表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
58/235

四十五 飢饉 〜(華歆+王朗+鍾繇)×陸遜=舌戦?〜

 南船北馬。南米北麦。華北が凶作でも、江東、江南が十分な実りを得られれば、漢土全土に十分な食糧が行き渡る。それはこの時代においても周知の事実だった。だが華北と華南の間に国境が存在する時期は、やや事情が異なる。これまでの歴史でもしばしば見受けられた、華北限定の飢饉。


 華北の国が、不作に対応するために多大な対価を支払って急場を凌ぐ。それは過去の戦国時代や、まだ見ぬ時代でも珍しいことではなかった。そして今回もそうなるだろうと、多くの者がそう考えていた。陸遜という、次代にその名を轟かす俊才が出現するまでは。少しばかり腹を空かせたこの陳寿とて、このたびはこの、呉国の英雄に感謝せざるを得ない。


 だがこの男、ある程度責任のある立場の者には容赦がない。襄陽から直接、魏都の許昌に向かう道中も、その舌鋒はとどまることがない。馬を走らせながら、話を弾ませる。



「程昱殿、今の農法を続けていては、頻繁に凶作となりましょう。過去に似たような事例は多々あったはずですが?」


「ああ、そうだが……この戦乱の世で新農法に手を伸ばせるものなど、そうはおらんぞ」


「人を陥れる策になど使う頭があったら、民を安ず策を考えなされませ。魏武とて、あの戦いの中で屯田の仕組みを考案されたからこそ、漢朝に取って代わる英傑として認められたのでありましょうや?」


「それは、かような事態になる前に、戦の手を止めて農政に頭を回せと申すように聞こえるが?」


「あなた様のお耳はまだご健在のようですね。まさにその通りです。この国の知者賢者は数多く、法制や文化に関しては、乱世の中でも存分に整われつつあります。しかし肝心の農政の部分で、その知者の割り当てが明らかに少ない。

 蜀漢は土地が険峻な山河で木が多いという特色から、農が少ない分を製紙を始めとした工業商業で補うという国の形を早々に描かれています。対して魏は、どのような国を目指すのか、ややそこが定まっておられぬようではありませんか?」



「耳の痛い事を。理由もわかっているのだろう?」


「はい。魏国は、三国鼎立や、二国並立などといった状況が長く続く想定で動いておられず、漢土を一統した集権体制を主に描いておいでであるゆえ。なればこそ、人材が軍事と権謀、法制度に偏っておいでなのです」


「……その通りだな。ならば、ここは素直にそなたの教えを受けるしかあるまい。こと農政において、この国にそなたらを上回る者などおるまいて」



「承知しました。麦という作物の厄介なところは、米以上に、水や土地の養分を吸い上げながら育ちます。であるがゆえに、痩せた土地を計画的に休ませ、その間は放牧して肥やしを増やすことと、水の道を些細に作り上げることの二つが寛容になります」


「土地が痩せるというのは経験としては理解しておる。だがそれを計画的に休ませるとな? それに、灌漑網の整備か。そんなこと、地元の民にさせられるのか?」


「権弱き弱国なら難しいでしょう。なれど屯田を主力とし、強力な軍制法制を成してきた魏国なら造作もないでしょう。それに、民にそれを説く言葉の力をお持ちの方も数多くおいでです。都にて無聊をかこっておいでの方々をけしかければすぐかと」


 馬上で言葉が足りないから辛辣に聞こえるだけなのか、単にこの者が本心でそう考えているのか、程昱には計りかねている。一方、各国を巡ってきた荀攸は、陸遜や、呉の考え方、そして魏は魏の筋があることも、おおよそ見定めている。



「呉国は、いかなる時でも民あっての国。魏国は、国を一つにしてはじめて民を安んぜられるという思い定め。なれば考えの違いは致し方ありませんぞ程昱殿。そして、今はその一統が難しきゆえにこそ、我らには耳の痛き言でも聞き入れるしかありません。そして、その先で暇な重役共の腰を上げさせるのは、あなた様と我らの役目と心得ましょう」


「そうだな荀攸。民政なら、あやつらに動いてもらうのがよかろう」




 許昌に着くと、現帝曹丕、ではなく、まだ代替わりして数年と経たないうちに病に倒れた彼に代わって帝となった、若き曹叡に目通りする。左右を固めるのは、鍾繇、王朗、華歆といった、三公の地位につく高官。帝の左右には、若き武官にかわり、使者に同行していた許褚、曹仁がそのままつく。まずは帝みずから、帰還した臣と、危険を犯してここまで出向いた陸遜に声をかける。


「荀攸、そして于禁、郝昭よ。長旅ご苦労であった。そなたらが大いに得るものがあったことは、その顔つきからおおよそみてとれる。だがそれをゆるりと聞くには時がない。

 陸遜殿といったか。この国は、三国鼎立というややいびつ状況に、まだ順応しきれておらん。その歪みの痛みが民に向かいつつある今、この国のあるべき姿がどうこうと、悠長に論じているときはない。ゆえに朕らは、そなたの力を大いにたのみにするほかない」


 陸遜や荀攸らが返答をする前に、やや前がかりに口が挟まれる。三公の一人、華歆。



「陛下、あまり我らが国を卑下するのはおやめくださいませ。確かに今は一大事にて、正当な対価をもって食糧を確保できたことは僥倖にございました。なれどその先に関しては、遠からず我らの手で、魏国の窮が繰り返されぬよう、策をしたためて参りとうございます」


 すでに陸遜は、この若き帝の明君ぶりを、最初の一言で見定めていた。だからこそ、ここで見過ごしては、この華歆という長年の忠臣が若き帝に嗜められ、立つ瀬がなくなる。そう直感し、あえて悪目立ちをする。



「陸遜と申します。魏帝陛下に早速お目通り叶いますこと誠に光栄。このままでは長きにわたると見定められます華北の民の窮。呉の名代として、謹んでそれを救う手を、お示ししたく存じます。

 そちらの三公様に、私どもと論を戦わせる対案がお有りかは分かりかねますが、是非ともその機会を頂ければ幸いです」


「よかろう。彼らも、呉の名代としての、そなたの案をしかと見定めつつ、足りぬ論は彼らの言を借りて理解を深めたい。鍾繇、王朗、華歆。この三人がどこまでそなたに喰らいつけるかはわからんが、よろしく頼む」


「はい。まずこの困窮において、これまで通りの農法の延長や、南の肥沃地におけるやり方の踏襲では、うまくいく見込みが相当に薄いことをご承知おきください。そしてその鍵は、屯田と休耕、そして灌漑です」


 まず華歆が、最初の言に続きて意見を交わす。


「屯田と灌漑はわかる。地を耕さねば根を張れぬし、水がなければ枯れる。だが休耕とは何であろうか。ただでさえ凶作の時に、耕を休むとは何のゆえぞ?」


「農作物というのは、水と日の光だけでは十分に育たぬのです。いくつか他に必要な物質。それは地から吸い上げます。その吸い上げた物質は、本来なら何年かをかけて、一部の雑草や、虫や獣の死骸などによって補給されます。そうして命は巡るのです」


「むむむ、その話の拠り所がなくば、にわかには信じられぬが……麦はともかく、私や王朗もいた事のある江東の米は、さほど休ませるという考えは浸透しておらなんだ記憶があるが」


「麦や雑穀というのは、ことさらに地の力を多く喰らう作物ゆえ。また水耕は、やりようによっては地の力を上流の山々から流入させることもできます。やり方を誤ると流出させることにもなりますが」


「あいわかった。私はこれくらいにしておく。まだわからぬことがないではないが、時も足りぬゆえ」


 華歆に続いて、王朗が質問を始める。この者はあの賈詡とも懇意ゆえか、様々な情報にも詳しく、そして人の心の光闇にも慣れつつある。



「屯田、灌漑、休耕。それらを全て円滑に、かつ計画的になす必要があるのだな。それは容易ではないぞ。土地はその地の主のもの。水を我田に引くはおおよそ随意。それに休ませる間の租税は如何とする?」


「強健な軍事力と、洗練された法の力、優れた人材を抱える魏国の三公とも思えぬ物言い。そんな些細なこと、まずは皆々様の口から懇切説き伏せるのみ。税制も然り。土地開発計画も然り。そして最後の最後はしかとそのお力をお示しするのがよろしいかと存じます」


「随分と物騒な物言い。それは陛下に暴君の名を残さしめよというに等しいのではないか?」


「いかがでしょう? 民の命を安んずるために、文武の俊才を最大限に活用して新たな治世をなす暴君と、民の危機にことを起こさず、空論を戦わせ、いたずらに兵を鍛えるのみに終始する無難なる君。今の世が欲し、そして陛下が望まれる君の像はいずれか、お考え召されませ」


「……」


 王朗は、早くもその才を現しつつある、若き現帝を見ながら、黙して考え込む。その間、最後の一人にして、三人の中で最も思慮深い鍾繇が問いかける。



「そこまで大掛かりな改革をなすには、魏国といえども将や文官の数に限りがあろう。それに、一度に多くをなさねば、そこに不公正がうまれ、不平が広がるのではないか?

 それに、南はともかく、北の地で華北を淡々と伺う者らへの警戒は解くことはできん」


「視点を変えれば、さほど苦慮する問題ではございません。まず、将官がまことに足りぬかどうかは、私一人に対して三公総出で論をなす時点で甚だ疑問ではありますので、その辺りのご裁量はお任せいたします」


「いちいち勘に触ることを言わねば話を始められんのか!」


「曲がりなりにも敵国ですので。あなた様のご声望はこちらにも届いておりますので、多少怒らせたとて、まこと有意義なことを申し上げるに越したことはないと判断いたしております」


「むう……続けよ」


「まことに手が足りぬとあらば、北の北はひとたび彼らに明け渡すのも一つの手ではあります。彼らは土地を奪うには長けても、守り抜くは不得手。中原や青州徐州といった、比較的治めやすいところから始め、その間は遊牧でもさせておくのが良いかもしれません」


「ま、まさかそれをもって『休耕』に変えるとでも申す気か? 民は流せば良かろうが、図に乗った鮮卑を押し留め、押し返すのは容易ではないぞ?」


「容易ではありませんが、できなくはないでしょう? それに、それを成し、その上で屯田もなさしめば、将兵にも功や経験を与えることもできるかもしれません。いかがでしょう曹仁様? 三公の方々が難色をお示しであれば、致し方ございませんが」


 この場の将で最も身分が高く、そして並外れて誇り高くもある曹仁に話を促すのは、陸遜の勘か計算か。



「ここでできぬと申せば、武陛下に冥土で叱られよう。鍾繇、王朗、華歆よ。そなたらこそ、民や地方官の慰撫は問題なかろうな? そんなところまで武の手を煩わせるのであれば、賢臣という評価が都での身びいきと成り下がるぞ?」


「……何ら問題はございません。無論我らが一時都を離れるくらい、三公が足元にも及ばぬ三賢様がおいでな限り、何ら問題ありますまい」


 三賢とは程昱、賈詡、荀攸を指す。賈詡は何やら忙しそうにしているが、己が役目を果たしているのだろう。

 ここで、終始興味深そうに聞いていた現帝曹叡が、頃合いとばかりに口を開く。


「そなたらの論議、まことに頼もしく聞かせてもらった。あえて悪者を演じる陸遜殿に、愚を演じて私や若者にもわかるようにその意義を伝えんとする三公。そして武張った申しようで、武門たる魏の矜持を現された曹仁大叔父上。皆の心意気、まことに感じ入った。

 これならば些細を任せ、この危難を乗り越えることなど容易だろう。皆皆、ためらうなかれ。この任は単に今を苦しむ民だけのためでも、魏朝の声望を保つためのものでもない。今後長きにわたる漢土の安寧と発展を見越した、長年の計なると心得よ!」


「「「ははっ!」」」


「承りました」


 こうして、それぞれ知識を深めた陸遜や荀攸、郝昭を中心に、その具体策を練っていく。そして、やや時が過ぎた頃、鮮卑族による華北侵攻が、漢土に広く伝わることとなる。


 そして、いるべき人物がいないことに思い至るのは、少し先かもしれない。

 お読みいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ