百六十八 河童 〜曹仁×(姜維+孟達)=??〜
入り組んだ高原地帯。この冬の間、この十万の兵を養うにはあと二回ほど移動が必要だろう。仲達の指示は緻密でありながらも、私の力を信頼して裁量を任せてきたものだった。
『二つの海の間を抜けて、最低三年、十万の騎兵で居座るべし。アンティオキアは、落とせるなら落としても構わない。冬の間は南下するか、できなければあらかじめ偵察を怠らず、移動先を決めておくべし。決戦になることを避けられない場合は許容するが、補充できるのは兵馬や武器のみで、将や食糧の補給はないものと心得よ。しかる後、状況は必ず好転すると心得よ』
好転、か。鍾繇殿の末子、鍾会は相当に見所のある子供だった。幼き頃の魏武にも近い才を感じたので、あまり子供扱いせず、試したいと言ってきたことはすぐにやらせてみた。
その結果、ゴートや匈奴の精鋭たちが攻めあぐねたアンティオキアを、一晩もしないうちに落としてしまった。われらが西の山間部に移動し、姜維らが警戒する隙をつくように。
だが敵もさるもの。鍾会が無法をせぬとみるや、直ちに恭順の意を示し、発展の限られるアンティオキアからやや南のダマスカスという地に中心を移し、陸海の交流拠点として整備を始めている。
住民らがほとんど逃げ去っていない。ということはつまり、彼ら自身の冬場の食糧にもそれほど猶予があるとは思い難い。だとすると、我ら全軍がアンティオキア、ダマスカスへと騎首を向けるのは避けた方がよかろう。
そして我らは予定通り、アナトリアと呼ばれる、広大だが凸凹で見通しのあまり良くはない高原地帯に足を踏み入れていた。
「曹仁様、やはりこの盆地だけでは冬を越すのはむずかしいですね」
「そうだな。やはり何ヶ所か見繕ったところにあと二度ほど移動が必要だろう」
「偵察を出していますが、やはり何度となく相手方の哨戒に引っ掛かるようです。そのうちのいくつかは、移動先候補への道筋のようです」
「移動の時は、無理に避けることもあるまい。蹴散らしてしまってよかろう。だが偵察の時に一方的に兵を失うことは避けるべきだ」
「かしこまりました」
一月後、まだ余裕がなくはないが、そろそろ移動してもいいだろう。南西に三日ほど。
「ここですか。想定よりも少ないですね」
「そうだな。一月持つかどうか、か」
夏場に偵察の足を伸ばさせ時と比べ牧草がやや少ないか。冬ならばこんなものか、と思わなくもないが。
「一週間ほど予定が早まりましたか」
「減りがはやかったな。これぐらいのずれはしかたなかろう」
数日で行ける盆地は三箇所ほどあったが、事前の偵察では一箇所を除いて牧草がやや少なかったとのこと。
ほぼ真西。姜維らの偵察部隊に出くわしたが、こちらが偵察ではなく本隊だとわかると、矢を放ちながら逃走していった。
二週間後、次に向かう予定の地域、ここから北西の高原の近くで、軽い山火事が発生したようだ。
「予定は変更ですね。やや敵方に近い方面になってしまいますが」
「仕方なかろう。この地も想定より消費が激しかったな」
「鍾会殿から食糧の援助を受けられますか?」
「いや、やめておこう。ただでさえあやつは領民の信頼を得るのに苦労するはずだ」
「かしこまりました」
このアナトリアという半島は、多くの地が入り組んだ高原地帯。大きな町も、ほぼ西端のニコメディアまでいかないとほぼない。海岸にも山間にもそれなりの大きさの集落はあるが、多くは我らが近づく前に逃げ去っている。
半島としては非常に大きく、ニコメディアまで一月はかかる。数日西に入り過ぎたところで、深入りしすぎということはない。
「次が最後の移動になればいいが、期待薄だな」
「想定よりも牧草が少なかったですね」
「薪や水は豊富に手に入ったのと、逃げ去った村から多少の品は得られたのが救いだな」
さらに半月後。やはりあと一回は移動しないと持たない。だが、少し嫌な予感がする。なんとなく、特定の場所に誘い込まれているような。
「これが最後の移動にはなるんだよな?」
「はい。次の場所でもう少し繋いだら、あとはアルメニア方面に戻りながら保存食でまかなえます」
「あまり遠ざかる予定はなかったのだがな。少しばかり早足での移動を強いることになるか」
「そうですね。それに、予定よりも南側にずれていますが、アンティオキアがすでにこちら側なので、そちらに近寄りすぎでも問題はありません」
数日ほど南西に移動すると、やや多めの姜維軍。
「二万もいませんね。蹴散らしますか?」
「ああ、この辺りで打撃を与えるのも良かろう」
こちらの八万に対し、二万以下であれば流石に打つ手は無いだろう。とうに向こうの視界にも入っているだろうから、小細工なしに突撃する。
「無理はするな! 体勢を崩さない程度の突撃で良い!」
「承知!」
すると姜維軍は逃げ去っていく。全軍が騎兵だったのか、追いつけない。追いつこうとすると、矢どころか火矢を射かけてくる。
「火矢だと……最初からこちらに来ることがわかっていたか」
「曹仁様! 燃え広がると、牧草に引火してしまいます!」
「むう、仕方ない。追撃はやめだ。火消しを優先せよ! それにしても、ここで何を……むっ?」
「いかがなさいましたか?」
「まずいぞ。あいつらこの辺りで放牧をしていたようだ。牧草が少ししか残っていない」
「何と……こちらの動きを妨害しているということですか」
「ああ、これは周到な策だな。これ以上深く入っては、どんな手が隠されているかわからん」
「どうなさいますか? 数日分は残っていそうですし、干し肉などの保存食も数は揃えられそうですが」
「ああ、そうしよう。準備ができたら退くぞ」
その後数日、姜維の軍は、見えるところまで近づいてきたり、こちらの斥候を狩るような哨戒を行ったり、なんだかんだで彼らの存在をこちらに見せつけるような動きをしてきた。だが追えば逃げるのでどうしようもない。
そして戻るための出立の頃合い。やや厳しい冬も、半月もすれば和らぐだろう。我らはやや早足で東へと引き返す。
「ところどころ倒木があり、来た道を帰れませんね。まっすぐ東に向かうしかなさそうです」
「倒木か……自然のものか、誰かが人為的にやったものか」
「わかりません」
「そうか。仕方ない。進むぞ」
さらに何度かにわたり、山の上から矢を射かけてきては逃げ去る軍に出くわす。
「帰路に余裕がないとみて、妨害してきているのか? 我らの蓄えは潤沢では無いとはいえ、多少邪魔されるくらいなら問題ないのだが」
「こちらの蓄えを知っているわけではないでしょうからな。それに、本格的に突撃してきたりはしないようです」
さらに東へ。やや険阻な地形。奇岩や尖った山の多い地域。草は十分だが見通しがたいそう悪く、下手をすると方角すら見失いかねない。
「ここは難しい土地だな。兵達がはぐれないように細心の注意を払わねば」
「方角を確認できる時間帯や場所が限られていますな。幸い、牧草は少なくはない土地です。行軍を緩めますか?」
「ああ、そうしよう」
この地形の特徴、おそらくカッパドキアという地域だろう。だとすると、この地形の険阻さ以外にも問題がある。
「この辺りは、地下に潜めるようになっている場所もあると聞く。伏兵に気をつけねばなるまい」
「住民に圧をかけるのも避けたいですな。いらぬ恨みを買いますぞ」
「ああ。慎重に進むぞ」
だが徐々に、そうも言っていられなくなってくる。
「敵襲! 岩の向こうに隠れていました!」
「応戦せよ! こちらの方が圧倒的に多い!」
「ゆっくりと後退していきます。やはり矢を射掛けながら逃亡してきます。弓の威力が高く、被害も免れません」
「こちらの弓も遜色はないはずだ。射掛けながら追え」
「敵軍、速度を上げていっています。ああっ、見失いました」
「むう、東はどちらだ? 日が傾いて、すっかり隠れてしまっているぞ」
「わかりません。おそらくこちらです」
日が中天にかかると、毎日のように襲いかかってくる敵軍。そして進む頃には日が山に隠れて、どちらに進んでいいかが曖昧になる。
そして、次の日に日が昇る方向を見て、我らの進む道が北に南に逸れていたことを知る。そして、進んでいるのか戻っているのかも曖昧になってくる。
「むう、この辺りは草が少ないですな」
「もしや、先ほど来たところか? だとすると大きく惑わされているぞ」
「少しずつ蓄えの余裕も無くなってきていますな」
「むう、致し方ない。東から迫ってきた時以外は応戦せずに向かうぞ。東の時は突破を図る」
陣を乱さずに進みたいが、時折り隘路にかかって崩される。そういう時に限って敵兵が仕掛けて来ており、兵への負担も大きくなる。
「羊が奪われぬようにせねばな」
「はい。春を迎えても羊がおらねば厳しくなります」
「兵の被害は?」
「一万ほど減らされていますな。馬も同様です」
姜維め、これが狙いだったのか。まるで、この広大な奇地を使って、石兵八陣を仕掛けて来ているようだ。
「石兵八陣。その応用なのだろうな。地形でこちらを惑わし、戦力を削る。完全にこちらを打ち負かそうと言うのではないのだろうが……」
「兵数も多くはありませんからな。長期に動員できるのは二万か三万といったところなのでしょう」
「結局休まる事のない冬となった。もともと冬の厳しさは分かってはいたが、これを繰り返すのは酷と言えよう……狙いはそれか」
「かもしれませんな。兵達も、再びこの越冬をすることは拒むやも知れません」
「ペルシャ側にはラクダの大隊、アナトリア側では姜維と地形による妨害か。次の冬をどうするか、今から考えておかねばならんか」
「それこそ鍾会殿に、その分の蓄えを依頼するしかないかも知れません」
「そうだな。それまであやつの統治が整ってくれば良いが」
カッパドキアをようやく抜け、開けた高原にはいる。すると待ち受けていたのは五万ほどの大隊。
「むっ、あれは……傭兵も混ざっているのか」
「そのようですな。全て騎兵に見えます」
「まともにやり合うと被害が増えそうだが……ひとまず陣を整えるぞ」
八門禁鎖の陣。改良に改良を重ね、すでに明白な弱点が無くなっている。だが敵陣も、魚鱗の堅陣。
「羊を守らねばならんからな。まっすぐに突撃ではなく、ぶつかりながら北側に抜けるぞ」
「承知!」
敵将は姜維と鄧艾、そしてゼノビアに、「関」の旗。関羽の末子である関索がこちらに来ていると言う話だ。それぞれの用兵が巧みで、守りながら攻めるこちらに対して、いなしつつ確実に弓を射掛けてくる。
傭兵。こいつらも厄介。命が軽いのだろう。ろくに連携も取らずに突っ込んでくるのが、かえって読みづらさをもたらす。こちらの将は……孟達?
「これはこれは、世に名高き忠臣、曹仁様」
「ちっ、半島の先端を治めているはずのそなたが、なぜここにいる?」
「はて? あなた様が石陣に囚われておいででしたので、いくらでも回り込む時はございましたが」
「むう、そうなのか。それにしても貴殿がこれほどまでに巧みな用兵とは知らなんだ」
「傭兵に任せているだけですぞ。私も彼らには日々鍛えられております」
鋭い槍さばき。流石に衰えを隠せない私は、受けるのが精一杯。
「老いてなおこの力。新たな忠の先を見つけたと言うことでしょうか」
「忠にこだわるな。我が主は変わらず魏武のみよ。仲達には、これも魏のためと、乗せられているだけだ。確かに魏には被害がほとんど出ていないことは知らされている」
「なるほど。忠の形もいろいろ、ですな。ですが果たして魏にまでそれが正しく伝わるかは分かりませんぞ」
「そなたこそ、劉璋の元を早々に去り、劉備の元でも日和見をしていたと伝わっておったが。こちらでは随分と目立った活躍ではないか」
「我が主は、私に明確な命を出される方のみ。今もそう、傭兵に好き放題させ、戦意を削るべし、との明確な指示」
「そなたは、命さえ明白な主であれば、天下に伝わる忠臣にもなる、と言うことだったのか」
「劉璋様はもとより、関羽様も、そちらから接触して来た賈詡様も、指示は曖昧でしたからな。私には大局をみて自ら判断する才はない。ならば、命の明らかなるをもって忠を果たすのみです」ガイィン!
「ハハ、そなたの忠、そして我が不忠が、いずれ後世に伝わるかもしれんな」
「曹仁様が不忠のそしりを受けぬよう、この地ではしかと記録を残すこととしましょう」
「それは感謝するしかない。我は老いてなお魏武の域には達しておらず、後世の評すら気になる俗物よ」
「ご謙遜を。あなた様の槍の威、軍の力は、あなた様のこれまでを体現しております」
そういうと、孟達は去っていく。確かに我が軍は、あの厳しい一冬を過ごしてなお、万全の体勢で待ち構えていた敵軍を、磐石な守りで打ち払って行っている。普通なら兵数に差があるとはいえ、それをひっくり返されかねない、敵軍の周到な策であったのにも関わらず。
互いに少なからぬ被害を出しながらも、我らはアルメニアの地に戻り、姜維らの軍はアナトリアの高原へと消えていった。次の一年。それが勝負になるのだろう。厳しい戦いになりそうだが。
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