その4 美少女メイド誕生
「……じゃあ僕、今度こそ帰るから」
台所の食器用洗剤で、なるべく右肩を動かさないように注意しつつ手を洗ってから、青白い光を放つ蛍光灯の紐を引っ張る。和室のうすらぼんやりした裸電球の明かりだけでも、スニーカーを履くくらいはできるだろう。
「あの、西園寺君、今日は本当にありがとう……」
振り向かなくても分かる。
きっと和久宮は、胸に黒い花瓶を抱えて、顔を真っ赤にしながら頭を下げているはず。
「別に気にすんな。僕が勝手にお節介やいただけだし」
ぶっきらぼうに告げながら、僕は心の中で深いため息を吐いた。
今になって考えると、山田先生に感じたのは同族嫌悪だったのかもしれない。
目の前に困ってる奴がいると、どうしても放っておけない。
ただ一点、山田先生と違うのは僕が本物の紳士だってことだ。いくら「えっちなことしていい」と言われたとしても、実際どうしていいかわからず……。
まあ今回は、良い苺を見せていただいたということで勘弁してやる。
「あっそうだ、買い物のお金払わなきゃ」
「別にいい。こっちも美味い茶飲ましてもらったし」
「なら、お茶っ葉のおすそ分けを」
「いいから。つーかマジで帰るから」
殺虫剤を一つ空にするくらい隅々までぶちまけ、部屋の四隅に毒餌を配置し……いろいろと後始末をしている間に、外はすっかり暗くなってしまった。さすがに腹が減ってきた。
腕も使えないし今日の自炊は無し。帰りがけにコンビニでも寄って行こう。それで顔だけ洗ってさっさと寝よう……。
そんなことを考えながらスニーカーに手を伸ばしたとき。
コンコン、とノックの音。
僕は靴を手にしたまま、黒い虫さん並の素早さで台所の奥へ後退りした。そして和久宮とアイコンタクトをとる。
和久宮は花瓶を畳の上に置き、何やら厳しい面持ちで玄関へ向かう。
もしや、和久宮の親御さんが帰ってきたのでは……?
だとしたらこの状況はマズイ。いや別に何らやましいことはないけれど――
「……どなた、ですか?」
やたらビクビクしながら、和久宮がほんの五センチだけドアを開ける。どうやら親御さんじゃないようだと、僕はホッとしかけて。
『あえか、開けちゃダメ!』
花瓶から鋭い声が飛ぶ、と同時、ガッとドアが引かれ誰かの靴先が捩込まれた。黒くて小汚い革靴だ。
「あえかちゃん、こーんばーんわー」
唖然として立ちすくむ僕の耳に、ねっとりとした若い男の声が届いた。
和久宮の頭に妖精が止まり、『早く閉めて!』と号令をかける。しかし妖精のパワーは昨日の半分。ドアノブを握る和久宮の手はあまりにも細く頼りなく、ジワジワと隙間が広がっていく。
そのとき初めて、この部屋のドアには覗き穴もなければチェーンもないと気付いた。なんてボロ家だ!
「今日は遅くなってごめんね、ゼミが長引いちゃってさー」
「や、帰ってください……!」
「やだなあ、お隣りどうし仲良くしようって頭下げてきたのは、君の方じゃないか。今日こそ一緒にご飯食べ行こう。それともコンビニで買って、ボクの部屋で食べようか?」
『やー!』
「や、です……!」
短い会話のやりとりだけで、ドアの向こうの人物が何者なのかは分かった。
コイツは隣人の大学生。そして多分ストーカー予備軍。
今僕が追い払うのは簡単だけど、下手に逆上させて行動がエスカレートしたら……。
なんて、迷っている暇は無かった。
『ヘンタイ!』
「へんた――」
と、叫びかけた和久宮の口を背後から塞いだ。そしてくらりと倒れかけたその身体を片腕で支えつつ、玄関の向こうへと睨みをきかせる。
ドアが開き、現れたのはヒキガエルみたいな顔をした背の低い男だった。
「あえかちゃ……え?」
「え、じゃねぇよ。人の家に勝手にあがってくんな」
吐き捨てた僕の声が、生温い空気を抉った。そいつの浮かれ切った頭を凍らせるには充分過ぎる冷たさで。
「な、なんで……あえかちゃん、一人暮らしだったはずじゃ」
「僕は“あえか”の兄だが、うちの妹に何の用だ?」
咄嗟についた嘘はリアリティ百パーセントだった。こうして妹に纏わり付くハエ野郎を追い払うのは慣れている。
案の定、ヤツは「ひいッ!」と情けない声で叫ぶやバタバタと走り去った。階段を駆け降りていく足音が途中で転げ落ちる音に変わったことから、相当慌てていると分かる。
逆に言えば、相当舐めていたのだろう。この部屋の住人を。
「おい、生きてるか」
「……はい……」
支えていた腕を離すと、和久宮はよろめきながらもなんとか両足で踏ん張った。そのつむじからぴょんと妖精が飛び上がる。
『マモノ、よくやったぞ! おまえマモノのくせに、いいやつだな!』
「うるせぇ……いや、今のは和久宮に言ったんじゃなくて」
僕は耳元をパタパタ飛ぶ妖精を、シッシッと追い払う。今はお前に構ってる場合じゃない。
「さっきのヤツ、妙なこと言ってたな……お前が一人暮らしだとか。ここには両親と三人で住んでるんだよな?」
虫退治で開けた押し入れの中には、確かに親子三人分の布団と荷物がぎゅうぎゅうに詰まっていた。玄関の靴箱にもメンズの靴とパンプスがあった。
でもよく考えると、この台所にはさほど料理をしている痕跡が感じられない。
冷蔵庫が無いから生鮮品は少ないにしても、じゃがいもや玉葱など日持ちする野菜も置いていないし、そういえば鍋やフライパンも百円均一で扱っている極小サイズしか見かけなかった気がする。
「つーか、ご両親はどこに勤めてる? いつ頃帰ってくるんだ?」
「それは、その……」
もにょもにょといいよどむ和久宮のつむじに、妖精が止まった。
『こいつ良いマモノだから、言っちゃえー』
呑気な号令が、和久宮の重たい口を開かせた。
「その、お父さんは、ちょっと魚釣りに」
「場所は?」
「ペルー沖……」
……。
……。
なるほど、かの有名なマグロ漁船か。
「じゃあ奥さんの方は?」
「その、お母さんは、ちょっと潮干狩りに」
「場所は?」
「能登半島……」
……。
……。
なるほど、海女さんのアワビ漁か。
「ってことは、さっきのヤツの言った通りか。お前この部屋で一人暮らししてたんだな。いつからだ?」
「今月から……だけど、一人暮らしじゃない。たった一年離れてるだけ」
「まだ四月の三週目だぞ? こんなトコで一年もやってけんのかよ」
「大丈夫だもん! 約束したんだからッ、一年だけ頑張るって……学校も絶対休まない、絶対特待生になるって……!」
両手をギュッと握って、力いっぱい叫ぶ和久宮。その声には既に涙が滲んでいる。これはきっと悔し涙だ。
そうやって自分を奮い立たせながら、コイツはずっと……。
自ずと深いため息が漏れる。
僕は和久宮を甘く見ていた。まさか一人前のマーボ豆腐を作ってるなんて思いもしなかった。偶然聴いてしまった例の寝言も、幼い頃に死別したという実の両親のことだろうと。
でもそうじゃなかった。
和久宮はこんな薄暗い部屋で、毎日一人ぼっちだったんだ。だから朝早く学校に来て、夜遅くまで残って。
……ここまで事情を知ってしまったら、もうしょうがない。
「和久宮、風呂と寝巻の用意してこい」
「えッ」
「五分だけ待ってやるから、チャッチャと仕度しろ。早くしないと、ヘンタイの隣人が包丁買って戻ってくるぞ」
「……やッ!」
我ながら最低な脅し文句だった。基本おっとりしたお嬢さま気質の和久宮が、危機迫る勢いで荷物をまとめる。妖精はパタパタ飛びながら『ガンバレ―』と呑気に応援。
そして五分後。
「あの……これからどこに?」
可愛らしい熊耳つきリュックを背負った和久宮に、僕は当たり前のように告げた。
「うち」
「えッ?」
「この怪我の慰謝料と、虫退治で働かされた分、まとめて恩返ししてもらうから。うちの家政婦として」