03
研究所のフロアは全部で五階、
ひとつの研究テーマに一つのフロアが割り当てられていて、この二階部分は所長である鈴木博士の専用フロアになっている。
彼の研究テーマは、『ナノマシンの医療転用』で、ナノマシンとは、細菌や細胞よりもひとまわり小さいウイルスサイズの機械のことを言い、通常、工業部門、主に精密機械の部品製作に利用されている。
このナノマシンを、医療の分野で生かそうと言うのが、鈴木博士の、ひいては御堂晃一郎の研究テーマでもある。
優花の命を直接的に救ったのが、このナノマシンを使った試験薬だった。
目覚めた当初、博士からこの新薬の効能と予想される副作用について説明されたのだが、はっきり言って優花には、ちんぷんかんぷんだった。
そもそも、優花は『ナノマシン』という概念すら知らなかったし、優花のいた世界では、その概念も実用化には程遠い、漫画や小説の中にだけ存在する想像の産物に過ぎなかった。
博士の説明に、『はい?』とか『えーーと?』とか、ひたすら目を白黒させながら、顔に大きな疑問符を浮かべるばかりの優花に、助け舟を出したのは、晃一郎だった。
リハビリ室から、無機質な白い廊下を歩いて一分弱。
地下二階の同じフロアの一角にある自分の仮住まいに、晃一郎と並んで足を運びながら、優花は、あることを思い出して、くすくすと笑い出した。
「なんだよ?」
優花の笑いに、自分へのからかいの成分が含まれているのを察知したのか、晃一郎は不審げに眉を寄せる。
「うん、ちょっと、思い出しちゃって」
「何を?」
「御堂画伯の、ナノマシンちゃん画」
クスクス、さらに笑い続ける優花の様子に、晃一郎はヒクヒクと頬を引きつらせる。
「お前なー。そういうクダラナイことは、さっさと忘れろ。ただでさえ少ない記憶容量が、ますます狭くなるぞ」
「だって、可愛かったんだもん、あれ」
博士の説明が理解できないで困っている優花を見かねた晃一郎が、白衣の胸ポケットから引き抜いたボールペンで、おもむろにカルテの裏に描いた、ナノマシンの絵。
優花には、あれは、かなりツボだった。
丸いフォルムのボディーに、大きなつぶらな、お目目が二つ。
ボク、がんばってるぞー!
えいえいおー!
な、への字眉と口。
ぴょこん、と飛び出した細くて短い手に握られているのは、なんと針と糸。
なんだか、複数くっつくと『ぷよ~~ん』と消える、パズルゲームのキャラクターにやけに似ている。
『こういうちんまいやつらが、お前の体の中で壊れた細胞を治してるんだ、わかったか?』
いたってまじめな声と表情の晃一郎に問われた優花は、もう一度、素敵に可愛らしいそのイラストを見て、思わず『ぷっ!』と、噴き出してしまった。
――か、かわいいーーっ!
ってか、晃ちゃん、画伯すぎーーっ!
もちろん、「お前は、人の話を真面目に聞け!」と、晃一郎には睨まれてしまったが、優花はあの時、この世界に来て初めて、声を出して笑うことができたのだ。
「実は、鈴木博士に頼んで、コピーしてもらっちゃった」
「おま……博士にコピー取らせたのか?」
『人の尊敬する上司に雑用コピーを言いつける十五歳』に絶句する晃一郎を楽しげに見上げ、優花は、『えへへん!』と、胸を張る。
「今も大事に取ってあるんだ。それで、たまに眺めて、笑かしてもらってまーす」
「あっそ。お好きにどうぞー」
自分に絵のセンスなど皆無だ、と自覚しないでもない晃一郎は、あきらめたように肩をすくめた。
ついつい憎まれ口をきいてしまうが、そんな些細なことで、優花の心が和むのなら、別にそれでいい。
素直にそう言ってやれば、優花はもっと喜ぶのだろうが、晃一郎にはそんな器用な真似は、ぜったいできない。
『アンタも、たいがい不器用だねー。好きでもない女には、ヘラヘラ如才なく振舞えるのに、何やってんだか』
玲子には、そう言って呆れられるが、いまさら自分の性格を変えることなどできない。
優花の世界の晃一郎を不器用だ、などと言えた義理ではないのは、自分が一番よく知っていた。
――我ながら、よく、あいつが愛想をつかすでもなく一緒にいてくれたのか不思議だな……。
『晃一郎』
目の前の少女によく似た、でも少し澄んだトーンの懐かしい呼び声が、そのけぶるような笑顔が、脳裏に鮮やかに蘇る。
優花と接するとき、ふとした瞬間に、こうして思い出してしまう、恋人の記憶。
甘く、そして苦い思い出が、晃一郎の胸の奥に、まだ癒えぬ鋭い痛みを走らせる。
忘れたくて、
でも、忘れたくなくて、
どうしようもない気持ちをもてあまして、仕事に逃げている。
ろくに休むこともせずに、睡眠もそこそこに。
まるで、自分を追い込むかのように、考えることから逃げている。
――女々しいことこの上ないな。
こんな自分の弱い側面を見たら、きっと目の前の、この少女は幻滅するだろう。
「狭い部屋だけど、ようこそ、ウエルカム!」
「あ、ああ……」
満面の笑みに迎え入れられて、晃一郎は、優花の小さな城に足を踏み入れた。
「へぇ……」
部屋に一歩足を踏み入れた晃一郎は、目の前に広がる光景に、素直な驚きの声を上げた。
そこにあるはずの、リハビリ室や廊下と同じ、機能的だが無機質な白い空間は、まるっきり別のものに様変わりしていた。
もともとは、研究員用の仮眠施設として作られたその部屋を、晃一郎も何度か使用したことがあるが、住む人間によって、部屋の雰囲気はこんなに変わるものなのかと、感心してしまう。
部屋は十畳ほどのワンルーム形式の、バス・トイレが付いている、シンプルな洋間だ。
入ってすぐ右側には、ダイニングテーブルと食卓を兼ねた、カウンター式の簡易キッチン。
部屋の中央部分に、ソファー・セット。
一番奥に、デスクとベッドスペース。
カーテン、クッション、ベッドとソファーカバー。
ファブリックは、パステルピンクと赤白のチェック柄の組み合わせで統一されていて、なんとなくキャンディの包み紙を連想させた。
左側の壁面はすべて作りつけの収納になっていて、衣類やTVなどのAV機器も収められている。
キッチン・カウンターの上には、ミニチュアサイズの観葉植物の寄せ植えが置かれていて、鉢の縁には、陶器製の二匹のシャムネコのカップルが、互いの尻尾でハートマークを形作りながら、頬を染めて寄り添うように座っていた。
白いツードアの冷蔵庫の扉には、てんとう虫の形のキッチン・タイマーを中心に、向日葵、チューリップ、薔薇といった、花の形のマグネットが、にぎやかに貼り付いている。
――まるで、季節感を無視した花畑みたいだな。
自然と、晃一郎の頬の筋肉は緩んだ。




