百六十二 競争 〜マニ×??×兀突骨=??〜
私はシャープール。冬が終わり、どうやらマニが危惧していた通り、シヴァの手の者、あるいはシヴァ本人かもしれない者が、エクバターナの南西、インド北部のガンダーラ地方でなにやら始めたようだ。
「マニ、どういう風向きになっているんだ?」
「何人か精力的に動いている者達がいるようです。ですが、強引に向こうの陣営に引き込もうというのではないのが、かえって彼らの巧みさを表しているような気がします」
「少なくとも、武力でどうにかしようとする動きではないのだな」
「はい。あれほど個人個人の考え方が成熟している地になると、征服した後に統治するのが困難だということがわかっているのでしょう」
「教義が統一された地よりもか?」
「どちらも異なる厄介さがありますね。特定の教義に染まった地を侵略すると、その教義に対する全面戦争に発展することが想像できます。ペルシャとローマの争いなどはそれに近いものがありました。一方、教義が多様な地に対する侵攻は、周囲の誰に対する敵意を助長するのか分かったものではありません」
「確かにどちらも厄介だな。それに、この地方全体を抑えんとすると、守るべき地が増えるだけ、ということにもなりそうだな」
「はい。なので少しずつ彼ら自身に同調する考えの者を増やす、という方向なのでしょう。それも、彼らのやり方を押し付けるのではなく、考え方の共通点を見い出し、自らの側に誘導する形でしょう」
「この地での、シヴァの目的はなんだ? あやつは侵攻先に応じて、それぞれ別々の目的を持って動いているように感じられるのだ」
「ご明察かと。あやつが単なる暴虐の侵略者ではないことは確かです。アンティオキアは、あわよくば制圧しようとしていました。さらに西のニコメディアは、自らが落とすよりも西ローマと東ローマの断絶を図るように。そしてメソポタミアでの奴らの動きは、サーサーン朝の秩序、地政に対して負担、混乱を生み出すような動きと言えましょう」
「つまりそれぞれ、各地の要所、心臓部を掌握し、周辺に対する影響力を徐々に拡大しつつ、現存の秩序を弱体化せんとする、か?」
「そう見ておいてよろしいかと。そして例えそれが見当違いだったとしても、我らとしたらこのサーサーン朝の治政に影を落とす行動を防いでいればそれで良いのではないかと、そう思うのです」
「ああ、それもそうだな。我らは我らの手の届くところにおいて、苦しむ民や、発展繁栄から置き去りにされる地がなければそれで良い。それも容易なことではないのだが」
「ガンダーラ、あるいは北インド全体を明確に管理するのは、今の我らには大きな負担です。ですがそれはシヴァにとっても同様なのでしょうね」
「互いにとって、自らの手で治めるのは困難だが、相手のものになってほしくはない。そして、無秩序な混沌の地となられるのは、交通路への悪影響があるが故に、最悪の展開といえよう」
「いまひとつ考えねばならないのが、インド洋航路の急速な発展と、それに伴う情報の行き来の加速についてです。シヴァが今はまだその現状を捉えていないでしょう。ですがその可能性は想定しているかもしれません」
「それを直接確かめたい、というのも奴の目的にあたる、か。だとするとガンダーラからインダス川流域へと抜けていく道が欲しい。そう考えているのだろうか」
「かもしれません。なのでトト達は、インダス川流域にはあまり近づかないようにしていますね」
「万が一にも、風の噂でインド洋の状況がシヴァに入ることを少しでも遅らせるという腹か」
「はい。ですがそれがいつまでも続けられるとは期待しないほうが良いでしょう。我々が何もしなければ、ガンダーラから南西に、インダス川流域の広範囲で、彼らの影響を少なからず受けた秩序が生まれかねません」
「そうすると奴らはインド洋の情報を迅速に得られるようになる、か。どうする?」
「やはりガンダーラ地方には、こちらに友好で、かつ独立した形で、明確な秩序が必要ですね。そのためには、あの地が、多様な知識や教養が集まる地になっていることが肝要かと存じます」
「このエクバターナや、アレクサンドリアのようにか」
「はい。そうなると、紙や筆記具、布といった必需品の供給は、メソポタミアだけでは足りませんね。殿下、しばらくお暇いたします」
「む? どこへ行くのだ?」
「インダス流域へ。あのあたりも、大層肥沃な土地。紅海にいる費禕や、彼らのお仲間たちと連携して、少々手を加えたく存じます」
「なるほど。あいわかった。ガンダーラには、筆記具や紙布、書物の供給をできるだけ絶やさぬようにしておく。それでよかろう?」
「はい。ご英断です」
――――
「厄介ですね父上」
「ああ、厄介だ。マニ。シャープール。単に勢力圏を伸ばしたいというだけならそれほど困難ではない。それができるだけの力があやつらにもある。にも関わらずそれをせなんだ。その上で、マニがこの地に学びと弁論の種を植え付け、シャープールは紙や書物という水をあたえる、か」
「つまり、この地の民を育て、自発的に新たな秩序を生み出し、その上でその恩義に基づいた友好的な関係を築き上げる。そう言う目論見でしょうか」
「ああ、その通りだ。それが進めば、アレクサンドリアやペルシャから入ってくる知識や情報も、この地にはそれほど遅れを取らずに入ってくる。そうすると我らの優位が大きく損なわれることにもなるのだ」
「ですがこの状況は、我らにとってもそれほど悪いことではないのではないでしょうか。東方との交易を維持している匈奴とも悪い関係ではなく、我らの勢力全体としても、敵対する状況にはならないかと存じます」
「表面的にはそうだな。だが、それこそがマニの怖さなのかもしれんのだよ。我らが自ら足を運んでまで、なぜこの地をどうにかせんと考えているのか、それはすでに教えていたな?」
「はい。陸の道を押さえるだけであれば、カシュガル近辺を抑えれば事足ります。それでもそこからさらに南下した理由、それは南の海の道、その様子を直接知るため、でしたな」
「そう。陸遜がすでに東の海へと旅立ち、そして新たな大陸というとんでもない成果を得てきたこと、そこまでは漢土の民なら知らぬ者はないからな。だとすると、その航海や交流の経験を生かし、海の道をさらに整備することも、孫権や陸遜ならば間違いなくなすだろう。それがどのように進んでいるのか、それは我らとしても見ておくべきなのだ。邪魔立ては到底できぬだろうがな」
「我らが勢力が、どうやっても騎馬民族を主体とすることからは逃れられませんからな。ですが、馬を主にした知識の伝達の方が、船よりも大幅に速いことに変わりはないのではないですか?」
「その事実も全てではないのだ。確かに速さなら、馬を使った伝達が最速。それは揺るがぬ。つまり、国や地域の元首や、管理する者にとってはそれで良い。だが、将兵やその家族、そして民にまで広がるような情報の伝達という意味では、馬だけでなく、相応の量を持った書物や、多量にやりとりされる物資やその流れなんかも重要だ。情報の太さとでも表現しようか」
「太さ、ですか。それはそのまま、情報や知識の確かさに相当すると考えて良いでしょうか?」
「左様。単一の情報の中には、真偽を確かめねばならぬこともあるゆえな。やはり民にまで浸透する情報の力は相当に重要なのだよ」
「ここでその交易路を直接妨害する事は、逆効果になるのですよね」
「無論。この地の民にとっての心象を悪化させるだけだな。我らの側から仕掛けられることはなかろう」
「それで父上、我らがこの地の民や為政者達と繰り返し話している間に、マニ当人は何かを仕掛けてくるのでしょうか?」
「さあな。少なくとも何もせず傍観するという事はあり得ん。この地の民が持つ多様で複雑な宗教観や思想を、民自身にも分かりやすく伝えたマニ。そんなことをする奴が、そのまま何もせず、という事はあるまい」
「マニという者は、純粋な思想家、宗教家、民への指導者という地位や生業と考えない方が良いのですよね?」
「ああ、それだけであれば、太祖アルダシールが、国教のゾロアスターとも違う者を、まだ年端のいかぬ後継と行動を共にさせるわけがなかろうからな。治政や戦略という才もまた、並外れているものなのだろう」
「ならば父上、その者がこの先何をするだろう、という読みは、むしろやりやすくなるのではないでしょうか? 父上を含む、各国の優れた政略軍略の偉人と考えが近いのなら、彼らの立場に立って予測するのは困難ではありません」
「それに彼は、姜維や鄧艾、費禕といった、蜀で育った若き才の影響をすでに大きく受けていると言えます。であれば、我らとしても全くの未知ではないとも言えましょうか」
「そなたらの申す通りだ。我らがなす事、なしたい事を予想し、先手を打ってくる者だという事は分かってきた。ならば我らの目的まで想定できていると考えた方が良いという事だな」
「我らのなしたい事、つまりはインド洋への進出、ですか。だとすればインダス川に抜ける道に対して、何かをなさんとしている、と」
「そこを奴らが先回りしているとしたら、あやつの域に達した先読みということになるが……いや、そう考えておいた方がよかろう」
「いかがなさいますか?」
「あのじじいどもと、その一族どもにもう少し働いてもらうとしよう。民政と弁論は得意中の得意なはずだからな」
「商いの街として成熟しているカシュガルでは、彼らの得意とする治政の術はあまり有効ではなかったようですからな」
「遊牧生活がだいぶこたえて大人しかったですが、カシュガルではあまり出来ることがなく、そわそわしておいででした」
「ならばここではやりがいもあろう。魏式で何ら問題ないのだからな」
――――
「なあ兀突骨、ここを抜けたら近道が作れるって、本気か?」
「問題ない。全部密林というわけでもねえんだ。いくつか切り開かないといけねえところもあるだろうが、地元の民の力と、象の力で何とかなるだろ?」
「それで俺たち南蛮勢を総出で連れてきたのか。確かに水場も食糧もいくらでもあるからな。それにしてもお前、雲南からインド洋までの位置関係を正確に計算できるって、航海に同行しただけでそこまで出来るようになるか?」
「なる。海は結構暇だったのだ。全員俺より賢かったから、誰に聞いても親切に教えてくれた。孟獲、お前や祝融夫人も、長安が長くなったからなんだかんだで学んでいる事も多いのだろう?」
「ああ、戦国策とやらはいいな。人と話すのがあんなに奥深いとは。俺がこれまでカンでやっていたことが整理できたんだ。祝融には相変わらずぶっ飛ばされるんだけどな」ドスッ
「あんた本質は何もかわっちゃいないね。まあそこが変わられても困るからいいんだけどね。にしても、確かにここがつながったら、長安からインド洋という情報伝達は何倍にも加速するんだろうね。孔明もあんたの提案を聞いて大喜びだったのを思い出すよ」
「南蛮は結構広いが、漢ほどじゃねえからな。長安から呉までの道のように、ってのはどれくらいかかるか知らねえが、道を作るだけなら意外とすぐかも知れねえぞ。象の道、とでも名付けてやればいいさ」
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