01
大音量の自分の叫び声でハッと我に返った少女、如月優花は、パチリと目を開けた。
見慣れた、白いクロス貼りの天井から淡いアイボリーの小花柄の壁紙へ、その下の、パステルピンクのカーテンの隙間から柔らかい朝日が差し込む窓辺まで、ゆるゆると視線を運ぶ。
壁掛けの鳩時計の針は、午前六時を指している。
ここは、夕暮れの街中でも、夜の帳に包まれる直前の森の中でもない。
紛れもなく、自分の部屋だった。
だとすれば、あれは――、
「夢……?」
呆然とつぶやき、
まだドキドキと激しく跳ね回る鼓動を感じながら、やたらと重い体をベッドの上に引き起こした。
もう十月だと言うのに、背中にはぐっしょりと寝汗をかいている。
頬に残る涙の後を両手で拭い取り、右手のひらを目の前でそっと開いて見つめてみれば、そこに残るのは繋いだ手の感触。
あのぬくもりが残っている気がして、ギュッと右手を握りしめた。
――また、あの夢だ。
ここ数年、何度となく繰り返し見てきた、『誰かと逃げる』夢。
最初は、まるで映画のワンシーンを繋ぎ合わせたような、脈絡のない映像の連なりにすぎなかった。
例えるなら、そう、
祖父が昔、優花が子供のころに見せてくれた秘蔵のサイレント映画のような、まったく音の無いただのモノクロ・ビジョン。
それがやがて色を持ち、音を纏い、感触を伴うようになった。
でも、こんなにリアルなのは、初めてだ。
今までは、一緒に逃げている相手が誰なのか分からなかった。
ましてや――。
「私の、ファースト・キス……」
唇に触れた時の、感触。
柔らかくて温かいあの感触が甦ってきてしまい、反射的に両手で口を覆い隠す。
――そりゃあ、夢の中のことだけど、あそこまでリアルだと、なんだかとってもショック。
その上、相手が幼なじみの『晃ちゃん』、御堂晃一郎だったなんて。
幼なじみのお隣さんで、同じ高校で、おまけに同じクラスで、ついでに隣の席で。毎日顔を突き合わせなきゃいけないのに。
うううっ。
今日、どんな顔をして会えばいいのよ、私?――
もちろん、晃一郎のことは嫌いではない。
それこそ、生まれた時からのお隣さんで、家族ぐるみのお付き合いだ。
同じ年齢なこともあって、幼い頃はまるで兄妹みたいに仲が良かった。
昔から面倒見が良くて、いつも笑わしてくれる『晃ちゃん』は、子供のころ極端に人見知りだった優花にとっては唯一の遊び相手で、幼い彼女の世界は、『晃ちゃん』の存在を中心に回っていたと言っても過言ではない。
幼稚園から高校まで見事に同じ学校で、高三になった今は同じクラスにいる。
勉強はソツなくこなし、ガリ勉ではないのにいつもテストは上位にいて、均整の取れたスラリとした肢体と高身長、スポーツ万能で運動神経は抜群。
色素の薄い茶髪と同じ色合いの明るい瞳はくっきり二重で、寝不足だとすぐ腫れぼったくなってしまう奥二重の優花からすれば、羨ましいくらいで。
性格も、明るく快活で人見知りをしない。
だから、昔から女の子にモテる。
にも関わらず、なぜか特定の彼女を作らず、いつ見ても違う女の子にモーションをかけている不思議な人でもある。
友人で作家志望の村瀬玲子の言葉を借りれば、『アレは、ただの女好き!』、と言うことになるけれど。
優花がこの夢の話をした時に玲子は、絶好の小説ネタの提供とばかりに、眼鏡の奥の瞳をキラリと輝かせて、
『夢は願望の現れだっていうよ。それは、優花が好きな男の子と手に手を取って逃げたい、つまり、『駆け落ちしたい』って心の何処かで思っているからじゃない? ついでに言えば、何かに追われたいM願望の発露! 優花って、絶対Mっ気あるよねー』
と、ニコやかにのたまった。
――まあ、M願望は無視しておくとして、
だとすれば、私は『晃ちゃんと駆け落ちしたい願望』があるってこと?
んなバカな。
確かに好きだけど、
それは、例えば『お兄ちゃん』が居たらこんな感じだろうって言う、言わば肉親への情に近い。
そう、家族よ家族っ。
だって、いつまでオネショしてたとかまで知ってる仲なのよ?
けっして、手を繋ぎたいとか、
まして、
キ、キ、キスしたいとか思っているわけじゃなくっ!――
ぴぴぴぴ――。
ベッドの上で一人、
脳内妄想を膨らませながら百面相をしていた優花は、目覚まし代わりの携帯電話のアラームに、ハッと現実に引き戻された。
「寒っ……」
背中の汗が冷えて、ヒンヤリする。
――このままじゃ風邪をひいちゃう。シャワーでも浴びて、気持ちを切り替えよう。
重い体をズルズルと引きずるように、二階の自室から階下のバスルームへと向い、洗面所兼脱衣所の外開きのドアを無造作に開け、視線を上げたその瞬間、
えっ!?
ドアノブを掴んだまま、優花の全身はものの見事にピキッ! と、固まった。
如月家は三年前に両親が交通事故で亡くなってから、優花と祖父母の三人家族。
だから、朝にシャワーを使うとしたら優花しかいない。
なのに、目の前には、今まさにシャワーを浴び終えて『お着換え中』の先客がいた。
目が覚めるような金色の頭髪を、タオルでガシガシ拭き取っているその人物の均整の取れたしなやかな肢体からは、ホカホカと湯気が上がっていて、右耳につけられた、幅一センチ程の銀色のクリップ式イヤリング、イヤーカーフが、水を弾いてキラリと鋭い光を放っている。
「ん? ああ、おはよう。シャワー使うのか?」
少し低めの、ハスキーボイスが耳朶を叩く。
「……」
ダルマさんが転んだ状態のまま硬直している優花に、ニコやかに声をかけた人物こそ、何を隠そう噂の幼なじみ、『御堂晃一郎』、その人だった。




