第1話 ロンディニウム、午前三時の聖餐
午前三時のロンディニウムは、灰色の霧と煤の匂いに沈んでいた。
石畳を蒸気管が這い、街灯のガス灯が、まるで臨終の吐息のように橙色の光を漏らしている。工場地区から吹きつける風は、いつも鉄と石炭の味がした。もっとも、その味を「わかる」のは、この街の人間だけだ。
わたしには、もう、何の味もしない。
リリアナ・ヴェスパタインは、路地裏の壁にもたれ、白い息を吐いた――と、錯覚した。呼吸なんて、本当はもう必要ない。ただ、そうしていないと、自分が人間だった頃を忘れてしまう気がして。
喉が、焼ける。
鎖骨の裏側から、指先の一本一本まで、細い針でなぞられているような渇きだった。銀のロケットを握りしめる。中には、幼い妹の遺髪と、色あせた肖像画が一枚。
――アリス。まだ、生きているよ。姉さんは、まだ。
自分にそう言い聞かせた瞬間、ふ、と、路地の奥から小さな足音が近づいてきた。
「聖女様」
鈴を転がすような、しかし掠れた声だった。
振り向くと、ネルが立っていた。煤けた亜麻色の髪、袖の擦り切れたワンピース、そして――絆創膏の下に、まだ癒えきらない、細い傷跡の並ぶ首筋。
少女は微笑んだ。今夜も、当たり前の顔をして。
「今夜も、来てくれたのね」 「あたりまえです。だって、聖女様は――」 少女は自分の首元に手を当てて、恥ずかしそうに俯いた。 「あたしの血じゃないと、生きていけないんでしょう?」
その言葉が、渇きよりも深く、胸を抉る。
わたしは、答えなかった。答える資格が、なかった。ただネルの細い手を取り、指の関節にそっと唇を寄せる。血管の透けた、氷のように冷たい手。この子は、栄養が足りていない。今日もパンを買えなかったのだろう。
「ネル。今日は、やめておこう」 「……いや」 少女の緑の瞳が、ゆらりと揺れた。 「いやです、聖女様。あたしを、いらないって言わないで」
拒絶。それは彼女にとって、飢えより、寒さより、恐ろしいものだった。
わたしは、目を閉じる。
百年前、妹の氷の柩の前で、忘れ去られた神ヴェルナディスに祈った夜のことを思い出す。「妹が目覚めるその日まで、この身がどうなろうとも、生き延びさせてください」と。
神は嗤った。渇きの神は、確かに嗤ったのだ。
――よかろう、錬金術師の娘よ。ただし、汝の渇きを癒せるのは、汝を心から慕う無垢なる者の、赤き雫のみ。
なんて、残酷な契約だろう。
わたしを愛する者からしか、わたしは、生きるための糧を得られない。
ネルが、震える指で自分のリボンをほどいた。細い首筋が、ガス灯の橙にぼんやりと照らされる。青い血管が、そこに透けていた。心臓の鼓動に合わせて、かすかに脈打っている。
「聖女様。あたし、今日、パン屋さんの裏で林檎を拾ったんです。だから、いつもより、ちょっとだけ甘いかも」
少女は、そう言って笑った。
わたしの喉が、ひとりでに鳴った。
ああ、神様。あなたが忘れ去られたのも、当然だ。こんな残酷を強いる神を、誰が祀り続けられる。
わたしは少女の背中に腕を回し、その細い体を抱き寄せた。ネルの心臓の音が、耳のすぐそばで鳴っている。とくん、とくん、と。世界で一番、愛おしくて、恐ろしい音。
「ネル。……ありがとう」 「はい、聖女様」 「愛してるわ」 「――はいっ」
少女の返事が、嬉しそうに跳ねた。
わたしは牙を立てる。
温かい何かが、口の中に広がった。鉄の味も、塩気も、本当は、もうわからない。ただ、渇きだけが、少しずつ、少しずつ、鎮まっていく。
少女の腕の力が、わたしのコートを、きゅ、と握りしめる。
――このまま、飲み干してしまえたら、どんなに楽だろう。
そう思ってしまった自分に、わたしは、心の奥で泣いた。人間だった頃のわたしなら、こんなことを考えるはずがなかったのに。
妹のために、始めたはずだった。
なのに今、わたしを生かしているのは、妹ではなく、この痩せた少女の、赤い涙のような血だ。
路地の向こう、蒸気機関の唸り声が低く響く。夜が、少しずつ、明けようとしていた。
ロンディニウムの、百と一度目の朝が来る。
わたしは、まだ死ねない。




