13
「用は、すんだんだろう? 聞きたいことがあるから、鏡で遊んでないでちょっと来い」
「って、え、ええ? ここ女子トイレっ」
文句を言う隙もあらばこそ。
いきなり女子の聖域に乱入してきた晃一郎に、むんずと手首を掴まれた優花の頭からは、今しがた自分を見舞った怪異現象に対する恐怖心は、一気にすっ飛んでしまった。
「こ、晃ちゃん?」
そのままズンズンと人気の無い、廊下の突き当りへと連行された優花は、やっと足を止めた晃一郎の顔を驚きの眼で仰ぎ見た。
「な、なに、晃ちゃん、どうしたの?」
晃一郎の表情は、真剣そのもので、優花はわけもわからず、鼓動が早まるのを感じた。
『女子トイレに乱入してまで急いで聞きたいほど重要なこと』など、想像もつかない。
「お前、思い出したのか?」
「へ……?」
いきなり浴びせかけられた端的な質問に、優花は間の抜けた声を上げた。
端的過ぎて分からないのだ。
「何を?」
本気で首を傾げる優花の表情をじっと見つめていた晃一郎は、はぁーっと一つ大きなため息をついた。
「いや、いい。……って良くはないか。変な波動が飛んできたからてっきり……」
「え?」
ヘンナハドウ?
聞き拾った、晃一郎の呟きの意味が分からず、優花はきょとんと目を瞬かせる。
ワシャワシャワシャっと、大きな手のひらで自分の前髪をかき回し、再びため息をついた後、晃一郎は意を決したように、もう一度口を開いた。
「質問を変える。今日、何かいつもと変わったことはなかったか?」
朝、起きた瞬間から、
いや。
起きる前から、変わった事尽くめの今日の出来事を思い出しながら、優花は、 晃一郎の質問の意図が分からないまま、すうっと、晃一郎の髪を指差した。
変なこと、ダントツトップは、やはり、今目の前に居る幼なじみの、目にも鮮やかなこの金髪頭だ。
一瞬、うっと言葉に詰まった後、晃一郎は質問を続ける。
「俺のことはいい。他に変わったことは、なかったのか?」
「変わったこと、って言われても」
「大事なことなんだ。ささいなことでもいいから、思い出せ」
「う、うん……」
何だか分からないが、晃一郎の真剣すぎる眼差しに、優花は自分も真剣に考えなければならないと言う義務感に襲われ、一生懸命記憶の糸を手繰り寄せた。
「ええっと……」
とりあえず、晃一郎と手に手をとって逃避行、
なんと、キスしちゃいました!
な夢は、置いといて。
まずは、一つ目、
「体育の時間に、顔面レシーブして、卒倒した」
優花は右の手のひらをパーに開き、数えるために親指を折りこむ。
二つ目、人差し指。
「うーんと、音楽室へ行く途中、誰かに押されて階段から落ちた……でしょ?」
三つ目、中指。
チラリと、晃一郎の、渋い表情を盗み見、
「リュウ君に告られた」
早口に言う。
それと、四つ目は――、
織り込もうとした薬指は、躊躇うように途中で止まる。
ついさっき、トイレで起こった怪異現象を思い出し、背筋にゾクリと悪寒が走った。
こ、これは、
これは、気のせいかもしれないし。
うん、言う必要はないよね?
「こんな……感じ?」
「――それで、全部か?」
晃一郎は、優花の目を見据えて、静かに問うた。
声音は、静かだが、
言外に、『もっとあるはずだ思い出せ!』と言うオーラが滲み出している。
だが、いくら考えても、思い出せないものは、答えられない。
「う、うん。たぶん、全部だと思うけど……」
もごもごもごと、尻つぼみに消える優花の返事の後に、痛いくらいの沈黙が落ちた。
何かを、迷うように揺れていた自分を見つめる晃一郎の茶色の瞳が、すうっと深い色味を帯びたように見えて、優花は、息を飲んだ。
ドキン、と鼓動が大きく跳ねる。
この人は、本当に、自分の知っている、『御堂晃一郎』なのだろうか?
普通に考えれば、わくはずのない疑念が、優花の鼓動を更に早めていく。
「晃、ちゃん?」
不安になって、優花は、良く知っているはずの、幼なじみの名を呼ぶ。
晃一郎の表情が、痛みに耐えるかのように、わずかに曇った。
だが、それを振り切るように、ぎゅっと目を瞑り再び開けたとき、その瞳に宿っていた迷いの成分は、綺麗に払拭されていた。
その変化を、息も出来ずに見守っていた優花の頬に、晃一郎は、静かに左腕を伸ばすと、そっと手のひらで撫でた。
――え?
まるで、壊れ物に触れるように、密やかに。
頬に伝わる、少し冷たく感じる長い指の感触が、優花の中の何かのスイッチを押す。
クラリ、と視界が傾いだ。
――あれ?
やだ、何これ?
貧血?
クラクラと、揺れる世界。
「ごめんな……」
グルグル巡るのは、呪文のように紡がれた言葉と、頬に触れた指の感触。
そして、脳裏に浮かぶ、一面の鮮やかなオレンジの色彩。
それはまるで、沈み行く夕日を抱く空のような、どこか切ない、黄昏の色。
すうっと、吸い込まれるように、意識が闇に落ちていく。
優花の足元から力が抜けて、カクンと膝が前に落ちる。
その華奢な身体が床に倒れこむ間際、晃一郎が優花を抱きとめた。
「晃……ちゃん?」
もう時間がないのだと、
そう呟く、晃一郎の声は、既に、深い眠りに落ちた優花には届かなかった――。




