27 第一王子の決心
午後の陽射しがやわらかく差し込む居間で、ルカはそわそわと落ち着かない様子で窓の外を見ていた。
「……兄上、最近ずっと元気ないよね」
ぽつりとこぼした言葉に、向かいの椅子に座っていたセドリックが肩をすくめる。
「元気がないというか、何かをずっと考えてるな」
アルベールも、むっとした顔で腕を組んだ。
「この前も、ボクがガラスを割ったのに怒らなかった」
「やっぱり変だよね?」
ルカは心配そうに眉を下げる。
「兄上が簡単に悩みを口にするタイプじゃないのが厄介なんだよな」
セドリックがため息交じりに言う。
「まぁ、みんな集まってどうしたの?」
のんびりした声とともに、チヨが茶器を持って現れた。三人ははっとして、一斉にそちらを向いた。
「チヨ!」
ルカが駆け寄る。
「兄上のことなんだ。最近、ずっと変で……」
「思いつめてる感じがするんだよな」
「そうね……」
チヨは少し考えてから、にっこりと笑った。
「じゃあ、私が聞いてくるわ」
***
城の庭園は、午後の光に包まれて静かだった。よく手入れされた芝はやわらかく、色とりどりの花が咲きそろっている。木々の葉は風に揺れ、噴水の水音がかすかに耳に心地よかった。
本当なら五人で散策していたはずだった。だが、気づけばルカは「向こうのお花、すごくきれいだから見てくる」と言い、アルベールは「あっちに珍しい蝶がいる!」と駆けていった。セドリックにいたっては、「じゃあ俺はあいつらが妙なことしないよう見てくる」と、いかにもついでのような顔で二人のあとを追っていった。
残されたのは、チヨとレオンの二人だけだった。チヨはその背中を見送りながら、ふっと笑う。
(みんな、本当にお兄さん思いなのね)
二人は庭園の奥にある白い石のベンチに腰を下ろした。花の香りがほのかに漂い、そばの木陰がやさしい涼しさをつくっている。チヨはしばらく黙って庭を眺め、それからぽつりと口を開いた。
「それで、何を悩んでいるの?」
レオンの視線が、ゆっくりと花壇の先へ落ちる。
「あなた、ここしばらくずっと難しい顔をしていたもの。弟たちも心配していたわ」
「心配をかけるつもりはなかったんだがな」
「そういうところが、余計に心配なのよ」
チヨがやわらかく言うと、レオンはかすかに苦笑した。だが、その笑みも長くは続かなかった。彼は前を向いたまま、静かに言った。
「私は……即位しようと思う」
庭園の静けさの中で、その言葉だけが妙にはっきりと響いた。チヨは驚いた顔をしなかった。ただ、静かにその言葉を受け止める。
「本来なら、もっと早く決めなければならないことだった。父上が亡くなった以上、王位を継ぐのは私の役目だ。そんなことは最初からわかっていた。だが、覚悟がなかった。王になるということは、国を、人を背負うということだ。弟たちとすらまともに話せない、そんな自分が王になっていいのか……踏ん切りがつかなかった」
レオンは少しだけ肩の力を抜き、庭園の奥へ目を向けた。
「だが最近、あいつらを見ていて思ったんだ。私が立ち止まっている間にも、弟たちはそれぞれ前へ進んでいる」
そこで、彼の声がほんの少しやわらいだ。
「セドリックは、最近ずいぶん勉強を頑張っている。あいつは昔から要領がよくて、人づきあいも上手い。だがその分、何事にも本気になりきらないところがあった。それが今は、面倒な政務の話にもきちんと向き合っている。投げ出さずに理解しようとしているし、この前の夜会でアルベールがいなくなったときも、とても頼りになった」
「ええ。あの子、気配りができるもの。もともと素質はあったのよ」
「そうだな。私より、ずっと社交の場に向いている」
レオンは苦笑まじりに言ってから、今度は少し遠くを見るように続けた。
「ルカも変わった。以前のあいつは、驚くほど内気だった。私の顔色ばかりうかがって、自分の考えを口にすることも少なかった。私がそうさせていたところもあったんだろう。だが最近のルカは、見違えるほど明るくなった。よく笑うようになったし、自分の好きなものを隠さなくなった。……それだけじゃない。兄である私に対しても、きちんと意見を言えるようになった。……少し生意気ではあるがな」
レオンの口元が、わずかにやわらぐ。
「この前の夜会でも、アルベールを探すために、苦手なはずの貴族たちと自分から会話していた。以前のあいつなら、考えられなかったことだ」
「ええ。ちゃんと強くなっているのね」
「ああ。あいつなりに、変わろうとしているんだろう」
レオンは静かにうなずいた。
「アルベールもそうだ。まだ子どもで、甘えるし、反発もする。目を離せばすぐにどこかへ行く」
「……そこは褒めるところはなかったのかしら」
「事実だ」
チヨがくすりと笑うと、レオンも少しだけ表情をゆるめた。そしてまた、まじめな顔に戻る。
「だが、最近は少しずつ王族としての自覚を持ちはじめている。以前より、周りを見て行動することが増えた。幼いなりに、自分の立場を理解しようとしているのがわかる」
花壇の向こうを見つめながら、レオンはぽつりと言った。
「私が思っていた以上に、みんなちゃんと育っていた」
チヨはその横顔を見た。誇らしさと、安堵と、少しの寂しさが、ないまぜになっているように見えた。
「だから、私だけが逃げてはいられないと思ったんだ」
チヨはしばらく黙っていた。責任感が強く、不器用で、誰よりも家族のことを見ている人。それがレオンなのだと、あらためて思う。そして、ふっと微笑んだ。
「あなたって、本当に弟思いなのね」
レオンが少しだけ目を見開く。
「……そう見えるか」
「ええ、とても」
チヨはまっすぐうなずいた。
「セドリックのことも、ルカのことも、アルベールのことも、ちゃんと見ているもの。どんなふうに頑張っているのか、どこが成長したのか、ひとつひとつちゃんと知っているでしょう?」
レオンはすぐには答えなかった。風が吹いて、木々の葉がかすかに揺れる。
「口では厳しいことも言うけれど、本当はずっと気にかけてきたのね」
「……兄だからな」
ようやく返ってきたのは、それだけだった。だが、その短い言葉の中にある思いは、十分すぎるほど伝わった。
「ええ、そうね。でも、兄だからって、ひとりで全部背負わなくてもいいのよ」
レオンがチヨを見る。
「あなたには頼れる弟たちがいるでしょう。セドリックも、ルカも、アルベールも、あなたのことをとても心配して、力になりたいと思っているわ。それは……あなたが大事に思ってきたからよ」
チヨはやわらかく微笑んだ。
「だから大丈夫。あなたなら、きっといい王様になれる」
その言葉に、レオンは少しだけ目を伏せた。何かをのみこむように、ほんのわずかに息をついてから、チヨを見る。
「……ありがとう」
その声は静かで、けれど不思議なくらいやさしかった。チヨは少しだけ目を丸くして、それからやわらかく笑う。
庭園には穏やかな静けさが満ちていた。風がそっと木々を揺らし、花の香りが淡く漂う。二人はしばらく、何も言わず並んで座っていた。
***
庭園から戻るころには、日が少し傾きはじめていた。穏やかな夕暮れの気配が満ちはじめ、花々もどこかやわらかな色合いに見える。チヨとレオンが戻ると、少し離れた木陰で待っていた三人が、いっせいに顔を上げた。
ルカはそわそわと落ち着かない様子で立ち上がり、アルベールは待ちくたびれたようにぱたぱたと駆け寄ってくる。セドリックは腕を組んだまま壁にもたれていたが、その目はしっかりと兄の顔を見ていた。
レオンはそんな弟たちを見渡して言った。
「……心配をかけてすまなかった」
三人がそろって目を見開いた。まず驚いたのは、その言葉そのものだった。レオンがこうして自分から、まっすぐ詫びることは多くない。
「兄上が謝るなんて、明日は槍でも降るのか?」
セドリックが半ば冗談めかして言う。だがその声音には、どこかほっとした響きもあった。レオンはあらためて三人を見た。
「……お前たちに話しておきたいことがある」
そのひと言で、場の空気がきゅっと引き締まる。ルカが小さく息をのみ、セドリックも腕をほどいた。アルベールまで、何か重大な話だと察したのか、口を閉じてじっと兄を見上げる。レオンはゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「私は、即位しようと思っている」
一瞬、風の音だけが聞こえた。
「……本当に?」
最初に声を出したのはルカだった。その目が、みるみるうちに大きくなる。
「兄上、本当に……そう決めたの?」
「ああ」
レオンがはっきりとうなずいた瞬間、ルカの顔がぱっと花が咲くように明るくなった。
「よかった……! ほんとうによかった……! 僕、ずっと、兄上がどうするつもりなのか気になってたんだ。兄上は何も言わないし、でもひとりで考えこんでるみたいだったし……」
言葉があふれて止まらない。
「王になるのは兄上しかいないって、僕、ずっと思ってた。……だから、すごくうれしい」
その声には、心からの安堵と喜びがにじんでいた。レオンは少し驚いたようにルカを見る。以前のルカなら、こんなふうにまっすぐ気持ちを口にすることはなかっただろう。
その隣で、セドリックがふっと笑った。
「ようやくだな、兄上。正直、いつ言い出すかと思ってた」
セドリックは肩をすくめる。だが次の瞬間、その笑みは少しだけやわらいだ。
「……でも、決めたなら、俺はうれしいよ。ま、仕方ないな。兄上が王になるっていうなら、弟の俺が支えてやりますか」
「そうか。なら勉強の量を増やすか」
「兄上、それはお手柔らかに……」
セドリックは照れくさそうに、そしてどこかうれしそうだった。
その横から、今度はアルベールがぐいっと前に出てきた。
「じゃあ、兄上が王様になるの?」
「ああ」
レオンが答えると、アルベールの顔がぱあっと輝いた。
「すごい! やっぱり兄上が王様になるんだ! そうだと思ってた!」
「そうか」
「うん! だって兄上、いちばん年上だもん!」
一瞬、全員が黙った。チヨが吹き出し、ルカが「それはそうなんだけど」と笑う。セドリックも肩を震わせた。だがアルベールはいたって真面目な顔だ。
「兄上が王様になるなら、ボクもちゃんとする。今までみたいに子どもだって言われないようにする! 勉強もするし、ちゃんと話も聞くし、勝手に走っていかない!」
「最後のだけでも守ってくれ」
セドリックが言うと、アルベールは「がんばるぞ!」と胸を張る。
その姿に、レオンの口元もゆるんだ。ほんの少し前まで、守るべき幼子だとばかり思っていた末の弟も、彼なりに前を向いている。
みんなが変わっていく。自分の知らないところで、自分が思う以上に、ちゃんと育っている。それがうれしくて。
どうしようもなく、寂しかった。
「兄上?」
ルカが不思議そうに首をかしげる。気づけばレオンは、三人をじっと見つめたまま黙っていた。
「どうしたの?」
「……いや」
レオンは静かに首を振った。
「お前たちが、思っていた以上に頼もしくなっていたんだと、あらためて思っただけだ」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。ルカがうれしそうに笑い、セドリックは少し照れたように視線をそらし、アルベールは「えへへ」と満足そうに笑う。
その顔を見て、レオンの胸の奥がまた静かに痛んだ。
「……ありがとう」
不意にこぼれたその言葉に、弟たちはそろってきょとんとした。
「兄上、今日はほんとにどうしたの?」
ルカが目をぱちぱちさせる。
「槍でも降るんじゃないか?」
「ボク、槍は嫌だ!」
チヨが吹き出した。弟たちはまた笑う。
にぎやかで、穏やかで、何でもない家族の時間だった。




