第3話:異世界転移
ビルの屋上のフェンスを抜けたら、そこは異世界だった。
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東京都内の雑然としたビル街。とある雑居ビルのエレベーターに乗って[R]というボタンを押し、上昇の圧を感じながらしばし待つ。リンと聞こえたら足を踏み出す。
小さなエレベーターホールはオンボロフェンスに囲まれた屋上に続いている。薄暗いエレベーターホールの床は汚く、べたついている。
最近のマコは、東京の空隙みたいなこの狭い屋上をしょっちゅう訪れていた。
夕暮れの屋上から遙か下を見ると、少しだけ心が慰められた。
真っ黒に染まった自分の心に、一陣の風が吹き抜けるような心持ちがした。
(ビルの淵で、さらに一歩踏み出したら……)
そんな妄想をする。
落下のイメージは甘美に思えた。
痛いのを少し我慢すればこの世界から自分はいなくなる。
この小さな体はすべての機能を止め、やがて跡形もなく消え去る。
それもいいと思った。
自分は本当に死のうとしていたわけではない、と思う。
けれど、死の妄想はいつだって、マコの錆びついた心を癒してくれていた。
屋上をぐるりと囲むフェンスはサビだらけで、ところどころ破れていた。
マコはふと、フェンスに近寄る。
錆びて破れたところから、向こうに抜けられそうだと思う。
ほんの出来心だった。
マコの小柄な体は、そのフェンスの間隙を容易にすり抜けた。
一歩踏み出す。
―――しかし足元の感触は、思いがけないものだった。
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マコは、風にそよそよと揺れる、草の野道を踏みしめていた。
「え?」
視界に飛び込んできたのは、一面の草の風景だった。
さらに、右には赤い花の群生。左には白い花の群生。
少し遠くには、おもちゃのような町並み。
広々とした田舎道。草の匂いをたっぷり含んだ風が、ふわりと頬を撫でた。
硬直しながら呟く。
「私は、ついに頭が、おかしくなった」
踏み出した足を背後に向かって戻そうとして、初めて目の前の人物たちに気付く。
野道の少し先に、知らないおじさんとお姉さんが立っていた。
「ようこそ!」
「いらっしゃい」
彼らはそんな風に、優しく声をかけてきた。
まるっきり異世界風に見える彼らの衣装が、穏やかな風にそよそよと揺れていた。
「えぇ……?」
「大混乱しているでしょうけど、大丈夫ですから、落ち着いて」
男の人が歩み寄ってきた。
最初、その男の人の髪は真っ白だと思った。でも、よく見ると銀色らしい。太陽光を浴びて、きれいな銀の髪はキラキラと輝いていた。
「大丈夫なわけが……」
警戒するに越したことはない。そう思ったけれど、体はうまく動かなかった。
おじいさんと言うにはずいぶん若いけれど、お兄さんとは決して呼べない。そんな年代に見えた。
「ここは、あなたが元々いた世界とは、少し異なる別の世界です。国の名前はヒルデガルト王国郊外のフェルティというエリア。私は、ヒジリといいます。そしてこちらは……」
「こんにちは。ジャスティナです、よろしくね」
その男性の言葉を引き継ぐように、長い金色の髪をした華やかな女性が話しかけてくる。
「情報量が多くて、何も、把握できないのですが……」
目が回りそうだ。
「それなら、お茶でも飲みながらゆっくりお話しましょうか」
ヒジリと名乗った男性は、温和な印象だ。声色がとても柔らかい。
「ああ、そうだ。とりあえず。あなたの名前を、聞いてもいいですか?」
「……中原、真子です」
「マコさん、ですね」
とても優しい声で名前を呼ばれた。
わけの分からないこんな状況なのに、この男性―――ヒジリの声を聞くと、なんだかホッと安心してしまうから不思議だ。
土手の脇に作られたあぜ道には、削り出した丸太が無造作に置かれている。座れるように加工してあるその丸太は、自然のベンチとして使われているようだ。
「マコ。まあ、よかったらここに座って。……ジャスティナ」
「うん。お茶ね、オーケー」
答えた女性は、パッと指を振った。それだけの仕草だった。
自然豊かなあぜ道に、木製のテーブルが出現した。
「手品……」
ジャスティナと名乗った女性は次に、テーブルの上で指をスッ、スッと動かす。クラシカルなティーポットとカップが出現した。
「いや……これ、魔法だな……?」
さすがに察するしかない。
「そうですね。ヒルデガルトは魔法が使える国です」
混乱しすぎて倒れそうだ、と思った。それでも、言われたとおりに木製の椅子に座ってしまった。