23 第三王子の願い
春の陽気がやわらかく降りそそぐ庭園のはずれで、ルカはひとり、深刻な顔をしていた。
目の前には、小さな手鏡。
鏡の中の自分は、いつも通りきれいに整っている。髪も服も完璧だ。けれど今日の悩みは、そこではなかった。
「……だめだ」
ルカは低い声を出そうとして、すぐに肩を落とした。
「全然、男らしく聞こえない……」
最近、焦っていた。
セドリックは露骨なくらいチヨに構っているし、レオンも相変わらず鈍いくせに、チヨに向ける目が少しずつ変わってきている気がする。
どちらも強敵だ。
兄たちは年上で、背も高くて、いかにも頼れる男という感じがする。
それに比べて自分はどうだろう。
チヨとおしゃれの話をして、一緒にお茶を飲んで、かわいいと言われて喜んでいる。
それではだめだ。
チヨに男として見てもらいたいなら、まずは男らしくならなくてはいけない。
「……そうだ、まずは一人称だ」
ルカは真剣にうなずいた。
「今日から僕は……オレ、になる」
***
「まあ、気持ちのいい場所ね」
チヨは敷物の上に腰を下ろし、うれしそうに周囲を見回した。
若草色の芝の上に、花びらがちらちらと舞い落ちる。木漏れ日が揺れて、春の匂いが風に乗って流れていく。
籠の中には、焼き菓子と果物、温かいお茶まで入っていた。
「ルカ、ありがとう。こんな素敵な場所に連れてきてくれて」
にこりと笑いかけられて、ルカの胸がどきりと跳ねる。
だめだ、ここでいつもの僕に戻ってはいけない。
今日は違うところを見せるのだ。
「あ、あのね、チヨ。オレ……」
出だしはよかった。
けれど、その先が続かない。喉の奥で言葉がつかえて、ルカはあわてて視線をさまよわせた。
ちょうど籠の中に果物が見える。
「オレ……ンジが食べたいね」
「ええ、あるわよ。むいてあげましょうか」
「う、うん……ありがとう」
ちがう。
今のは全然ちがう。
ルカは内心で頭を抱えた。
しかしチヨは何も気づいていない様子で、器用にオレンジの皮をむいている。
白い指先がするすると動いて、つややかな果肉が現れる。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう……」
受け取ったオレンジは甘かったが、ルカの心は少しも幸せではなかった。
気を取り直して、お茶の準備を手伝う。
ふわりと風が吹いて、敷物の上に置かれた小さな包みから香草の香りが立ちのぼった。
チヨが持ってきたものだろう。
「あら、いい香り。今日はハーブティーを持ってきたの」
今度こそ自然に言うんだ、とルカはぐっと拳を握る。
「オレ……ガノって、いい香りだよね」
「ふふ」
チヨがとうとう吹き出した。
「どうしたの、ルカ。さっきから“オレ”がつく言葉ばかり選んでない?」
「!」
見抜かれていた。
ルカの耳まで一気に熱くなる。
「べ、別にそんなことないよ」
「そうかしら?」
チヨはくすくす笑いながら、いったん立ち上がって籠をごそごそ探った。
「ちょっと待っていてね」
「え?」
しばらくして、チヨは得意げな顔で木のカップを差し出した。
ふわりと甘くやさしい香りが立ちのぼる。
「はい、ルカ。カフェオレよ」
「……え?」
「さっきからオレ、オレって言ってるから、カフェオレが飲みたいのかと思ったの」
一瞬、間があいた。
それからルカは、がくりと肩を落とした。
「そうじゃないよ……!」
「あら、違ったの?」
チヨは本気で不思議そうな顔をしている。
その顔を見たら怒ることもできなくて、ルカは額を押さえた。
「でも、ルカってばこういう甘い飲み物好きでしょう」
そう言って差し出されたカフェオレは、たしかにおいしそうだった。
甘い香りに負けて受け取ると、チヨは満足そうににっこり笑う。
「ふふ、かわいいわね」
「かわ……っ」
その一言で、せっかくの男らしさ計画が音を立てて崩れていく。
ルカは唇を尖らせた。
「……そういうところだよ」
「え?」
「チヨは、すぐ僕のことをかわいいって言う」
拗ねたように言うと、チヨはぱちぱちと瞬いた。
けれど次の瞬間には、やわらかく目を細める。
「だって、本当にかわいいんだもの」
だめだ。
この人は本当に無自覚だ。
ルカがどれだけ必死で、どれだけ本気で、男として見てもらいたいと思っているのか、少しも気づいていない。
その鈍さがもどかしいのに、そんなところまで愛しく思えてしまう自分が悔しかった。
***
昼食を終えたあと、チヨは春風にあたって気持ちよさそうに目を細めていた。
「なんだか、眠くなってきたわ……」
「えっ、ここで?」
「少しくらいなら平気よ」
そう言うなり、チヨは敷物の上にころりと横になった。
木漏れ日が頬に落ち、風が髪をそっと揺らす。
あまりにも無防備で、あまりにも安心しきった寝顔だった。
ルカは思わず呆れたようにため息をつく。
「……まったく、無防備すぎだよ、チヨ」
こんな場所で、こんなふうに、誰かの前で安心して眠ってしまうなんて。
それが自分だから許しているのだとわかっていても、胸の奥がむずむずした。
もっと警戒してほしい気もするし、自分だけには気を許してくれているのだと思うと、うれしくもある。
ルカはそっと身をかがめ、眠るチヨの顔をのぞきこんだ。
白い頬がすぐそこにある。
やわらかそうで、ほんのりあたたかそうで、ひどく無防備だ。
心臓がうるさい。
こんなの、反則だ。
「……僕だって、男なんだから」
小さくつぶやく。
それは眠っているチヨには届かない、ルカ自身への言い聞かせだった。
それから、ほんの少しだけためらって。
ルカはそっと、チヨのほっぺに唇を寄せた。
羽が触れるみたいな、軽いキス。
触れた瞬間、胸がぎゅっと縮む。
自分でやったくせに、顔が熱くてたまらない。
けれど離れたあと、ルカは少しだけ得意げに笑った。
「……これでアルベールとおあいこだね」
前にアルベールが無邪気にチヨの頬へキスをして、ずるいと思ったのだ。
あれは子どもだから許されるのかもしれない。
でも、自分だってただかわいい弟枠で終わるつもりはない。
ルカは赤い顔のまま、眠るチヨに向かって小さく囁いた。
「今日はこれくらいで許してあげる。……でも僕が大人になったら、容赦しないから」
言ってから、ひとりでさらに恥ずかしくなってしまう。
けれど、少しだけ胸がすっとした。
ただ守られるだけじゃない。
ただ甘えるだけでもない。
いつかちゃんと、チヨに男として見てもらいたい。
そのための、ほんの小さな一歩だった。
***
その頃。
城の窓辺に立っていたセドリックは、遠くの草地を見下ろして目を見開いていた。
「……は?」
春の光の中、敷物の上で寄り添う二人の姿が見える。
しかも今、ルカが明らかにチヨに顔を寄せた。
見間違いではない。
どう見ても、あれは。
「ちょっと待て、待て待て待て」
セドリックは思わず窓枠に手をついた。
「ルカ、お前……!」
昨日まで“かわいい弟”みたいな顔をしていたくせに。
いや、かわいい弟だからこそ厄介なのかもしれない。
セドリックの背筋に冷たいものが走る。
「まずいぞ……兄上。ルカが本気を出したら、危ないぞ」
だが、その「まずい状況」にセドリックも含まれているのだった。




