第5話:夫婦の提案
緑のあぜ道はお花畑の向こうへ、どこまでも続いている。
空は広く、風は爽やか。
この場所はなんだかとても豊かだ。
ほんの数分前までマコがいた、雑居ビルの屋上の索漠とした風景はもう、どこにもない。
「何も分からないけれど……私はこの異世界に飛ばされて、もう日本にはきっと、戻れなくて……」
「そうですね。あなたはたった一人、知らない世界に転移してしまったのでしょう……不安な気持ちはお察しいたします」
ヒジリが、マコの言葉を引き継ぐようにして話す。
その声には、憐憫の情のようなものが混じっているように思った。
しかし正直なところ、元の世界にそれほど未練はない。
なにしろ、マコの人生はちっとも順風満帆ではなかった。
毎日、おもしろいことなんてひとつもなかった。
エレベーターに乗って向かう雑居ビルの屋上は、マコが死を妄想するための場所だった。
マコはいつだって、あの世界から消えてなくなることを空想していた。
思い描いた通りにあの世界から消えることができたのだから、これは本望といえるのかもしれない。
「うちに来ませんか?」
突然の言葉に、マコの思考は遮られた。
「……え?」
あまりの驚きに、少し声がかすれた。
「うちはここから歩いて5分ほど……」
ヒジリはお花畑とは反対側の風景を指さす。少し遠く、小さな住宅がぽつぽつと並んでいるのどかな風景だ。
「あそこにある、茶色い木の家。あれが私とジャスティナの家なんですが、なかなか広くて、お部屋が余っています。お嫌でなければ使ってください」
ジャスティナもニコニコしながら「うんうん」と頷いている。
「い、いえ、そんな。申し訳ない、ので」
あまりにも唐突な申し出に、マコは思いっきりうろたえた。急なことで、思考がうまくまとまらない。
「現状、何も持たないあなたに衣食住の保障はないでしょう?……私たちの提案に乗った方が、きっといいと思いますよ」
「で、でも……」
確かに、彼らの提案はあまりにも魅力的だった。しかし、甘えてしまっていいのか、それともついていってはいけないのか、判断ができない。
「それでね、先ほども言ったとおり、私たちは蕎麦屋を経営しています。この異世界でどう過ごすか、方針が決まるまでの間でもいい。お店を手伝ってみませんか?」
「あら名案!」
華やかに微笑むジャスティナ。
「え、えぇ!?」
さらなる提案に、目が回りそうになった。
とはいえ正直、声をかけてもらって助かったのかもしれない。
まったく知らない世界にひとりぼっちで放り出されたとして、非力で世間知らずな自分に何ができるだろう。何かモンスターが出るのかもしれない。治安が悪いかもしれない。それに、お金だって衣服だって、何も持っていない。
そんな状況で誰も助けてくれなかったら、早晩野垂れ死んでしまう。
「じゃあ、行きましょうか!」
ヒジリが立ち上がり、手を伸べる。
「そうね」
ジャスティナも、マコを促す。
どうやら、自分はなんらかの判断を迫られている状況にあるようだ。
「えーっと……」
声を出しながら、3秒だけ時間を稼ぐ。
それから、決断した。
「お茶を飲んでからでも、いいですか?」
そうしてから、目の前に出された紅茶をためらいなく、ぐいっと飲み干した。
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どういうわけか、ヒジリとジャスティナは保護欲に満ち満ちている。
「今夜は歓迎会ですね!なにかとっておきの晩ごはんを振る舞いましょう」
「あれがいいんじゃない?ヒジリが一番得意な鴨肉の蕎麦」
「衣服が足りないですね。街道沿いのブティックに寄りましょうか」
「バザールも見たいわね。パジャマも買いましょう!とびきりかわいいやつ!」
「必要なものがあったら何でも言ってくださいね」
「そうよ。知らない場所は心細いでしょうから何でも頼って」
そうやって2人は、街道沿いのあちこちのお店に立ち寄り、衣服や寝具、雑貨類、食料など、あらゆるものを山のように買った。
どうやら、すべてマコのためのものらしい。
「あの、そんなにしていただく、理由がありません……!」
こんな状況で呑気に構えていられるほどマコは図太くない。さすがに恐縮してしまう。
しかし。
「いいんです。私も早期退職をした身。時間もお金もそれなりに余っています」
「そうそう、今は甘えておきましょうよ。ね」
ヒジリとジャスティナはそうやってマコをとことん甘やかし、ニコニコと笑った。