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その3 ちょっとだけえっちなことしていいから

「おーい、和久宮ー。五分経ったぞー」

『腹減ったぞー』

「腹減っ……おい、僕を操ろうとするな」

 僕は表札のないその部屋のドアをノック……できないため靴先でコンコンと蹴った。チャイムやインターホンなんてものも見当たらない、オフホワイトのペンキがハゲまくったその扉が、五センチほど開く。

「ちょ、ちょっと待って。まだ着替え終わってな」

 和久宮の言い訳は、そこで途切れた。そして――

「きゃぁぁぁぁ――ッ!」

 絹を引き裂くような悲鳴!

「和久みゴガッ!」

 外開きのドアが突然押され、正面に立つ僕の顔を殴打!

 目の前に火花が散り、鼻の奥がツンとなる。

 ふらりとよろける僕に、開いたドアの奥から飛び出した和久宮がタックル!

 そのまま通路後方の手摺りへ背中をガインと打ちつける。

「……ッてぇ……」

「出た、出たの、やなの、アレやなのッ!」

 薄汚れた通路にへたりこむ僕の胸に、一匹の子犬ならぬ一人の美少女が縋り付く。

 震える細い肩も、むきだしの背中も、腕も、足も、全てが透き通るように滑らかな肌色。

 これは見たらいけないものだ。というか、他人に絶対見せちゃいけないもの……。

 僕は一旦深呼吸。

 最低限、危険なポイントだけはちっこい布で覆われていることを確認。そしてそのちっこい布には、小さな赤い模様が散りばめられている。

 そう、和久宮のパンツの柄は……。

「いちごぉおおおお――ッ!」

 今朝を上回る、火事場の馬鹿力が爆発!

 僕は片手で軽々と和久宮を持ち上げて、ドアの内側へポイッと転がす。

 台所と思われる板の間に尻を打ち付けた和久宮が「きゃんッ」と鳴いたけれど、気にしない。速やかに次のミッションへ。

 玄関脇に置かれていたショルダーバッグをまさぐり、薄めのノートを一冊取り出す。キョロッと眼玉を動かし、下駄箱の脇をひゅんと斜めに駆け上がる黒い影をキャッチするや――振り下ろす!

「うう……ごめんなさい」

 背中越し、和久宮の謝罪が聞こえた。たぶん虫に対しての。

 満身創痍で闘った隻腕の剣士に対するねぎらいは無し。

 せめて妖精からの声援でも……と玄関脇に転がした花瓶を見やると。

『……』

 妖精は逃げていた。

 僕はノートを放り出し、代わりに鞄からティッシュを取り出す。

「あ、あの、それ……」

「ちゃんと処理しとく。だからお前は服を着ろ。話はそれからだ」

「はう! ご、ごめんなさい……」

 ……。

 ……。

 ……そして三分経過後。僕は和久宮家の居間に落ち着いていた。

「あの、祖茶です」

「ああ、悪いな……」

 生返事をしつつ、僕は室内をぐるりと見渡した。

 和久宮家の間取りは、四畳半の台所に、磨りガラスの引き戸を隔てて六畳の和室、合計十畳ちょい。

 台所には一口のガスコンロと給湯器。冷蔵庫や電子レンジなど、家電製品は一切なし。カビ臭い和式トイレの脇には、たぶん風呂と洗濯に使っているだろう巨大な金だらいが立てかけてある。

 居間の方はガランとしている。

 やたら低い木目の天井からぶら下がる電気は、生まれて初めて目にする裸電球。この明かりで勉強するのは、さすがに目が悪くなりそうだ。

 裸電球の真下には段ボール箱が置かれ、その上に二つの茶碗が置かれた。きっと茶を零せば、ふやけてお払い箱になってしまうのだろう。

「つーか、狭いな、この家」

「うん、でも家賃が安いから」

「月いくらだよ」

「五千円? 一年分で六万円払ってあるの」

「……そりゃ破格だな」

 僕は足を崩して胡座を組み、お茶を一口。

「意外と美味いな」

「お茶っ葉は、前の家で使ってたいただきもので……」

「豪邸の遺物か、なるほど」

 それから僕たちは視線を合わせないまま、ズズッと茶を啜り続けた。

 可愛らしい苺柄の上下から、パーカーにデニムのロングスカートという重装備に代わった和久宮。長い黒髪はサイドでひとつに結わえているから、赤くなった頬が丸見えだ。それが熱いお茶のせいなのか、先ほどまでの大捕物の余韻なのかは不明。

 結局僕は、ノート一冊を犠牲に三匹の敵を倒した。玄関と、流しの下と、トイレにて。

 しかし地元では虫捕りの名手『トウヤ名人』と呼ばれた僕の勘が告げる。

 この部屋には、まだ居る……と。

「殺虫剤、早めに買いに行けよ。さすがに押し入れん中漁るわけにはいかないし」

「はう……」

 噛み合わなかった視線が、初めて交わった。僕はふいと横を向く。

 今の視線だけで、厄介な感情が伝わった。

「これ以上僕をアテにされても、困るぞ」

「うう……」

「つーか腹減った。茶菓子くらいねーの?」

「ハッ、少々お待ちを……」

 和久宮は座布団から立ち上がり、恐る恐るといった歩調で台所へ向かった。

 ガラス戸の向こうから「虫さん……ごめんなさい……来ないでね……」と途切れがちな声が聞こえる。そこのエリアは隅々視たばかりだというのに、チキンなヤツだ。

 何だかドッと疲労感が湧いてきて、僕は畳の上にゴロンと横になった。低い天井の隅に蜘蛛の巣が張っている。あれも後で取り除いておこう。

「しかし、想像以上のボロ家だな……」

 北向きの窓にはベランダがなく、カーテンも無い。隣のマンションの壁が至近距離に迫っているから覗かれる心配はなさそうだ。

 親子三人、夜逃げに近い形で出てきたのか、もしくは差し押さえられてしまったのか、家具や家電のたぐいも一切ない。カーテンレールのハンガーに吊された真新しい制服が、唯一“異彩”を放っている。

 あとは、部屋の隅に置かれた家族写真、そして転がった花瓶……。

『おい、まだ寝たフリしてるつもりかよ』

『……』

『和久宮にえっちなことするぞ』

『……だ、ダメッ!』

 花瓶の口から、一円玉サイズの頭がちょこんと顔を出した。ちみっこいながらも、バツが悪そうな顔をしているのが良く分かる。

『お前「あえかを守る」とかさんざん言ってんだから、こんなときくらいちゃんと働けよ。お互い虫どうしなんだしガチバトルで』

『……む、虫じゃない!』

 花瓶の口をキュッと掴み、眉根を寄せてこっちを睨みつけてくるものの、いつものように飛んできて僕を蹴っ飛ばすようなパワーは感じられない。

 これは日頃の復讐をするチャンス。

『そーいや、さっきその花瓶の中にも一匹逃げこんだ気が』

『うきゃーッ!』

 妖精が花瓶から飛び出ると同時、お茶菓子を盆に乗せた和久宮が戻ってきた。

 僕の冗談を百パーセント真に受けた妖精が、真っ青な顔で和久宮の頭に飛びつく。そしてアホ毛にしがみついてプルプル震えながら。

『虫さん怖いの……タスケテ。ちょっとだけえっちなことしていいから』

「虫さん怖いの……助けて。ちょっとだけえっちなことしていいから」

 僕は虫さんを撲滅するべく立ち上がった。

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