29 レオンの覚悟
「兄上、何を言って――」
セドリックの声が震えた。
玉座の前、戴冠を祝うはずだった広場に、どよめきが走る。貴族たちも騎士たちも、今の宣言をすぐには理解できなかった。
次期国王として名を告げられたのは、レオンではなくセドリック。
そして当のレオンは、まるですべてが決まっていたかのように、静かに立っている。
ルカは青ざめた顔で兄を見上げた。
「待って……何、それ。どういうことなの……?」
アルベールも状況がわからないまま、ぎゅっと拳を握る。
「兄上……?」
そのときだった。
広場の奥がざわめき、人垣が左右に割れた。
重い靴音とともに現れたのは、見慣れぬ紋章を掲げた一団――帝国の使者だった。
空気が一瞬で凍りつく。
先頭に立つ使者は、周囲の視線など意にも介さず、まっすぐレオンへ歩み寄った。
「これより王国は帝国の属国となる!レオン王、こちらへ」
そのひと言で、すべてを察した者たちの顔色が変わった。
セドリックが、はっと息をのむ。
「まさか……兄上……!」
次の瞬間、セドリックは駆け出していた。
レオンのもとへ向かおうとしたその腕を、左右から護衛たちが強くつかむ。
「離せ!」
セドリックが激しく身をよじる。
「離せよ!! 次の王は俺なんだろ!? なら俺の言うことを聞け!」
だが、護衛たちは苦しげに顔を歪めながらも、手を離さなかった。
「それはできません」
低い声で答えたのは、長くレオンに仕えてきた護衛騎士だった。
「レオン様の、最後のご命令なのです」
「最後、だと……?」
セドリックの目が見開かれる。
騎士は唇を噛みしめ、それでもはっきりと告げた。
「レオン様は、人質の王として、帝国に行かれることになりました」
ざわっ、と広場全体が揺れた。
ルカが息をのみ、アルベールの顔から血の気が引く。
チヨは数歩、よろめくように前へ出た。
「レオン……!」
声がかすれる。
胸の奥に押し込めていた嫌な予感が、形を持って牙をむいた。
「だめよ!」
思わず叫ぶ。
「レオン、だめよ! 死を選んではだめ!」
その声に、広場がさらにざわめいた。
「兄上!!」
セドリックが、今度は叫ぶように声を張り上げる。
王子としてではなく、弟としての叫びだった。
「ふざけるな! こんなの認めるか! 勝手に決めるな! 俺たちを置いていくなよ……!」
ルカも震える声を絞り出す。
「兄上、いやだよ……。そんなの、いやだ……!」
アルベールは唇を噛みしめ、目に涙を浮かべながら必死にこらえていた。
「兄上……行っちゃ、だめだ……」
アルベールの小さな声は、広い広場の中であまりにも頼りなく響いた。
誰もが叫び、引き止めたかった。
セドリックも、ルカも、アルベールも。チヨもまた、今すぐ駆け寄ってその手をつかみたかった。
けれど、当のレオンだけが穏やかだった。
帝国の使者の前に立つその姿は、少しも取り乱していない。むしろ、すべてを受け入れた者の静けさが、その横顔にはあった。
祝福のために掲げられた旗がはためく。
磨き上げられた石畳の上を、帝国の使者たちの靴音が規則正しく響いていく。
その音が響くたびに、レオンが本当に遠くへ行ってしまうのだと、嫌でも思い知らされた。
レオンが、ほんの一瞬だけ振り返る。
その目が弟たちを見たのか、チヨを見たのか、それともこの国そのものを見たのかはわからなかった。
けれど、その一瞬がまるで最後だと告げているようだった。
次の瞬間、セドリックの喉の奥から、引き裂かれるような叫びがほとばしった。
「兄上ぇえええ!!!!!!」
***
帝国の使者たちがレオンを連れて去ったあと、控えの間には重たい沈黙だけが残っていた。
祝賀のための衣装も飾りも、その場にいる誰にもふさわしくないものに思えた。さっきまで大勢の視線とざわめきに包まれていたはずなのに、今はひどく静かだった。
ルカは青い顔のまま椅子に座り込み、アルベールは唇を噛んでうつむいている。
セドリックだけが立ったままだった。
だが、その肩は小さく震えていた。
拳を握りしめ、今にも何かを壊してしまいそうなほど強く歯を食いしばっている。
セドリックが、ゆっくりとチヨを見た。
その目は赤く、怒りとも悲しみともつかない色に濁っていた。
「……チヨ」
かすれた声だった。
「チヨは、何か知っていたのか?」
責めるような声ではなかった。
けれど、すがるようでもあった。
チヨは小さく首を振った。
「いいえ……はっきりとは、何も。でも――」
セドリックの表情がわずかに歪む。
「あの子がずっと何かを思いつめていたのは知っているわ」
ルカが、はっと顔を上げる。
アルベールも涙で濡れた目のまま、チヨを見た。
「最初に川で出会ったときのあの子は、まるで死にに行くような顔をしていたの」
あのときの水音が、今も耳の奥によみがえる気がした。
川から流れてきた、あまりにも静かな青年。
とても、虚ろな目をしていた。
「ずっと危うさを感じていたわ。でも、最近はそれがなくなって安心していたのだけど……それは、この決断を受け入れたからだったんでしょう」
セドリックはうつむいたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く絞り出す。
「……なんでだよ」
その声は怒りより、痛みに近かった。
「なんで一人で背負うんだ。俺たちがいたのに」
ルカが震える声で言う。
「兄上、ずっと決めてたのかな……」
アルベールは小さな拳で目元をこすった。
「ボク、やだ……あんなの、やだ……」
誰も答えられない。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
入ってきたのは、レオンの護衛のひとりだった。
彼は部屋に入るなり膝をつき、深く頭を下げた。
「セドリック様。皆様に、これを」
差し出されたのは、一通の封書だった。
深い赤の封蝋には、見慣れた印が押されている。
レオンのものだった。
部屋の空気が、さらに張りつめる。
セドリックはしばらくその手紙を見つめていたが、やがて無言で受け取った。
ゆっくりと封を切る。
紙を開く音だけが、静かな部屋にやけに大きく響いた。
セドリックの視線が、最初の一文を追う。
その瞬間、彼の喉がかすかに鳴った。
そこに記されていたのは、あまりにも静かな字でつづられた言葉だった。
――この日が来ることは、ずっと前から分かっていた。
そして。
――チヨと最初に出会ったあの川で、私は死ぬはずだった。
レオンの手紙は、静かにそこから続いていた。




