ゼメキス05
無事上陸を果たし、後は陸路のみだった。
日程は予定通りに消化しているが、一刻も早く着かねばと気ばかりが焦る。
この焦燥が部下に伝わりはしないかと危ぶみながらも、精一杯やってくれているだろうサウム達や陛下の容体が案じられ、またその間ギゼルヌ殿下が何かしでかしてやいないかと、別な心配も湧きあがってしまえば当然浅い眠りの日が続いた。筆頭騎士としていつでも泰然としなければならないと自分に言い聞かせているのに、中々思うようにはいかない。
港町を出発して四日目の夜。少年の疲労が目に見えているとのネレイドの進言もあり、宿屋に泊ることにした。勿論、豪奢な宿ではなく日ごろ使っているような、気取りや詮索とは縁がない所をだ。ここはまだヨハスとロウリンドの国境付近、万が一にも目立ってはならない。出来れば、このまま野宿を続けるのが一番良いのだが、少年の体調を慮ればしようがあるまい。
――――それが良いことかどうかは分からないが。
宿に着いてから、自力で立つのがやっとという有様の少年の肩を支え、二階の角部屋へと連れて行った。自分の部屋は用心の為隣を確保しておく。酒場も兼ねているらしい一階からは、地元の住人が殆どを占めているらしい面々が、酒を呑んで賑やかに騒ぐ声が聞こえてくる。我々がさほど階下の彼らの目に触れていないのは気配で分かったが、油断は禁物だ。
「あ゛ーーーーーーっっっっ! 止め止め! 辛気臭ぇぞ俺っ!」
外套を脱ぎ捨て身軽な格好で埃を落とし、改めて帯剣し終えた時、元気など欠片もなかった筈の隣の部屋の少年から大声が聞こえてくる。切羽詰まったものは感じられなかったが、念の為部屋に大股で向かいはしたが、中に入るべきか扉の前でらしくもなく逡巡し―――その間に、前をまるで見ていない当人が扉を引き開け、俺とぶつかる羽目になった。
「―――――ぅえっ?」
さほどの勢いではなかったのだろう、倒れることもなく少年は一歩下がって俺を認識し―――良く分からない奇声をあげた。まだ顔色は悪いが、部屋に連れてきた時よりは血色が良くなっているのを室内の明かりで確認すれば、何故か安堵する。
「…何をしている」
「いや、こっちの台詞だけど」
尋ねてみれば、不思議そうな顔で逆に聞き返してくる。腑に落ちなかったがもう一度問いを重ねれば、何故か少年は一歩下がった。中に入れという意味かと思い、一歩進んだが、ネレイドから聞いている彼なら、口頭でその意を告げるだろうに。だがどちらにしても、とりあえずは室内に戻ってもらった方がいい。その身の安全と、体調の為にも。
「……つーか、何で前出てくんのアンタ」
ただ、そう告げることに躊躇してしまい、少年が後ずさりするように歩いていれば、寝台のほど近くまで辿り着いていた彼が投げやりにも見える態度で聞いてきた。自覚はなかったが、思い返してみれば確かに奇妙な光景だったろうから、聞きたくなるのも無理はない。
「招いていたのはお前だろう」
―――手持ちの理由にうまいのがなかったとは言え、あまりいい答えではなかったのは確かだった。少年は言葉が理解出来ないような顔をしてから(突拍子もなかったからだろう)、また大声で叫び…体力の限界だったのか、くらりと大きくその体を傾がせた。近い距離だったのが幸いだった。倒れる前に彼を支え、抱き上げることが出来て内心胸を撫で下ろす。
「…―――すまん」
謝罪の言葉が、ひとりでに漏れた。少年に聞こえたかどうかは定かではないが、聞こえなくともいいと思う。寧ろ、聞こえてはいけない気すらした。
上掛けがうまくはだけられていた寝台の上に少年を横たえて、上から掛け直す。ぐったりとしたその様子に、彼に強いている無理を今更ながらに感じる。俺よりは、懐いているネレイドがついていた方がいいだろうと、扉に向かおうとしたら服の袖をくいと引かれた。
「聞きたいこと、あんだから治るまでちょっと待ってろ」
引きはがすことは簡単だったが、その言葉に縫い止められたように動けなくなってしまって途方に暮れた。
「ゼメキス様?」
そのまま手に届く場所に椅子もなく、下手に動いて眠りについた少年を起こすにも忍びなく、扉すら閉めることが出来ずに立ちっぱなしになっていた背後から、ネレイドの声がした。さほど大きな声ではなかったが、首を巡らせ空いている掌で唇に指を一本当てる。一度小さく頷いた彼は足音を殺してこちらに近寄り、殊更に声を殺して囁いてきた。
「食事が出来ておりますが…少し後にした方がよろしいですね」
「そうだな」
「……代わりましょうか?」
そっと尋ねてきた副官に、黙って掴まれた袖を示した。それで意図が通じたのだろう、少しだけ苦笑いを浮かべて首肯を返してくる。その見慣れた笑みが、今は少しだけ重く見えてしまうのは、俺の中にある棘のせいだろうか。
その後、椅子を運ぶのも断った俺の指示を他の部下に知らせる為、きちんと扉を閉めて出て行ったネレイドの姿を、僅かな角度の視線だけで追ってから、少年に向き直った。
健康的な寝息を立ててぐっすりと眠りこんでいる姿は多少年齢よりは大柄ではあるものの、稚いとしかいいようがない。顔立ちや肌の色が違うのは、こことは異なる世界に属しているかららしいと聞いてはいたが、その性情はあくまでまっすぐな、直情的とも言える、少年のものにしか思えなかった。
確かに、特異な力を持っているのだろうとは思う。職務上魔術師と接する機会も多いが、あの銀の光は今まで見たどんな魔術とも違って見えた。…だが、確かにライル殿の推挙であろうとも、この少年でなければならない理由などあるのだろうかと、そんな疑問が頭をもたげる。
サウム達や殿下、陛下が心配な気持ちに偽りはない。魔術に頼りたくはないが、転移の術を使えればと何度思ったかしれやしない。だからこそ、その為ならと事情は承知しているだろうに、少年が逃げられないよう、余計なことを考えさせないよう、到着直前まで彼の体調など無視して無謀とも言える速度で城へ向っていたのだ。
私はローデンに忠誠を誓っている身だ、国の体面ならいざ知らず己のそれなどどうでもいい。ローデン国民ではないこの少年に恨まれようが憎まれようが、『妖し』さえどうにかなるのならば。
なのにどうして―――彼を刺激しない為だけではない、温かくも冷たくも相対出来ない無様な自分がいるのだろうか。




