険者がラスボスの待ちかまえる塔にうっかり踏み込んだようなものだろう。
こんなハラハラドキドキさせられる場所は、とっとと退散するが吉。
取りこんだ衣類を持って、僕は自分の寝室へ。手早くジャージに着替えると、そのまま玄関へ向かった。
「じゃ明日の朝また来るから、後はごゆっくり」
「え、どこに行くの?」
「一階。大家さんち泊まらせてもらう。今回の事情は大家さんにも軽く話してあるから。ストーカーに狙われてるクラスメイトを保護したって」
さっき和久宮が荷物を準備している間に一報を入れると、大家さんこと桜子さんはこのプランにもろ手を挙げて賛成してくれたのだが。
その際のやたらとハイテンションな口調から僕は察した。
どうやら桜子さんは、僕が『好きな女の子』を連れてくると勘違いしているらしい。「皆で一緒に晩ご飯食べましょうよ」と誘われたものの、からかわれるのが目に見えていたため「人見知りな子なんで、いずれ落ち着いたらってことで」とバリアを張っておいた。すぐに破られそうだけど。
「そうだ。あと南先生にも報告入れといたから。ストーカー野郎のことも含めて、明日の朝話し合おうってさ。七時頃来るから準備しとけよ。じゃーな」
立て板に水のごとく説明し、玄関のドアに手をかけたとき。
「待って」
ジャージの背中をキュッと掴まれた。とたんに心臓がビクンと跳ねる。
「な、なんだよ……」
恐る恐る振り向くと、そこには熱っぽく潤んだ二つの瞳があった。か弱いガラス細工みたいに見えて、やたら打たれ強いダイアモンドの瞳が。
「私、何にもお礼できてない。こんなにいろいろしてもらったのに」
「気にすんなって」
「だけど、約束でしょ? 西園寺君ちの“メイドさん”するって……何かして欲しいこと、ない?」
開いたままの窓から冷たい夜風が吹き抜け、和久宮の髪がさらりと靡く。青白い肌にはほのかに赤みが差し、あどけない唇は濡れて艶めいている。
ヤバイ、と思った。
それなのに目を逸らせない。
胸の奥から静かに湧き上がるのは、暗く邪な……いや、人間としてあたりまえの欲望。それはたぶん、和久宮も隠し持っているもの。
「いいよ……西園寺君のして欲しいこと、何でもする」
熱い吐息と共に零れた言葉が、僕の理性をぐらりと揺さぶった。
静寂につつまれた二人きりの密室。手を伸ばせばたやすく触れられる距離。
和久宮は何かを覚悟するかのようにコクンと頷き、そっと目を閉じた。
そして僕は、甘い花の蜜に引き寄せられ……。
『メツブシ!』
『ぐぶぁッ!』
――痛い! 目ん玉超痛い! 睫毛十本くらい一気に入った感じで!
『バカめ。うちのあえかと子づくりしようなど千年早いわ』
頑張って目を開くと、和久宮のつむじで仁王立ちするヤツの姿が視えた。フンと鼻息を荒くして、両手を腰に当てる不遜なポーズで。
『うう……さっきは「ちょっとえっちなことしていい」って言ったくせに……』
『よそはよそ、うちはうち!』
『部屋変わっただけじゃん! 中の人は一緒じゃん!』
という半ばテンプレ化したやりとりをしている最中も、和久宮は睫毛を震わせながら何かを待っていた。
その瞼が持ち上がる前に、紳士な僕はその場を逃げ出した。