04
うつら、うつらと、夢と現実の狭間をたゆたいながら、優花は晃一郎の声を聞いていた。
「鈴木博士、お願いします。優花を助けてやって下さい」
波立つ感情を無理やり理性で抑え込んだような、晃一郎の、微かに震えを含んだ低い声音が響く。
数泊の沈黙の後、晃一郎よりも大分年配の男性、たぶん、年齢は四十歳そこそこ。優花の父親と同世代くらいの男性の落ち着いた声が、躊躇いがちに応じた。
「しかし御堂君、この新薬は動物実験が始まったばかりで、まだ人間に投与できる段階ではないんだ。 たとえ効果が現れたとしても、人体にどんな副作用が起こるのか予想がつかない。そんな状態のものを、誰であれ投与するわけには……」
言いよどむ、博士と呼ばれた男性の言葉を咀嚼するような空白の時が流れた後、晃一郎は再び口を開いた。
「それでも、助かる可能性が少しでもあるなら、試してやって下さい。何も出来ないで後から後悔するような真似を、俺は、二度としたくないんです」
語尾の震えに、淡々と語られる言葉の中に、大きくうねるような激しい感情の波が見えるような気がした。
「しかし、この娘は……」
「分かっています。こいつは、『俺の優花』じゃない。そんなことは百も承知です」
俺の優花、じゃない?
意味は分からない。
けれど、沈痛な、としか言えないような苦しげな晃一郎の言葉に、心の奥深い所に鈍い痛みが走った。
「それでも、やっぱり優花なんです。イレギュラーでもなんでも、間違いなく優花なんです!」
「御堂君……」
「博士。もしも今、ここに瀕死の状態で横たわっているのが博士の奥さんでも、美咲さんでも、それでもやっぱり見殺しにしますか? できますか!?」
今まで必死で抑えていた感情のタガが弾けてしまったような激しい言葉に、博士は長い溜息を吐き出した。
「痛いところを突くね、君は」
「……」
「そうだね。私が君でもやはり、今の君と同じことをするだろうと思うよ。分かった、薬を投与しよう」
ハッと息を飲むような気配の後、聞こえてきた「ありがとうございます!」という晃一郎の声がすうっと、遠のいていく。
次に、意識が浮上したのは、全身に走った激しい痛みのためだった。
「うっ……あぅっ!」
我知らず、苦痛の呻きが口をついて出る。
痛い、なんて生易しい言葉じゃ追いつかないっ。
知らない!
こんな、全身を突き抜けるような激痛を、知らない!!
特に右半身、
右側頭部、右肩、右腕、右足に、
まるで鋭い刃物で切り付けられているような、激しい痛みが走った。
瞼の向こうに光を感じても、開けることができない瞳から、とめどなく涙が溢れて頬を伝い落ちる。
ドクン、ドクンと、心臓が脈打つごとに増していく激痛から逃れようと体をよじるけど、拘束されているのか、ピクリとも動けず、全身を走り抜ける痛みにただ身もだえするしかできない。
「うぁっ、ううっ!」
「博士、何とかならないんですか!?」
ほとんど叫び声に近い、晃一郎の切迫した声が響く。
「今、鎮痛作用のある薬は使えない。脳が痛みを認識することが、この薬が働き始めるスイッチになるんだ。薬自体に痛みの元を探知させて、傷ついた個々の細胞を再生するためには、どうしても必要なことなんだ」
「薬が使えないなら、せめて俺の力で痛みを散らして――」
「それでは意味がないんだよ」
尚も食い下がる晃一郎を諭すように、穏やかな声が説明を続ける。
「皮肉なことだが、薬が効き始めて痛みが和らいだ段階でしか鎮痛剤は投与できない。この薬を使うならば、避けらないプロセスなんだ。辛いだろうがもう少し、もう少しだけこらえてくれ、御堂君」
「……くそっ。こんな時に使えない力なんて!」
吐き捨てるように言い放った後、
『ごめん。今は何もしてやれない……頑張れ、優花。頑張ってくれっ』
そっと、額に添えられた手の温もりと共に、晃一郎の心の声が、ダイレクトに頭に響いてきた。
それと同時に、痛みがすうっと遠のいて、激痛は我慢できる範囲のものに落ち着いていく。
ああ、私、助かるんだ――。
心のどこかで漠然と、自分はたぶん死ぬのだろうと思っていた優花は、この時初めて、安堵の涙を流した。




