友人の結婚式で似合わないネックレスを強要された私は、祝福をやめた。
はじめての投稿です。よろしくお願いします。
あと、ザマァはほぼありません。
「盗らないでね」
そう言って彼女はドレスの裾を翻し、振り返らずに去っていく。
庭園の小径に、私だけが取り残された。
少し離れたところから、お茶会終わりのさざめきが聞こえる。庭園の花々は午後のやわらかな陽を受けて揺れていて、風は甘い香りを運んでいた。何もかも穏やかで、何も起きていないように見えた。
けれど、私の中では何かが確かに起こっていた。私はしばらく、その場から動けなかった。
盗る。
何を。
言葉の意味を辿ろうとした瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちる。けれどそれが何なのか、まだ形にならない。驚きのようでいて怒りとは違う。ただ、今の一言で、これまで見えていたものの輪郭が、音もなく変わってしまった気がした。
やがて迎えの侍女が来る前に、私は歩き出した。砂利を踏む音が妙に大きく聞こえる。
屋敷の馬車に乗り込むと、扉が静かに閉じられた。車輪が動き出し、規則正しい振動が足元から身体へ伝わってくる。私は手袋を外して膝の上に置き、それからようやく、自分の息が浅くなっていたことに気づいた。
深く吸って、ゆっくり吐く。
あの声の調子は聞き覚えがあった。むしろ何度か聞いた気がする。わずかな疑問符と共に。
そう思った瞬間、過去のいくつかの場面が、馬車の窓に流れる景色の向こうから浮かび上がってきた。私は彼女の言葉の意味を考えていたのではない。
彼女と私の関係の意味を、ようやく考え始めていたのだ。
◇
今になって思えば、違和感は最初からあったのだと思う。ただ私は、それに名前をつけないようにしていただけだった。
彼女と親しくなったのは、まだ私に婚約者がいた頃。ある茶会で知り合い、お互いの王都邸がごく近いことがわかり、伯爵家嫡子の私と近い家格の子爵家の令嬢で年齢も同じ。小柄で心細そうな顔をしていた彼女に声をかけたのは私からだった。
伯爵家と子爵家では礼節教育の質が違う。社交界の常識に少し疎い様子の彼女をフォローすることも多かったが、それでも鳥の雛のように行動を共にしたがる彼女を、少し不器用で可愛らしいと思っていたから。
彼――アルノルトとの婚約は、家同士の取り決めから始まったものではあるが、少なくとも私にとって不幸なものではなかった。穏やかで、言葉を急がず、物事を感情だけでは量らない人。私もまた嫡子として育てられていたから、華やかな場より、相手が何を見て何を考えているかの方に関心が向くことが多かった。そういう意味で、彼と私は気楽だったのだと思う。
定期的に行われる我が家で開かれる婚約者との小さなお茶会。
その頃から彼女は、時々、私たちの席に現れ同席したがった。
それまでの彼女の振る舞いから、最初のうちは偶然だと思っていた。次に、親しさゆえなのだろうと思った。
それ以上は考えないようにしていた。
忘れられないのは、ある春の午後のお茶会だ。それはちょうど私たちの婚約一年の記念日で、私にとってはそれなりに大切な日だった。それを知っていたはずだったが、彼女は訪問してきた。
その日の彼女は、いつもより少しだけ華やかな装いをしていた。淡い、ひどく明るい色のドレスに、普段より多くのレースとフリル。彼女は小柄だから、可憐と言えばそう見えたのだろう。けれど、私の目には、椅子に腰を下ろした瞬間から、その布の広がりが妙に気になった。
テーブルの上には焼き菓子の皿、花器、銀のティーポット、薄い磁器のカップが置かれていた。ほんの少し肘を動かせば、袖口のレースが何かに触れてしまいそうな距離。
私は半分無意識に自分のカップを少しずらし、アルノルトもまた、花器を卓の中央からわずかに遠ざけた。
彼女は何も気づかない様子で、楽しそうに笑っていた。
「今日はお二人だけだったの?」
知っていたはずなのに確認するように言葉にする彼女。そう尋ねる言葉を紡ぎながら、まるで当然のように空いている椅子へ腰を下ろす。
「ええ、まあ」私はそう答えるしかなかったし、アルノルトも穏やかに一礼して迎えた。
今なら分かる。
あの時点で、もう十分におかしかった。
けれど当時の私は、友人が少し無邪気なのだと思っただけだった。むしろ、自分の心が狭いのではないかとさえ考えた。
彼女はその日、いつにも増して明るかった。笑うたびに袖のレースが揺れ、カップを取るたびにフリルが皿の縁に近づく。その度に私は先んじて茶器や皿の位置をわずかにずらす。果汁が落ちたら染みになりやすい色だと一目で分かる生地だったのに、本人はまるで気にしているそぶりはない。
私は話の合間ごとに皿の位置や匙の向きを直し、アルノルトもまた、ポットを彼女から少し遠ざけていた。
彼女は楽しそうだった。
私たちは気を遣っていた。
その単純な事実を、私はうまく言葉にできなかった。
帰り際、彼女は何気なさそうに私の腕に軽く触れて笑った。
「あなたは本当に落ち着いているわね。私、どうしてもこういう方が似合ってしまうの」
悪意のない言い方。一瞬「それは私の今日の装いが地味だということ?」という考えが過ぎる。でもそれは受け止める私の心が醜いからかもしれない。瞬時に自分の考えを否定して、私は曖昧に微笑むしかなかった。
後になって思えば、あれも比較だったのだろう。
彼女はいつも、何かを並べていた。
◇
彼が仕事で昇進した時、私は心から喜んだ。
家の事情や職務の都合で決まることも多い文官の世界とはいえ、本人の努力がまったく関係ないわけではない。アルノルトは派手な人ではなかったが、信頼を積み上げることに関しては昔から誠実だった。私はそれを知っていたし、誇らしかった。
数日後、二人だけでささやかに祝うためのお茶の約束をした。
その席に、彼女は現れた。
偶然ではないことは、手にした小箱を見てすぐ分かった。
「私からも昇進のお祝いを、と思いまして」
そう言って、彼女はアルノルトにその箱を差し出した。
私はその瞬間、何も言えなかった。
アルノルトも礼を述べながら、わずかに戸惑っていたように思う。だが彼はあくまで礼儀正しかったし、私もまた、その場を乱すほど露骨な顔はできなかった。
だから、何事もないかのように会は続いた。
彼女は楽しそうだった。
やはり、まるで最初からそこにいるのが当然のように。
「だって、あなたの大切な方でしょう?」彼女は私に向かって当たり前のようにそう言った。
「お友達の大切な方なら、私にとっても大切よ。だから私もお祝いしたかったの」
今なら、その距離感の異様さが分かる。
けれどそのときの私は、不快感を覚えたものの、不快に思う自分の心が狭いのではと考えた。善意の形をしているものを、どこから拒めばいいのか分からなかったのもある。
彼女が帰ったあと、アルノルトがぽつりと言った。
「……気を遣わせてしまったのかな」
彼もまた、あの場の輪郭を曖昧にしたままにしておこうとしたのだと思う。波風を立てたくなかったのか、私の気持ちを決めつけたくなかったのか、今では分からない。ただ、その一言の静けさは今も覚えている。
◇
彼女はよく、私の身体のことを口にした。
軽い冗談のように。親しげな距離で。少しだけ羨ましそうに。
「胸もお尻もしっかりあって羨ましいわ」そう言って笑い、それから必ず続けた。
「でも体重は私の方が少ないけど」
そうね。背の高さが頭ひとつ分くらい違いますものね、という言葉は飲み込んだ。
別の日には私の手首を取って、
「細くて綺麗な手首ね。あなたの方が華奢に見えるわ」そう感心した顔をしたあと、すぐにこう言った。
「でも私の方が色白でしょう?」
どれも、ひどく些細な会話のように聞こえた。そしてどれも、似た形をしていた。
一度こちらを上げる。
すぐに別の何かで上書きする。
私はそのたびに、どう返せばいいのか分からなかった。褒められているようでもあり、試されているようでもあり、何かの競争に知らぬ間に引き込まれているようでもあった。
ああ、そういえば。彼女は決して私に対して「綺麗」や「美しい」という言葉を発したことはなかった。事実はどうあれ儀礼的常套句ではあるのだけれど。そのかわり「私なんて」と度々言葉にして「そんなことはないわ。あなたは可愛らしいわ」という言葉を私から引き出していたなと。
けれど、私はその感覚に名前をつけなかった。
名前をつけてしまえば、友人関係の何かを疑わなければならなくなる。それが面倒だったのか、怖かったのか、今となっては分からない。
ただ、私はずっと考えないようにしていたのだと思う。
◇
その後、私とアルノルトの婚約は白紙になった。
感情のもつれではない。
彼の父君が急逝し、家督は本来予定されていた継承順を前倒しする形で長男へ移った。我が家へ婿入りする予定だったアルノルトは、突然領地を任されることになった年若い長男の補佐として家に残ることになり、彼の家にとって必要な形が変わったのだ。もともと婚約とはそういうものでもある。個人の情より、家の都合が優先されることは珍しくない。
私も嫡子として育っていたから、それを責める気にはなれなかった。寂しさがまったくなかったと言えば嘘になるが、納得はしていた。
役割が変わった。単にそれだけのことだと、私は受け止めていた。
だからこそ、庭園でのあの一言は理解しがたかったのである。
私は誰からも何も盗っていない。何かを盗ろうと考えたこともない。
彼はもう私の婚約者ではなかったし、そもそも私たちの婚約が白紙になった理由に、恋情のもつれはひとかけらも関わっていない。
そもそも私が彼女に対して何かを欲しがったことはない。
なのに彼女は、「盗らないでね」と言った。
誰から。何を。
あの言葉は、事象に対してではなく、彼女の中にある何かに向けて発せられたのだと、そのときようやく分かり始めていた。
◇
そんな折に、彼女の縁談が決まった。
隣国の名門伯爵家の嫡男だという。隣国は長く友好国であり、我が国の貴族との婚姻も珍しくはない。それに家格は申し分ない。更に長男で、家の継承に最も近い位置にいる人物だった。普通に考えれば良縁と呼ばれる話だったし、彼女もひどく浮き立っていた。
もちろん私は祝福した。少なくとも、その時点では本心で。
ただ一つだけ、引っかかるものはあった。
彼のことを耳にした時、「自分より背の低い嫁を探していたらしい」と、あまりにも軽い調子で誰かが言ったのである。
彼女は小柄だった。確か4フィート9インチ(約146cm)くらいだったと思う。可愛らしく見える体格だ。対して相手の男性は5フィートと少し(約160cm)。背の高さそれ自体は問題ではない。問題なのは、条件の立て方だった。
さらに、縁談には母親が深く関わっているという。
長男で、母と共に嫁探し。
私はその時点で、ひどく嫌な予感を覚えた。
もちろん、それだけで人を断じるつもりはなかったが、結婚というものが単に相手個人だけの問題でないことを私は知っている。どのような家へ入るのか、誰の価値観の中で暮らすことになるのか、それは令嬢にとって軽い話ではない。まして隣国は、我が国よりもはるかに女性の価値基準が低い。
礼儀は整っているが、女性の発言権は明確に狭い。夫に先立って語る女を好まない空気があり、婚姻後の女性は家の一部として扱われる傾向が強い。それを知らない貴族はいない。
私は彼女のことを案じた。
だからこそ、一度だけ、その婚約者を同席させた席を設けてほしいと頼んだのだ。大切な友人を託せる相手かどうか、見極めたかった。
その返答が、あの庭園での一言だった。
「盗らないでね」
あれで、ようやく全部が繋がった。
恋人との席に入り込んできたことも。
昇進祝いを渡したことも。
身体のことを比較したことも。
彼女はずっと、私と何かを比べていたのだ。
そして私は、最初から友人として見られていなかったのかもしれない。
彼女にとって私は、常に自分を測るための基準だったのだろう。
◇
馬車が屋敷の車寄せに滑り込んだ。
扉が開き、侍従が手を差し伸べる。私はその手に軽く触れて降りた。玄関ホールには家令が控えており、いつもと変わらない声で一礼した。
「お帰りなさいませ」
世界は何も変わっていない。家はあり、役割はあり、日々は続いている。
変わったのは私の認識だけだ。
その夜、私は自室で一人になってから、初めて「ああ」と思った。驚きでもなく、怒りでもなく、ただ理解として。
私は友人を失ったのではない。
最初から、そういう関係ではなかったのだと。
◇
その数日後、彼女から改めて茶会へ招かれた。
婚姻前の挨拶を兼ねた小さな席だという話だったが、実際には思っていたよりずっと人の多い集まりだった。談笑の輪がいくつもできていて、室内には花と香の匂いが満ちている。祝福に満ちた、華やかな空間だった。
私はひととおり挨拶を済ませ、人の流れの中に身を置いた。
彼女は以前にも増して愛らしく見えた。頬は上気し、目はきらきらと輝いていた。小柄な体に合うよう誂えられたドレスは可憐で、誰が見ても幸福そうな婚前の令嬢としての姿だ。
しばらくして、彼女が私の袖を軽く引いた。
「少しだけ、いいかしら?」
私は黙って従った。
人の輪から外れた窓辺の一角は、賑やかさが嘘のように静かだった。外では夕暮れの光が庭木の葉を透かしている。
彼女は満足そうに微笑み、小さな箱を取り出した。
「これ、あなたに」
白い手袋に包まれた指先で差し出されたそれを、私はしばらく見つめた。
蓋を開けると、濃紺の石が静かに光を返した。中央に据えられたその石の周囲を、端正な白銀細工が取り囲んでいる。繊細で、よく出来ていて、いかにも名門の意匠。
そして私は、すぐにそれが誂えられたものだと分かった。
鎖の長さ。石の大きさ。首元にぴたりと沿う作り。既製のものを選んだのではない。誰かのために、意図して作らせたものだ。
「結婚式で、これをつけて列席してほしいの」
彼女は本当に嬉しそうだった。
だからこそ、余計に冷えた。
その意匠は、彼女の婚約者の家の象徴を簡略化したものだ。中央の濃紺は、あちらの家の紋章色なのだろう。
同時に、それは我が国では別の意味を持つ色でもある。
第二王子派。
側妃腹である第二王子の瞳の色が濃紺であることから、その色は長く彼の派閥を示す象徴として扱われてきた。装飾の全てが政治を意味するわけではない。だが、結婚式という公の場で、第一王子派の家に生まれた嫡子である私が、その色と意匠を身につけて現れることが、ただの趣味で済むはずもなかった。
彼女は、そこまで考えていないのかもしれない。
あるいは、考えていても重みが分かっていないのかもしれない。
どちらでも、私にとっては同じだった。
私は箱をそっと閉じた。
「ありがとう。でも、これは受け取れないわ」
彼女の笑みが止まる。
「どうして?」
「私が身につけるべきものではないから」
それ以上は言わなかった。
説明したところで、彼女が納得するとは思えなかったし、何より、この場でその意味を口にすること自体が新たな問題を生むと分かっていた。周りに人がいないとはいえ、無人の空間ではない。
彼女は呆然と、理解できないものを見る顔で私をみた。
それから、ふいにその場へ崩れ落ちた。
「どうして……?」
最初は小さな声だった。だが次の瞬間には震え始め、明らかに周囲へ届く大きさになる。
「私はただ、大切なお友達に列席してもらいたかっただけなのに……!」
その声は、決して小さくなかった。
人々の視線が、ゆっくりこちらへ集まってくる。近くにいた令嬢が目を見開き、誰かが彼女に駆け寄った。事情を尋ねる声。宥める声。戸惑う気配。
なるほど。
なるほど、これでわたしの位置は悪役になるのか。そういう舞台設定なのね。静かにそう思った。
私はその場に立ったまま、何も言わなかった。本当は、言い返したい言葉はいくらでもあったが何を口にしても、それは「泣いている未来の幸せな花嫁に冷たいことを言う女」の形を取るだろう。彼女が今この場で本当に傷ついていることも私には分かっていた。演技ではない。彼女は本気で、自分が被害者なのだと思っているのだ。さらに私の立場は現時点では婚約が白紙になっている伯爵令嬢。そのことが、なおさら厄介なのは目に見えている。
視線の端で、年長の令嬢と目が合った。彼女は何も言わず、ただ静かに目を伏せた。それで充分だった。私は軽く一礼する。それがこの場に対する、最後の礼儀だった。箱は彼女の隣の小卓へそっと置いたまま、私は踵を返した。誰も私を責めはしなかったが、誰も私を助けもしなかった。
扉の外へ出たとき、ようやく息ができた気がした。
◇
結婚式の招待に対する返答は、私ではなく家として行った。
体面を損なわぬよう丁寧に整えられた辞退の書状が送られ、理由はあくまで形式的なものとして扱う。私個人の感情をそこへ持ち込むつもりはなかったし、持ち込むべきでもなかった。それで終わるはずだった。少なくとも、我が家の側では。
しばらくしてから、彼女がひどく傷ついているらしいと聞いた。大切な友人に祝福されなかったと、いくつかの席で涙ながらに話していたとも。
私は何も言わなかった。説明すればするほど、それは醜い言い訳と取られる。それがわからないほど私は社交界に疎いわけではない。
彼女の方は結婚後も時折手紙を寄越した。文章の調子は以前と変わらず、どこか甘えたようで、こちらが応じることを当然としている気配があった。私は最初の一通にだけ礼儀として短く返信し、それ以降の手紙はそのまま返送した。事実上の拒絶。
やがて彼女は隣国へ移った。
それでも何度か、知人を介して近況が届いた。向こうでの暮らし、夫の家の格式、義母の厳しさ、慣れない習慣。どれも表向きは幸福な報告の形をしていたが、行間には何となく想像できる息苦しさがあったが、私は何も反応しなかった。逃げたのではない。終わっているものを、終わっている形に戻しただけだ。
◇
それから数年が経ち、私もまた婿を取ることになった。
相手はほんの少しだけ私より若い、侯爵家の次男で、最初から強く印象に残るような人ではなかった。派手な才気を振りまくわけでもなく、誰より前へ出るわけでもない。ただ、気づけばいつも少し離れたところにいて、物事の重みを正しく量っている人だ。政治の話を感情で扱わず、しかし人の感情を軽んじない。
こちらが言葉にしない意図を、勝手に踏み荒らさない。そういう人だった。
私は彼を愛しているのかと問われれば、答えに迷う。少なくとも若い頃の恋情のような熱はない。だが彼となら、同じ方向を見て歩けるだろうと思えた。それで充分だった。
◇
再び彼女を見かけたのは、王都で開かれた冬の舞踏会の席だった。
隣国へ嫁いだ貴族夫人としての立場を得た彼女は、昔よりも洗練されて見えた。小柄で可憐な印象はそのままに、所作には向こうの家の格式が染みついている。背筋はよく伸び、笑みも上品だった。隣には彼女の夫であろう、やはり小柄な男性がいる。
胸元には、あの濃紺の石。相変わらず、よく似合っていた。
彼女は私に気づくと、ふっと表情を明るくした。
それは敵を見つけた顔でも、気まずさに目を逸らす顔でもなかった。むしろ――かつての味方を見つけたような、安堵に近い顔だった。そして嘗てのように礼儀を逸した態度で話しかけようと近寄ってきた。
私は伯爵家当主。
彼女は隣国の伯爵夫人。
身分として下のものから話しかけるべきではない。
「あの、お久しぶりで」
彼女の言葉を遮って私は声をかけた。
「ごきげんよう、夫人」私は礼儀どおりに会釈を返した。
それだけ。
彼女は何か続きを期待するように立ち止まったが、私はそれ以上何も差し出さなかった。懐かしさも、親しさも、説明も。もう彼女に差し出すものは何ひとつない。
向こうであなたの夫らしき方が顔を赤くしていらっしゃるけれどいいのかしら、という言葉は出さずに、私はそれとわかるよう社交的な笑みを浮かべる。
少し離れた場所で、私の婿となる人がこちらを見ている。彼は事情を細かく聞きたがらない人だったし、私も詳しく語ったことはないが、それで困ることもない。私は彼のもとへ歩み寄り、何も言わずに隣へ立った。
彼もまた、何も問わなかった。
音楽が流れ、人々が舞い、笑い声が天井へ昇っていく。その華やかな空間の中で、私はふと思った。
あの日、私が断ったのは、ネックレスではなかったのかもしれない。
誰かの物語の中で、都合よく位置づけられることそのものを断ったのだ。
彼女はきっと、今も自分を被害者だと思っているのだろう。あの時、私はただ友人に列席してほしかっただけなのに、と。
あるいは、私たちは少し行き違ってしまっただけなのだと。そう考えていても不思議ではない。
彼女は最後まで、自分のしていることを攻撃だとは思わなかった人だからだ。
だからこそ私は、離れるしかなかった。
祝福をやめたあの日から、私はようやく自分の人生を歩き始めたのだと思う。
あの日の選択を後悔したことは一度もない。
ただ言えるのは、今の私は充実している。協力者となる信頼できる夫もいる。領地経営も安定して行えているし、それで十分。
そして彼女の行く末には全く興味がない。
とても怖い話していいですか。
エピソードも言葉も、ほぼ実話なんです…。




