第17話:日本からの転移者
トンボといえば、日本の秋の風景には欠かせない昆虫だ。
しかし、この異世界にはトンボがいないらしい。そうなってくると、トンボの英語名「ドラゴンフライ」を言ったときにヒジリが笑うのは不自然だ。
考えてみれば、最初から気になる点はいくつかあった。
例えば、背中のアザを治してもらったとき。
「テレビのリモコンを投げつけられた」という説明に、ヒジリはただ「……ああ」と頷いた。それはどういうものなのか、固いのか、大きいのか、といった質問はなかった。この異世界にはテレビなんてないのに。
初めて会った日にだって、違和感はあった。
「中原真子」と名乗った自分に対して、ヒジリは迷うことなく「マコさんですね」と言った。でも、どうやらこの世界で暮らす人に名字という概念はなさそうなのだ。
それならばなぜヒジリは、「ナカハラマコ」という羅列の、どの部分が名前なのかをすぐに判断できたのだろう。
年齢を伝えたときのことも気になっている。
「マコが元々いた国では18歳からが大人だ」と伝えたら、ヒジリは眉をひそめ、首を傾げた。マコがいた国のことをまったく知らないのなら、あの反応はありえない。
そしてなにより、蕎麦が証明している。
蕎麦なんてものは、完全に日本固有の文化だ。たとえこの異世界に蕎麦という植物が自生していたとしても、その植物を麺にするなんて発想に至るのはかなり難しいはずだ。
マコは一度、蕎麦を収穫して乾燥させ、殻を外して製粉するまでの一連の工程を見せてもらった。あの黒い実が美しい粉になるなんて、そしてそれを練って伸ばしておいしい麺を作れるなんて、異世界の人が思いつくだろうか。
まして、ヒジリのお店はとことん日本風だ。二八という加工方法も、そして鰹出汁を使ってスープを作ることも。
お店のたたずまいだって和風建築といった風合いに仕上げられている。ヒジリやジャスティナが仕事中に着ている作務衣みたいな服も、そして袴みたいなマコの衣装だって、みんなみんな、まるごと日本だ。
こんなお店は、日本人でなければ作れない。マコにはそう思えた。
「……転移者、ということ?」
それを尋ねようとして、少し声がかすれた。もしかすると自分は緊張しているのかもしれない、とマコは思った。
「ええ。ずいぶん前の話です。10年以上、もっと前かな……私は日本から、この世界に喚ばれました。よく店に来ている、黒いローブの魔術師、分かりますかねえ?髪の長い、なんだか陰気なくせに変な口調でしゃべるヤツです。あの魔術師が私を召喚したんです。この国を助けるために、癒しの力をもつ私が必要なのだとかなんとか言って」
ヒジリは饒舌に喋る。バレてしまった以上、隠しごとはしないというスタンスなのだろうか。
「それからはずっと、国防の補助をしていました。この国では治癒魔術の使い手は貴重で、私はそれを自在に使える体質だった。かつてこの竜の谷にはね、今とは比べ物にならないほど多くの竜が棲んでいた。中には街場までやってくるようなのもいたから、騎士隊や魔術師は軒並み、討伐に駆り出されていたんですね。そういう擾乱の中で、傷を負った戦士たちを癒すのが、私の仕事だった」
さっきのようなドラゴンがもっともっとたくさんいたなんて、想像もできない。それはどんなに恐ろしい光景だろうか、とマコは思う。
そんな場所でこの人はずっと働いてきたのだ。ドラゴンなんて存在しない日本という場所から突然この異世界に来た人が、ドラゴンがわんさかいるような最前線で仕事をすることになったのだ。どんなに怖かっただろう。
「先日も言いましたね。その仕事を続ける中で、魔力はずいぶん落ちた。十分に働いた、ということで1年ほど前にお役御免になったんですよ。国への貢献度が高かったからと、退職金をたっぷりもらいました。いやあ、思いやりの深い国で助かりました」
そういえば、蕎麦を収穫しているときにそんな話をしてくれた。
「それで、大好きな人と結婚して、街道に店を構えて。そうやって第二の人生をスタートさせて、今に至ります」
「あら嬉し。そう。実は新婚さんなの。私たち」
軽く補足して、ジャスティナは照れくさそうに笑った。