五十四 仮宿 〜(鄧艾+姜維+費禕)×マニ=明後日〜
高原の大都市、エクバターナ。都市の規模ゆえか、はたまた両陣営の戦い方ゆえか、戦時中にも関わらず、争いの激しい箇所と、どちらかの支配下として仮初の平穏を保っている箇所に分かれているようだ。漢土では見られない光景。この単福とて、そのような状況に遭遇したことはない。
城内の仮宿で、今後について話を始めるが、まずは状況把握から始めていく。マニは、二つの羊皮紙を取り出す。一つはペルシャ全体、そしてもう一つは、このエクバターナなのだろう。かなり克明に位置関係が記され、それぞれ各所に印がついている。
「まず、このエクバターナを通らずに西方に行く、というのはかなり危険なんだよ。特に、ゾロアスターの信徒ではない者にとってはね。高原から西は、ほとんどサーサーン朝の影響下にあるんだけど、向こう側の誰かがいるか、聖典を持っているかしないと、一旦捕まって、荷物や金目のものは返ってくるか分からないんだよ」
「聖典、か……手に入るのか?」
「難しいね。彼らの支配域の、ある程度安定したところにいかないと難しいと思うよ。そもそも羊皮紙や紙が少ないんだ」
「だとすると、サーサーンの知っている者、か……」
「まあ、サーサーン自体ができたばかりで、元々一つの国だから、ボクにも知り合いがいないわけじゃないんだ。そうだね。だいたいこの辺りまで行けば、こっそりあなた達をその知り合いに紹介することはできる」
マニは、地図上の円形の町、中央と、南東の壁のちょうど中間あたりを指し示す。ちなみに今いるのは北東の壁のすぐ近く。
「そ、そこに行ったらお別れか? すすぐいかなきゃなんねえわけでもなかろう?」
「そ、そうだね……でも、あまり長居するのは、今後どうなるか読めないから、危険は増すとは思うよ」
鄧艾は少し考える。その次の一言が、ある意味で我々の今後の動きを、決めたと言っていいかもしれない。
「マニ、お前は、好きな人のために戦うと言っていた。そして、それが嫌いな人のためになるか、戦わなくなるか。そうも言っていた。お、俺は、矢を撃ちながら、その意味を考えていた。そしたら答えが出た。お前、その好きな人が、死ぬかもしれねえんじゃねえか? そして、死んだら敵を恨まなきゃいけねえのか?」
マニ。この少年の目は、どこかで見たことのあるような、力強さと慈愛の両方に満ち、それでいて、深淵と輝きを同時に見せる。さながら昔の主や、親友のもつ目を掛け合わせたような、そんな目をしている。
だが、鄧艾の言葉を聞いたとたん、その目の輝きは、やや昏い方に傾く。
「ふふっ、やはりあなたたちを誤魔化すのは難しいようだね。そうさ、ボクの母は、この街のサーサーン側のどこかに捕らえられているんだよ。いつどうなるか分からないんだけどね。
ボクは、父が女人禁制の門派に入信した時に、母のお腹の中にいたらしい。だから、生まれてからしばらくは、追い出された母一人に育てられた。四歳ごろに父に呼び戻されたから、母とはそれから会えていないんだ」
「か、かあちゃんと全然会えていなくて、しかもそのかあちゃんが向こうに捕まってんのか? 父ちゃんは?」
「父は、エクバターナとクテシフォンの間くらいの、比較的ゾロアスターの教義が薄い地域で、大人しく暮らしているはずだよ。母が捕えられていると知っても、心は動いてなさそうだったね。まあ教義上そうなんだろうけど。仮にも母は王族の出だし、それなりに丁重に扱うべきはずなんだけど。かと言って宗教に逃げざるを得なかった父を、一方的に責めるわけにはいかないんだよね」
「父君がゾロアスターに鞍替えすれば、パルティアの血はより厄介になる。かと言って今の宗教では母君との関係は無に等しくなる、か……どちらにしても父君の助けは望めない、か」
「そうだね。でも、ボクの力でも、ちょっとどうしたらいいかは思いつかないんだよね。だからもう、諦めて帰るべきなのかなって思う反面、まだ諦めたくないとも思っている自分もいるんだ。心が定まらねば、体はついていかない。善と悪を見定め、善の道へ行く。人の道筋はおおよそ一つのはずなのに、どちらの道かを選べないんだよ」
そうか、なるほどな……だからこその、本来なら強さと慈愛、知略を兼ね備えたような、こいつの目の輝きは、こんなにも明るく昏く、揺れ動いているのか。だが。母と聞いて、黙っていられるこの単福ではない。
「マニよ。そなた、すでに答えが出ているようにしか見えねえんだけどな。お前がここにいることが、その心を写しているんじゃねえか?」
「えっ? あっ、か、体……おおよそ近々に学んだ教義の多くでは、肉体というのは神に与えられし仮初のもの、もしくは忌むもの。どっちにしても、意思の宿るは心や御霊のみ。体が心を決めるというのは……」
「か、体が元気なら心は元気、体が病み傷つけば心も弱る。か体が神の贈り物なら、体の訴えは心の訴えの写し。か体は心の写し。かもしれねえぞ」
「体の求めに応じるは欲、心の求めを問いかけ答えるのが智。そう考えていたんだけど……」
「そ、そう考えたいのはわかる。だけど、か体の求めにそのまま答えるんじゃねえんだ。なぜ体がここにあり、なぜそそっちを向くのか。それを考えて、か体とこ心の答えを出すんだよ。そそれができねえお前じゃねえはずだ。じゃなかったら、う後ろを向いて、う馬の速さを操って矢を射るなんて、できっこねえんだよ」
「体の声を聞いて、心と体の答えを出す……」
マニは少し考える。目には光が戻りつつあるが、まだ答えが出るには足りないようだ。姜維が続いて声をかける。
「マニ、母を救いたいと思うのが、善なのかどうか、仲間を危地にさらし、救えるかも分からん母をさがす。しかも場合によっては、それがサーサーンに露見して、より一層母を危地にさらす。そんなことが善であるはずがない。そんなことをおもっていないか?」
「……それは、正しくはないの? いまボクが動いて、仲間や母、さらにはパルティアの民がより大きく傷つく。それが善とは思えないよ。なら、母とてその身は仮初。母の生をあきらめた上で、しかとその母を思いながら、この先のサーサーンの世の中で、ちゃんとその善悪を見定める。それが良いのでは、とも思ってしまうんだよ」
「そうか、そういう考えもなくはない。善と悪。その二元を普遍とするのは、考えをまとめる上では一つの指針にはなる。だがそれはな、一度でもその指針で決めたやり方を、簡単には変えられないってことを意味するんだよ。それがたとえ、窮地で選ぶ余地がほとんどない中での、割り切りや諦めであってもな」
「一度選んだら、その基準は変えられない。それが二元論……」
そして、少し傾きかけたような、でもその一押しがなんなのか、鄧艾も姜維も、そして私も考え込む。そういう時にその突破口を見つける者が、この場にはもう一人いる。
「マニ、考えてから悩むといい」
費禕だ。そしていつもどおりの費禕だ。
「???」
ほら、マニが混乱した。
「ね、眠い……俺は今日は寝る。か考えるのは明日。あ、明後日悩む」
「……すまないマニ。勝手どもりの鄧艾と、言葉足らずの費禕で」
「い、いえ……考えてから悩む? その二つの違いはどこに……
答えをもとめ、特に筋道を持たずに是非を問うのが悩み、筋道を立て理を持って策を定めるのが考え、か……あっ! つまり、どうやったら母を助けられるか、いえ、どうやったら仲間の被害を減らし、母を危地にさらすことなく助けられるか。それを、今のこの状況から、筋道を立てて練る。それをやって。どうしても何かを諦めるしか、割り切るしかなくなってから、そうしてから悩む。そう言うこと?」
費禕は頷く。鄧艾は……寝てるな。また時の差の影響が残っているのか。仕方ない。
「答えはでちゃいないが、その筋道は出たんじゃないか? 母を助けるかどうかを悩む前に、どうやったらより良い形で助けられるかを考える。いいことじゃねえか。それなら、教義や善悪を考える前に、できることからやっていけるんじゃねえか?」
マニ少年の目に、完全に輝きがもどった。その輝きは、やはりあの方の持つ力と慈愛、あいつの持つ知恵と自信にそっくりだ。
「うん、もう大丈夫だよ! あれ? でも二人くらい、ちょっともう無理かなって顔をしているね。確かに夜も遅い。みんなで考えるのは、朝でもいいかもね」
「そうしよう。マニよ、そなたもまだ大人ではない。また一人で考え始めたら、どっかからまた、考えから悩みに戻っちまう。その前に一回寝ちまうのがいいだろうな。寝れないんなら、どれか一つ、東から持ってきた書物を貸そう。こっちの言葉に直してあるから問題ないはずさ」
「えっ……えっ!? これが書物? こんな薄くて、それでこんな丈夫な紙? なにこれ??」
「東国の紙だよ。筆と墨にも驚くかもしれねえぞ。こいつらはな、向こうの国からこんなものを、西に伝えるために来たんだよ。どうだ? 面白えだろ?」
「う、うん! 面白い! すごい! こんなものがあったら、みんながみんな、いろんな考え方を読んで書いて、どんどん話を深めて、いろんな善と悪を論じて、互いのずれていることをしっかり見つめ合える! これなら、もっともっと、人は分かり合える!」
まずいか? 余計元気になったぞ。まあいい。差し当たり、今必要なのはこいつだな。善の悪のは、少し後でいいんだよ。
「よし、じゃあ差し当たりこの、孫子っていう戦略戦術の書から渡しておこう。明日明後日必要なのは、まずはこいつだろうよ」
「う、うん! わかった! ありがとう!」
「まあほどほどにな。灯も限りがあるんだろう?」
「そうだね。そうするよ。それじゃあみなさん、おやすみなさい!」
「ああ、おやすみ。考えるのは明日からだ」
「……悩むのは明後日」
鄧艾、寝言はどもらんのか。
さて、この英雄の輝きの目を持つこいつは、これからどんな人生を歩んでいくんだろうな。そんなことを考えつつ、こいつが我々に会うことがなかったら、この眼は輝きを保てただろうか、という恐ろしさもかんじつつ。
なんにせよ、頃合いを見計らって、私の正体と、私が何をのこし、何を残さなかったのかを、この熱心に書を読み進める少年や、もう寝ている若者達に、伝える時がきそうだ。そんなことを思いながら、私も寝ることにする。
お読みいただきありがとうございます。