24 王子たちの旅行
「あら、別荘?」
「うん。子供のころはよく行ったんだ。湖がすごくきれいでね。空がそのまま落ちてきたみたいだった」
ルカは少し目を細めた。遠い景色を思い出しているようだった。
「へえ。それは素敵ね」
チヨが感心して言うと、そばで焼き菓子をつまんでいたアルベールがぴくりと反応した。
「湖?」
「そう。アルベールは行ったことないよね」
「ない!」
即答だった。
アルベールは身を乗り出し、きらきらした目でルカを見る。
「ボクも行きたい!」
その勢いにルカが少し笑う。
「僕も、また行きたいなって思ったんだ。……兄上が許してくれたら、だけど」
ルカが少しだけ声を落とす。
王族がそろって城を空けるとなれば、簡単な話ではない。とくに今は、レオンが休む間もなく働いているのを皆が知っていた。
だが、チヨはあっさりと言った。
「じゃあ、私が頼んでくるわ」
ルカとアルベールが同時に顔を上げる。
「チヨが?」
「ええ。そういうのはね、勢いが大事なのよ」
***
執務室では、書類の山に囲まれたレオンが静かにペンを走らせていた。
扉を叩くと、低い声が返る。
「入ってくれ」
チヨが中に入ると、レオンは書類から顔を上げた。
「ちょっとお願いがあるの」
その言い方だけで、レオンは半ば察したように目を細める。
「……嫌な予感しかしないな」
「あら、失礼ね。今回はとっても健全なお話よ」
「今回は、という言い方が不穏なんだが」
レオンが小さく息を吐く。だが、その顔にはもう、いつもの固さは少し薄れていた。
チヨは机の前まで歩いていき、両手を腰に当てた。
「ルカから聞いたの。湖のほとりに別荘があるんですって? みんなで行きたいのよ」
間を置かずに言うと、レオンはあまりにもあっさり頷いた。
「いいぞ」
チヨがぱちぱちと瞬く。
「あら。もっと渋るかと思ったわ」
「チヨに抵抗しても無駄だからな」
あまりにも真顔で言うので、チヨは思わず吹き出した。
「なによ、それ」
「事実だろう。君は一度こうと決めたら、だいたい押し切る」
「ええ、まあ、そうね」
否定しないチヨに、レオンはわずかに口元を緩めた。
「じゃあ、みんなに言ってくるわね」
「ああ」
チヨは満足そうに頷くと、くるりと踵を返して部屋を出ていった。
扉が閉まって、執務室に静けさが戻る。
レオンはしばらくその扉を見つめていたが、やがて小さく息をついた。
「……家族で行ける最後の機会かもしれないしな」
***
数日後、一行は王家の別荘へ向かった。
緑の深い森を抜け、ゆるやかな丘を越えた先に、その場所はあった。
湖は陽光を受けてきらきらと輝き、風が吹くたびに水面が細かく揺れる。遠くには山並みが連なり、空はどこまでも高かった。
岸辺には小さなボートが並んでいる。どれも二人乗りらしい。
「乗りたい!」
「湖に来たら、こういうのは外せないな」
「いいわねぇ」
チヨも楽しそうにうなずく。
そのとき、アルベールがぱっとチヨの手を取った。
「ボク、チヨと乗る!」
元気いっぱいの宣言に、チヨは目を丸くする。
「あら、うれしいわ」
「ずるい!」
すかさず声を上げたのはルカだった。
「僕だってチヨと乗りたいよ!」
「また始まった。お子様の独占欲には困ったものだな。なあ兄上――」
「いい加減にしないか、お前たち。こういうのは年長者に譲るべきだろう」
「何しれっと混ざってるんだ、兄上」
「まあまあ、落ち着きなさいな」
言い争う四人を前に、チヨは困ったように笑った。
「じゃんけんで決めればいいんじゃない?」
だが王子たちは、そろって怪訝な顔をした。
「じゃんけん?」
「まあ、知らないのね。簡単よ。私の故郷の由緒正しい勝負方法なの」
そうして、グー、チョキ、パーの説明が始まった。
拳を作るのがグー。二本指がチョキ。手のひらを広げるのがパー。グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つ。
説明を聞いた王子たちは、それぞれ難しい顔になる。
「単純に見えて奥が深いな……」
「うーん。どの手を出そうかな」
レオンは淡々と手を構え、それからふと思い出したように言った。
「じゃあ、私はパーを出す」
一瞬、沈黙。
「言っちゃった!」
ルカが叫ぶ。
「兄上、それを言ったら意味ないだろ!」
だがレオンは眉ひとつ動かさない。
その動じない様子を見て、セドリックとルカは息をのんだ。
セドリックが腕を組み、真剣な顔になる。
(いや。むしろそこが駆け引きだ。兄上なら、ここで素直にパーを出すはずがない。だが、そう思わせておいて本当にパーを出す可能性もある……!)
ルカも目を細めた。
(絶対ひっかけてくる。だけど、そこで裏を読ませて本当に――いや、待って……!)
チヨはそんな四人を見て、けらけらと笑った。
「ふふ。みんな真剣だこと」
そして全員が手を構える。
「じゃあ、いくわよ」
チヨの声が、湖畔に響いた。
「じゃん、けん……!」
***
結果。
湖の上をのんびり進む一艘のボートには、チヨとレオンが乗っていた。
別のボートからそれを見つめるセドリックとルカの顔は、そろって微妙だった。
「……なんでこうなった?」
セドリックが呟く。
「兄上、本当にパーを出したんだね……」
ルカは遠い目をした。
「しかも僕、兄上はひっかけてくると思ったのに」
「俺もだ」
二人は無言で顔を見合わせた。
完全に深読みしすぎたのである。
***
「きれいねぇ」
チヨが湖面を見つめながら言う。
「鏡みたいだわ」
「ああ」
レオンは静かに櫂を動かしながら、遠くを見た。
「ここへ来るのは久しぶりだ」
「子どものころはよく行ったってルカが言ってたわ」
「ああ。まだ父上も母上も元気だったころは、季節が変わるたびに来ていた。私は弟たちを連れて湖の周りを歩いたり、父上にボートの漕ぎ方を教わったりした」
「まあ」
「母上は体が弱かったが、この場所は気に入っていた。城より空気がいいと言って、よく湖を眺めていた」
レオンはそこでいったん言葉を切った。
櫂が水を押す。小さな波紋が広がる。
「でも、そのうち二人とも病に伏すことが多くなって、来られなくなった」
チヨは黙って聞いていた。
「最初は、また元気になれば来られると思っていたんだ。子どもだったからな。少し待てば元通りになると、本気で思っていた」
レオンは自嘲するように薄く笑った。
「だが、待っても何も戻らなかった」
その言葉は静かで、だからこそ重かった。
「父上は政務の席に出られない日が増えた。母上は寝台で過ごす時間が長くなった。城の空気も変わっていった。侍従たちは声を潜めるようになり、廊下を歩く足音まで妙に静かになった」
チヨは、ゆっくりとレオンを見た。
彼は今も前を向いていたが、その目は湖ではなく、もっと遠い過去を見ているようだった。
「私は長兄だった。だから、しっかりしなければと思った」
「ええ」
「弟たちはまだ幼かった。ルカは人の顔色ばかりうかがっていたし、セドリックは明るく振る舞っていても、何を考えているのか分からなかった。アルベールは、あのころはまだ生まれたばかりか、ようやく歩き始めたくらいだったか」
レオンの声が少しだけやわらぐ。
「泣き声がよく響いていたな」
「あら、今とあまり変わらないじゃない」
「今は泣くより騒ぐほうが多いだろう」
チヨがくすりと笑うと、レオンも小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐに消える。
「父上の代わりに、私は早く大人にならなければならなかった。剣も、学問も、礼儀も、政務も。できないとは言えなかった。言えば、誰かが困ると思った」
「……そう」
「別荘へ行きたいと思ったこともあったが、そのたびに、そんなことを言っている場合ではないと自分で飲み込んだ。遊びたいなどと言えば、弱いと思われる気がした」
チヨの胸が、少しだけきゅっと痛んだ。
目の前の男は、昔からずっと、誰にも迷惑をかけないようにと耐えてきたのだろう。
「弟たちとも、ちゃんと遊んでやれなかった」
ぽつりと、レオンが言う。
「本当は一緒に湖を走り回ったり、馬鹿なことをしたりする兄でいたかったのかもしれない。だが、気づけば叱ってばかりいた。守らなければと思うほど、厳しくなる」
「不器用ね」
「……そうだな」
その認め方があまりにも素直で、チヨは少しだけ目を細めた。
「夜になると、ときどきこの場所を思い出した」
「ここを?」
「ああ。静かで、何も急かされない場所だったからな。湖の匂いとか、風の冷たさとか、母上が笑っていた横顔とか。思い出すたびに、少しだけ息ができる気がした」
チヨは、そっと水面に手を伸ばした。
指先が触れた湖水はひんやりとして、けれどやさしい。
「寂しかったのね」
レオンは否定しなかった。
しばらくしてから、静かに言う。
「……ああ。たぶん、ずっと」
その声は小さかった。けれど、風に消えないくらいには、はっきりとしていた。
チヨはそれ以上、慰めの言葉を急がなかった。
ただ隣に座り、同じ景色を見た。
湖面が光を返し、遠くで鳥が鳴く。岸では、弟たちの声がかすかに聞こえた。アルベールのはしゃぐ声に、セドリックの気の抜けた返事、ルカの落ち着かせようとする声が混じる。
そのにぎやかさに、チヨはふっと笑う。
「でも、今はにぎやかね」
レオンも岸のほうを見た。
そこには、昔の静けさとは違う景色があった。
手のかかる弟たちがいて、言いたいことを言うチヨがいて、騒がしくて、思い通りにならなくて、それでも確かにあたたかい時間があった。
「ああ」
今度の返事には、少しだけ笑みが混じっていた。
「うるさいくらいだ」
「いいことじゃない」
「そうだな」
レオンは櫂を止めた。
ボートが湖の真ん中で、ゆるやかに揺れる。
「ここに来れてよかった」
それは穏やかな声だった。
チヨはその横顔を見つめ、何かを言おうとした。
そのときだった。
――チヨ。
声がした。
チヨははっと顔を上げ、水辺のほうを見る。
「……どうした?」
レオンが眉を寄せる。
「今、誰か……」
言いかけて、チヨは首を振った。
「ううん。気のせいかしら」
けれど、その声は妙に懐かしくて、胸の奥をそっと揺らしていた。
***
夜。
みなが寝静まったころ、チヨはそっと別荘を抜け出した。
昼からずっと気になっていたのだ。あの声が。
湖畔の空気はひんやりとしていて、月明かりが水面を青白く照らしている。昼間のやわらかい景色とは違い、夜の湖はどこか神秘的で、少しだけ人を惑わせるような静けさをまとっていた。
風が吹く。
「まあっ」
帽子がふわりと飛ばされ、水辺のほうへ転がっていく。
チヨは慌てて追いかけた。
草を踏み、石を避け、湖畔までたどり着く。帽子は水際に引っかかっていたが、手を伸ばした瞬間、また風が強く吹いた。
帽子はひらりと舞い、水の中へ落ちる。
「あらあら」
チヨは思わず水の中へ足を踏み入れた。
冷たい水が足首を包む。
その瞬間、水面がふわりと光った。
風が止み、さざ波が静かになる。まるで水面だけが別の世界につながったように、しんとした静寂が広がった。
「……まあ」
チヨはそっと水面をのぞきこむ。
そこに映っていたのは、老婆の姿ではなかった。
年を重ねる前の、あの頃の自分。
「あら? こんなに若かったかしらね」
チヨは目をしばたたいた。
「……あら? もしかして……」
思わずさらに身を乗り出した、そのときだった。
「チヨ!!」
背後から、鋭い声が飛んだ。
次の瞬間、ものすごい勢いで腕を引かれる。
「きゃ――」
体が大きく揺れ、そのまま強く抱き込まれた。
息が詰まるほどの力だった。
レオンだった。
肩で息をし、髪を乱し、血の気の引いた顔でチヨを抱きしめている。いつもの冷静さなど、どこにもなかった。
「……レオン?」
「何をしている!」
絞り出すような声だった。
怒鳴ったはずなのに、その奥にあるのは怒りではない。切羽詰まった恐怖だった。
レオンの腕が、さらに強くチヨを抱きしめる。
「行かないでくれ……!」
その声は震えていた。
チヨは目を丸くする。
長い人生を生きてきて、男の人にこんなふうに抱きしめられたのは初めてだった。胸がどきどきする。
(まあ……ドラマではよく見ていたけれど……ちょっと恥ずかしいわね)
けれど、それ以上にレオンの様子がただ事ではなかった。
「どうしたの」
「どうしたも何もあるか……!」
レオンは苦しそうに息を吐いた。
「湖を眺めていたら、急に現れて……」
言葉が途切れる。
抱きしめる腕が、震えていた。
「水の中に入っていくのが見えたとき、心臓が止まるかと思った」
レオンは顔を伏せたまま、必死に言葉を押し出すように続けた。
「あの日、何の躊躇もなく死の川に向かっていったように、いなくなるんじゃないかと……っ」
腕に込められた力が、痛いほど強い。
離す気などまるでないように。
「ここにいてくれ」
ようやく出た声は、懇願するようだった。
「頼むから、ここにいてくれ」
チヨは、ただ目を見開く。
この人が、こんなふうに誰かを引き留めるなんて思わなかった。
いつも自分の気持ちを押し殺して、平気な顔をして、弟たちのために立っている人が。今は何も取り繕えないまま、必死に自分を抱きしめている。
「弟たちには、まだチヨが必要だ」
その一言が、ひどくまっすぐで。
チヨはそんなレオンを見て、ふっとやわらかく笑った。
「大丈夫よ」
そっと、その背に手を回す。
それだけで、レオンの体がびくりと震えた。
「まだどこにも行かないわ」
やさしく、言い聞かせるように続ける。
「だってまだ、やるべきことが残ってるもの」
レオンはすぐには答えなかった。
まるでその言葉を確かめるように、しばらく黙ったままチヨを抱きしめている。
やがて、押し殺した声が落ちた。
「……本当に?」
「ええ」
チヨは少しだけいたずらっぽく笑う。
「それに、あなたにだって私は必要でしょう?」
レオンは顔を上げた。
夜の月明かりの下、その表情は隠しようもなく揺れていた。
そしてしばらくして、諦めたように、けれどひどく正直にうなずく。
「……ああ」
その声は弱く、けれど何より本音だった。
チヨの心臓がまた跳ねる。
こんなふうに誰かに必要だと言われたのは、いつぶりだろう。
レオンの腕はまだ震えていた。
それほど怖かったのだ。いなくなるかもしれないと、そう思っただけで。
チヨは少しだけ困ったように、でもうれしそうに笑った。
「もう。そんな顔をしないで」
そう言って見上げたとき、水辺のほうから声がした。
――チヨ……恋をするのよ。
チヨははっと息をのんだ。
その声は、水音にまぎれているのに、不思議なくらいはっきり聞こえた。
懐かしい声だった。
忘れるはずのない声だった。
「……姉さん?」
思わずこぼれたその言葉に、レオンがわずかに顔を上げる。
「どうした?」
チヨは水辺のほうを見たまま、小さくうなずく。
「ううん。懐かしい声が聞こえた気がして」
「……そうか」
レオンは事情までは聞かなかった。
ただ、まだ完全には落ち着かない様子で、チヨの肩を抱いたまま立っている。
その手のぬくもりが、妙にやさしかった。
チヨはそんなレオンにもたれかかるようにしながら、静かに水面へ語りかけた。
「……そうよね。やらなくちゃよね」
水面がきらりと光る。
それが返事のように思えて、チヨは少しだけ笑った。
***
翌朝。
まだ眠そうな王子たちの部屋を、チヨは勢いよく回っていた。
「みんな、起きなさい!どうしてもやらなくちゃいけないことがあるわ!」
「朝から元気すぎる……」
ルカが半目で起き上がる。
「なんだよ、そんなに大事なことなのか?」
セドリックも髪をかき上げながら欠伸をした。
アルベールは布団から顔だけ出している。
「ボクねむい……」
「で、何をするんだ?」
チヨは胸を張り、びしっと湖を指さした。
「湖といえば、決まっているでしょう」
チヨは満面の笑みで宣言した。
「鯉を、釣るのよ!」
その瞬間。
湖の向こうから、はあああ……と、深いため息のようなものが聞こえた気がした。




