その1 ヒーロー参上
翌朝。
胸に紫の小花を隠し持ち、意気揚々と登校した僕は……恐ろしい心痛に悩まされることになった。
和久宮が来ない。
毎朝一番乗りでやってきて、シコシコと予習に勤しんでいるはずが、始業五分前になっても来ない。電話をかけても『電源が入っていません』のメッセージが冷たく響くのみ。
クラスメイトたちは、不安げな顔をして僕の傍へ寄ってきた。でも日頃頼りになる『委員長』は、何の行動もできないままだ。
「西君、どうする? 皆で探しに行く?」
僕の机に手をつき、顔を覗き込んでくる牧野。皆と同じく不安に満ちた眼差しで、しきりに僕をせっつく。
「いや、まだ何か起きたって決まったわけじゃないんだ。南先生も車で動いてくれてるし、ここは大人に任せた方がいい」
「それは、そうかもしれないけど……」
牧野の顔色は、今にも倒れそうなくらい青白い。たぶん僕も酷い顔をしているんだろう。そして僕ら二人をぐるりと取り巻いているクラスメイトたちも。
最近、和久宮は変わった……皆はそう認識していた。
当然僕が動いたことも大きかったと思う。必要以上に騒ぐファンクラブの野郎どもを黙らせたことで、この教室に押しかける見物人が減り、女子たちのストレスも軽減した。
でもそれだけじゃない。和久宮自身も動いていた。
黒髪カーテン状態だった横髪を耳にかけ、周囲の気配を探るようになった。近くの席の生徒がやってくれば「おはよう」と自ら挨拶をし、授業中のグループワークでもしっかり課題に取り組んで。牧野曰く、男女が別れる体育のときには、笑顔を見せることもあったという。
そんな状況だからこそ、皆の心は不安に支配されていく。
「やっぱり探しに行こうよ。山田先生に断って、朝のホームルームの時間だけでも」
「牧野……」
「だってあえかちゃん、変なヤツに狙われてるかもしれないんでしょ? ちょっと前にそういうことがあったって噂になってるし」
……すみません、それ僕です。
とはさすがに言えなかった。代わりに僕は立ち上がる。
「分かった。でも客観的に見れば、生徒が一人遅刻したって程度の話だ。勝手に動いて騒ぎを大きくするのはマズイ。ひとまず山田先生のところに行ってくるから、皆はここで待っててくれ」
分厚く重なる人の輪が崩れ、一本の道を造り出す。僕は小花を忍ばせた左胸に手を当てながらそこを進んだ。
大丈夫、何も起きていない。たぶんうっかり寝坊したとかいう呑気なオチに決まってる。
万が一何かあろうものなら、あの小生意気な妖精が動かないわけがない。そう自分に言い聞かせようとしたのに。
『……ボーズ! 急げ!』
脳みそにダイレクトで飛び込んでくる、リーゼント先輩の叫び声。僕は一瞬息を呑む。
オープンマインドしていない“人間”の僕に、幽霊の側から接触するのは禁忌。
それなのに、声が聞こえたということは――
慌てて教室後方の引き戸を開けた瞬間、僕は叫んだ。
「――ッ、和久宮!」
僅か十メートルほど先の東階段に、小柄なシルエットが映った。
血の気を失った真っ青な顔。それでも左手には学生鞄を、右手には黒い花瓶をしっかりと持って、最後の一段を踏み締め……。
ゆらり、とその身体が斜めに傾く。
「キャアッ!」
「落ちる!」
背後から湧き上がる声より早く、僕は動いていた。
渾身の力を込めて床を蹴ると、背後から僕を押しやるような疾風が巻き起こる。その風に乗り、僕は崩れ落ちそうになる和久宮の腕を掴んだ。手すりで自分の身体を支え、和久宮を階段の上へと引っ張りあげる。その身体は勢い余って廊下に転がった。
あまりにも細く、脆い感触だった。
和久宮が相手で良かった。そうじゃなければ、僕ごときの腕力では支えられなかっただろう……そう安堵するも、無茶をした僕の右肩は嫌な方向へ捻じれたまま戻って来ない。
激痛を訴える肩を強引に動かして元の位置に戻し、何とか和久宮を抱き起こす。
「大丈夫か、和久宮! 和久宮ッ!」
完全に意識を失ったかに見えた和久宮が、僕の腕の中で静かにその瞼を開いた。
朦朧とした、空ろな眼差しで僕を見るや――
「う……うう……ッく……」
微かな、しかし苦しげな嗚咽。
震える睫毛の先から、透明な雫がポロポロと零れだす。ふっくらとした頬を滑り、顎の先から胸元のリボンタイへポタポタと落ちていく。
僕はどうしていいか分からず、視線をあちこちへ彷徨わせる。十メートル先のクラスメイトたちは呆然と立ちつくしているし、和久宮の足元に転がった花瓶から妖精が出てくる気配もない。
と、そこで僕は一つの違和感に気づいた。
花瓶の傍に散らばっているはずの小花が無い。花瓶の中は空っぽだ。
あの花がなければ、和久宮は動けない。当然妖精も……。
何かが起こったんだ。あの花を摘んで来られないような何かが。
それでも和久宮はここまでやってきた。徒歩で十五分もの道のりを、自分だけの力で。
「さい、おん……じ、くん……私……ッ」
「分かった、分かったから泣くな。良く頑張ったな。根性あるよお前」
冷え切った小さな手を握りしめ、そう声をかけてやった。
呼吸が落ち着くのを待ってから、僕は左胸の内ポケットをまさぐった。取り出した一枚のカードを、和久宮の手にそっと握らせる。
僕と和久宮だけが感じ取れる、あの柔らかな優しい輝きを。
「あ……」
プラスチックの中に閉じ込められた天使の“分身”が、傷ついた和久宮の心を包み込んでいく。とめどなく零れていた涙がようやく止まる。
僕がホッと息をついた、そのとき。
『おはよーマモノキーック!』
「――ブボァッ!」
頭の中に爆音が響き、瞼の裏で盛大な花火が打ち上がった。
そのままぐらりと斜めに傾く僕……を助けてくれる頼もしい腕など無く。僕はあえなくリノリウムの床とファーストキス。
『えっちなマモノ、成敗ッ!』
意識が途切れる直前、僕の前には腰に手を当てる不遜なポーズの妖精が映った。
その姿はなんだか戦隊モノのヒーローみたいで、ちょっとカッコ良かった。全裸だけど。




