百六十一 駱駝 〜幼児×鄧艾=??〜
あたしはゼノビア。痺れるような寒さと、痺れるような騎馬民族との小競り合いが続いた冬が終わり、春になった。
十万を超える騎兵で構成された奴らはゆっくりとアルメニアの高原の方に引いて行った。そしてメソポタミア流域を守ることの重要性を再認識したのか、サーサーン町のアルダシール王は、上流のニネベスに本格的に移住。
そして、彼ら自身が、彼らならではの対抗措置に出始める。牧草や土地自体を、騎馬民族に自由に使わせないという施策。
ラクダである。ラクダは馬が苦手な匂いがするらしく、水や草にあまり頼ることはないとはいえ、あれば喜んで食べる。馬よりも細かいところの草にも首を伸ばせるため維持も楽ときた。
つまり、ラクダを放し飼いにしつつ、羊や牛を増産することで、産業や物流の原資を確保しつつ、ジリジリと騎馬民族の生活圏を侵食する動きに出たのだ。
「これ、誰の入れ知恵? トトガイウス、なんかした?」
「お、俺じゃねえぞ」
「あ、俺だ」
「関索!? いつの間に?」
「ああ、冬の小競り合いの合間に、ちょっとニネベスに行ってみたんだよ。ラクダを馬が嫌がっているのは、道中でもよく目にしていたからな。鄧艾だって思いつくだろうけど、こいつはこいつで色々やってたからな」
「ねえ、漢の人たちってみんなこんな足回りが軽いの?」
「そうでもねえ奴の方が多いぞ」
「まあ確かに、ちょっとばかし国が大きいからな。次の仕事場に、一月かけて移動させられる事なんてざらだからな。ちょっとローマに行ってこいって言われたのはこいつら三人だけだろうけど」
「る呂宋をまとめて、落ち着いたところでこっちに手伝いに行けって言われることも、あんまりねえぞ」
「うん、わかった。漢が変なんじゃなくて、あんた達が変なんだね。それにしてもラクダねえ。アルダシールが国を勝ち取った原動力の一つが騎兵の力だったはずだけど、よくそっちに舵を切ったよね」
「あの曹仁の騎兵要塞をみたら、騎兵同士だけの勝負なんて無理だってすぐ分かるぞ」
「それに、この地に千年以上住む者らなら、ラクダをどう動かせば有効かなんてことを、しっかり考えられるだろうからな」
「ら、ラクダが増えると、この地域の人と物の流れがすげえ増える。な、流れが増えると、今のこの大きな世界の流れから取り残されるやつが減る。インドはマニが広げている。み、南のアラビアあたりとかは、砂漠で大変な暮らしの奴らも多いんだ」
「アラビアは、海も陸も交易の要地だよね。そんなところの人たちが、ちゃんとペルシャや東ローマの目が届くようになってくると、意外とたくさんの人たちが、大変な暮らしをしなくなる?」
「そうだな。か関索はそこまで考えてねえんだが」
「断定すんな! まあそうだけど」
「うふふっ、すごいね関索」
「褒められてはいなさそうだな。それで、鄧艾は何をしていたんだ?」
「春が近づくにつれて、ちょっと騎兵達に変な動きが増えてきてな。だから、ゼノビアと、か関索と、俺が相手していた記録と、アルダシール陛下からも記録をもらって分析しているんだ」
「ほう、変な動き? 曹仁の動きは元々変じゃねえか? なんというか、何をさせるにしても最初から決まっているように、整然と動くぜあいつら」
「それは、そ曹仁とか、ち仲達のやり方だな。半年くらい相手したけど、それは確かにぜんぶそうだったな」
「あいつら、何回か動きの流れを変えたよね? こっちに読まれそうになったことを感じ取ったのか、警戒とか威力偵察?の動き方を変えてきたんだよ」
「ああ、だがそれでも、兵達が、あらかじめ決められていたように動いていた、と言うのは変わらなかったよな。何か違うことがあったのか?」
「たぶんか関索がアルダシール配下のところに遊びに行った後だからな。それは気づかねえさ。ゼノビアが気づかなかった理由は……分からねえ」
「んん? もしかしてその変な軍が、あたしの方に来なかった、とか?」
「かも知れねえ。気づくやつと気づかねえやつはいると思うが、ゼノビアもか関索も気づく側のやつだ。その変化っていうのは、とにかくこっちの動きをよく見て、自分達で決めて動くような、そんな動きだ」
「ん? 曹仁達と全然違うね。それは確かに気づきそうだけど、そんだけ違えば誰でも気づくんじゃ?」
「分からねえように隠していたんだよ。兜を目深にかぶったり、声もほとんど出していなかったり、な。だが目線は兜じゃ誤魔化せねえこともあるからな。そして、そんな時に限って、決まってこっちが危ねえことになるんだ」
「えっ? それって、向こうに優秀な指揮官がいるってこと? でもそれがあんまり必要ないくらい、仕組みが出来上がっている、っていう仮説だったよね?」
「し、指揮官じゃねえんだ。兵のうちの何人かがそうだったんだ。もしそれが本当に兵たち同士のやりとりなんだとすると、百戦錬磨で知られている曹仁の指揮の中で、さらに抜きん出た力を持っている指揮官がいる、ってことになるんだよ」
「んー、フン族やゴート族の中に、そんなのがいるのかな? ちょっと考えにくいよね」
「どっちにしろ、俺の分析がなかなか終わらねえんだ。どんなやつなのか分からねえと、曹仁主体の軍だけだと思っていると足をすくわれそうだ」
「なら、姜維にも伝えなきゃ。関索、お願いできる?」
「ああ、急ぐぜ。一度、王と聖女の子も見ておかねえとな」
「ほどほどにね」
――――
マニという男は、おそろしい傑物といえよう。サーサーン朝の太祖アルダシールや、王太子シャープールとて、魏武や劉備孫権に劣る者ではない。この地域に限って言えば、いずれは周の文王や武王のような伝説上の存在にもなり得るだろう。
だがマニという男は、そんなところにとどまる者ではない。つまり太公望すら及ばない。漢土でならぶとしたら孔子しかおるまい。このガンダーラという地に、そやつに遅ればせながら入って、人々の話を聞けば聞くほど、そのことを思い知らされる。
つまり、私や孔明すら及ばぬ器。そう言えるのだ。だが、同時代に並び立ってしまった時。つまり、後世の評価を差し置いて、現世にて直接干戈筆舌を交えた時。遅れをとるか取らぬかというのは別の話だ。
「そなたらもよく覚えておけ。魏武孟徳様があの方たらしめた最大の言葉、それは『後世の評価など勝手にさせておけばいい。我が目指すは現世において頂たる事のみ』というものだ」
「「はい!」」
「だが、後世がどうこう、というのを脇に置いたとして、マニがこの地に仕掛けた策は、とんでもなく精緻にして大胆。まさか、かのアレクサンドロスと真っ向勝負するような施策を、ほど近い地でやってのけるのだからな。英雄の種が、極上の地と水と光を得て、最高の形で花開いた、というのがそのままあてはまろう」
「姜維らが彼にもたらした紙と筆の束。それがもたらした『エクバターナの奇跡』ですか。パルティアの残党とサーサーンの市街戦を、紙と言葉で一月かけて収め、最後は自らの母にまで再会し、かの地の戦乱を一気に鎮めてしまったという」
「聞けば聞くだけ、偶然が重なった奇跡でもあり、その偶然を、あの場にいた全員が最大限のことを成したからこその奇跡ぞ。我やそなたらがそれをなさねばならぬのか、そうではないのか。いずれにせよこのままでは勝てぬぞ」
「勝てぬ、ですか。やはり当初の目論見から外れているのですか?」
「匈奴と東ローマは、五分の賭けが外れたというほどのずれだな。だがこの地は違う。先行してすぐ北東のカシュガルを落とし、陸上の絹の道を抑えたことで、この大陸中央への影響力は、それほど労せずして保てたはずなのだ」
「姜維たちの動きは織り込み済み、と?」
「ああ、あれほどまでとは流石に思わなんだよ。鄧艾という奇才が、荊州陥落の際にあちらに移ったことも大きいがな」
「ご存じだったのですか?」
「目はつけていた。だが、必須の人材とまでは考えていなかったな。それこそ曹真殿や郭淮、郝昭といった世代の中の一人、というくらいの感覚ではあった。それに、二代めのお二方が、病がちのお身体から立て直されたからな。そうなれば魏という国はある程度は持ち直すことも予想できていた」
「なるほど。曹植様と曹彰様は、皇叔として左右をしかと固めておいでですからな」
「ああ。ゆえに東の魏、西の西ローマは手を出す意味もないとも言える。話がそれたな。この中央の地のことだったな」
「この曼荼羅図。確かにこの地のあまりに複雑な思想の絡み合いを、見事に可視化しています。それに、この図のあるところで多くの民や将官達が常に語らっているので、むしろまとまった形の争いというのが起こりにくくなっている形です」
「そうですね。二つや三つなら、どちらかの背中を押すだけで良かったのでしょうが、三十を越える思想の多様性だと、どこを押せばどう転ぶか、見当もつきません」
「見当もつかない、か。そなたはやはりまだ、我らの成す道の些細を理解しきれておらんようだな。我らはこれまで何をしてきているのだ?」
「……はっ! 匈奴、鮮卑、ゴート、それに月氏やさまざまな部族の考えを広範に理解し、その上で彼らが納得し、この大陸に覇をとなえるための道を照らしてきています」
「だろう? ならば、ここですることも大きな違いではないのだ。たしかにこの曼荼羅は、それをしようとした時にも、とんでもなく厄介な代物だ。なにせ、こちらだけが周りの情報を有するという優位性がなくなるのだからな」
「はい。彼らと交渉し、取り込んできた方法の大半が、その情報量の差を用いたものでした。ですがそれが使えないとなると、やはりこれまでとは全く違うのではないでしょうか?」
「くくくっ、やはりまだそなたらには任せられんな。全く違う? どこがだ。彼らは確かに、このガンダーラという地の、しかも今という情報はよく知っている。だが、別の地のことは? この地の昔のことは? これから起こるであろう未来の可能性は? どちらが『よく知っている』?」
「「……我ら、です」」
「そうだろう。ならば同じだ。違うとすれば、こちらが何を知っていて、向こうが何を知らないか。それを見極めるという手順が最初に加わるだけぞ。よく聞き、よく話し、そしてよく見極めよ。それでそなたらは役目を果たせるようになる」
「「かしこまりました」」
「手本は必要か? 我は我である程度全力を出さねばならんから、解説などは後でしかできんが」
「「是非とも」」
「致し方ないな。では見ておれ」
そう、こやつらに言い含めると、私はこの酒店で大いに議論を重ねている高僧風の二人に声をかける。
「もし、あなた方は、この地に根付いている思想について大層深いところまでご議論なさっておいでの様子。しばしその様子お聞きしておってもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ、構いませんが。どれほど面白いものになるか」
「いえいえご謙遜を。二つや三つの考えが交わった時に生まれる論議の中に、つまらぬものなどそうはございません。しばしお聞きした後で、私の方からもお耳汚しのお話を致したいと思いますが、いかがでしょう?」
「はい。是非とも」
こうして、様々な者に声をかけながら、この三十を超える思想の原点に気をつけながら、徐々に我らの考え方を浸透させていくことにする。
マニがどこで何をしているのか、いつまたここに戻ってくるのか。それも『情報』として手に入れつつ、この地での活動をしばらく続けるとする。
お読みいただきありがとうございます。




