六十一 来来 〜張遼×匈奴=鎧袖一触?〜
張遼、字は文遠。あの呂布に仕え、彼の戦術戦略を残らずその身に刻みつけた将。さらに合肥という、魏呉が常に激戦を繰り広げる地で力を磨き、こと戦争においては三国の誰よりも熟練に熟練を重ねていたと言っても過言ではない。
やれ八百の兵で十万を追い返しただの、やれ呉の国では遼来来と言えば泣く赤子も黙るだの、さまざまな評判を聞く。しかしこの陳寿や、多くの民にとって一つだけわからないことがあった。もしあの将が十万の大軍を率いたら、一体どうなるのか。
「張遼様、このまま進むと、領土からおおきくはずれますが」
「龐徳よ、その領土は誰が決めた? 前漢武帝の引かれた線はまだ北ぞ」
「まさか、評定で仰せだった、国境の線に沿って進む、とはこの事なので?」
「ああ」
この将が大軍を率いるとこうなる。龐徳は、長年持っていた疑問が一つ解け、そして新たな疑問に置き換わるのを自覚する。この将が大軍を率いると、何をやらかすのか、と。
「うわあ! たくさん来たぞ! 逃げろ!」
「まて! 弱いかもしれね! 一回当たるぞ!」
「ダハハ! 勝負勝負! ぐえっ」
鎧袖一触。数百数千の部隊など、何一つ得るものなく蹴散らされていく。
「龐徳よ、はたして匈奴の全軍というのは、どれ程なのだろうな?」
「それが見当もついておりません。聞いた話では、男子はおよそ全ての者が兵としての力を持つ、という言い方ですな。中には女の兵すらもいると聞きます」
「それではわからんな。十万なのか百万なのか。百万だとこの軍では少し厳しい」
「十万の軍を率いて、百万に対して少し、ですか……」
「ああ、先ほどの者たちが、半ばくらいの強さだとしたら、そのくらいだろう。だが何が待ち構えているかは分からん。慎重に進むぞ」
「まことに慎重なら、そもそも進んでおりません」
進むにつれて、何度か万単位の軍を見かけるようになる。だがその軍は彼らを見ると、ばらばらの方向に散っていく。
「あの散り方では、本拠のようなものがどちらにあるのか、全く見当をつけられませんな」
「ああ、厄介だ。それも含めて訓練されている可能性がある」
「つまり、こちらに情報を与えない、ということでしょうか?」
「ああ」
そしてもう少し進むと、張遼は妙なことを言い出す。
「囲まれているな」
「口調と内容が合ってございませんが」
「そなたも焦っていないな」
「焦る理由はありませんな。どちらへ抜けますか?」
「抜けない。蹴散らす」
「……承知」
「八方向に散り、右回りに半周、中央に戻る。速さは問わぬ。話は聞くな! 五人で当たれ! 行け!」
「「「「応!!」」」」
なんて指示だ、と龐徳は言いたくなったが、口に出すのをなんとか抑え、張遼と真逆の方向に向かう。指示通り、向こうの声かけを無視し、忠実に五人で当たる。
「勝負! ホット? えっ!? ギャウッ」ドサッ
「げっ、みんな落ちる。まずい」ドウッ
「距離を取れ! 散るぞ! こりゃきつい!」ダダダ
相手の指揮系統も混乱したのだろうか。算を乱して逃げ去り始める。何人か、二人組で将に挑む者もいたが、全て無視して複数人で打ち払う。
そして、指示通りに動いたころには、草原は静まり返っていた。残ったのは、決して多くはない匈奴兵の遺骸と、それよりも明らかに少ない自軍の被害者。そして各軍は、再び一旦集結する。
「向こうはばらばらに散っていきました。狙い通りですか?」
「いや。与えた被害も少なく、散り方もばらばらで、拠点を追えん。目的は半ばだな」
「そうですか。兵糧も限られております。戻るしかありませんね」
「そうか。仕方ない。任せる」
「承知」
「少し走ってくる」
「えっ、あっ! どこへ!? 行ってしまった。
ですがあの方のことです。何か意味がおありなのでしょう」
その後西に抜け、河北を通って本拠に戻る。その間、彼が軍を抜けて遠駆けに行ったのは、単に頭を整理するためだけだったと聞き、龐徳はため息をつく。
その後の道中、わずかに違いがあるとしたら、
「ライライだ! 逃げるぞ!」
「ライライ? 敵わん! 勝負も出来ねえ! ダハハ!」
「ライライがライライだ! あっち行け!」
どうやら張遼は、ライライという名がつき、たいそう匈奴に嫌われたようだ。ちなみにライライは、張遼が来た、という意味の来来なのだが、匈奴にはあまり関係ないと見られる。
しかし、せっかく敵領深く侵入し、一度蹴散らしたにも関わらず、数ヶ月もしないうちに、以前と同じように匈奴の軍勢がたびたび町や村に近づくのを、龐徳は恨めしげに眺めつつ、軍を率いて対処するしかなかった。
――――
「ふふふっ、やっぱりこっちはこの人だね兄さん」
「へへへっ、そうだね」
「そしたら、やっぱりそうするのがいいね」
「うん。でも一回みんな見とこうか」
「そだね」
――――
二月後
次は、着実な指揮で多くの功績を挙げてきた張郃。龐徳も一度対峙しているため、その戦運びの緻密さと着実さはよく知っている。
そして何よりの特徴が、その軍の動きが、かならず全体戦略に対して明確に紐づいていること、とされている。その規律と無私は、劉備や諸葛亮にも大いに警戒されたと聞く。しかし今回は……
「龐徳、今回の目的はどこにあるのだ?」
「なにも」
「なにも、か。わかった。では私もなにも、だ。進むぞ」
「は、はあ……」
前回同様の困惑を隠せない龐徳。だが、あくまで演習という目的ではあるので、特に文句は出さない。
そうして、前回張遼が進軍した地点よりだいぶ手前だが、明らかに匈奴の兵が散見される地点。
「止まる」
「えっ? あ、はい。全軍停止! して、ここで何を? 特にまとまった敵影もありませんが。偵察ですか? もしくは砦を築くとか?」
「いや、なにも。ただ留まる」
「留まる……いかほど?」
「兵糧は?」
「一月ほどです。戻るのに七日ほど」
「では十日だ。留まる。襲ってきたら叩く。矢は防ぐ。近づいても何もせん」
「……承知。皆、ここは敵地ぞ! 警戒を怠るな!」
「「「応!」」」
前回の張遼もとんでもない指示だったが、ある意味それ以上の張郃。匈奴からも戸惑いの声しか聞こえない。
「どした? 何してる? 何か建てるのか?」
「矢を打っても、構えているから意味ないぞ?」
「勝負勝負! ……しないのか。何しにきた?」
そのまま少しずつ兵が集まってくるが、こちらが何もしないとみると、それ以上近づいてはこない。
そのまま数日が過ぎる。
「何も建てない。進みも戻りもしない」
「突っ込んでみ……ても反応しない」
「ほんとに突っ込んだやつはやられたぞ」
明らかに匈奴側が困惑したまま、ただ時が過ぎる。
そしてまた数日。匈奴は困惑しつつも、こちらなど存在しないかのように動いている。龐徳は、何かに気づいたようで、張郃に問いかける。
「よもや、意外な動きをすれば、匈奴側が困惑した末、なんらかの形で馬脚を表すという思惑なのですか? それとも、彼らの動きを観察しておいでですか?」
「ああ。どちらも期待半分だったが、得られたものはない。それを得た」
「はい、何も……えっ!?」
張郃の、収穫なし、という答えに納得しようとした龐徳。だが少し違うことに気づき、問いただす。
「何も得ていない、を得た? 言い間違いではなさそうですね」
「ああ。ここまでおかしな動きをしたのにも関わらず、なんら馬脚を表さない。これがどういうことか、そなたなら分かるであろう」
「馬脚を……あっ! この者らの、何も知らせない。何も分からせない。彼らにはそういう強い意思がある、ということですか? ならばこやつらは蛮族などというくくりの者らではなく。高度に意思を統一された、最強な組織ということではないですか!」
「然り。手強いぞ。早急に持ち帰る必要がありそうだな。戻るぞ龐徳。帰りは全て蹴散らす。先陣を任せた」
「御意! 帰還準備! 道中を含め、何も残すな!」
「応!」
「ん? 動いた! 戻るのか? まずい! グエッ」
「こっちか! 巻き込まれるぞ! 一回開け! ギャッ」
そうして、動き出した魏軍は、全速力で帰還する。そして張郃と龐徳を迎えたのは、前回圧倒的な力を示すも、収穫らしい収穫がなかった張遼をはじめとした、魏の主要な将官が宮殿で待っている。そんな連絡だった。
――――
「むむむっ、あやつやりおる」
「くふふっ、やられたね兄さん」
「流石にこの先ずっとこのままってならないのは、分かっていたでしょう二人とも」
「えへへっ、そうだねレイキ姉」
「レイキ姉さん、どうするんだい?」
「結局あの国は、張遼おじさんしかいないかな。だとしたら、そう持っていくしかないね。だけど油断しちゃダメだよ。向こうからもそろそろ来そうだからね」
「うん、そうだね」
「ふふふ、大丈夫だよ」
「危なかったら、まずアタシが出るから安心しな」
「へへっ。まあいいか」
「ふふっ、分かったよ」
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