百六十 幼児 〜???〜
ちょっと長い冬が終わり、春が来た。ボクにとって八回目の春。
最初の三回は知らない。四回目は、大きなお城。洛陽っていう名前だって後で知った。父上が結構えらい人だってことも、ボクには理解できた。
五回目は、ちょっといつもと違った。いつもより小さいけど、十分大きい城。国中で食べ物があんまり取れなくて、大変だから父上もお城じゃなくて町や村で仕事をしないといけなかったんだ。
ボクは何となく、ちゃんと見ておかなきゃいけない気がしたんだ。今僕たちが生きているこの世の中で、何が起こっているのか、これからどんなことが起こるのか。
だから父上について行った。父上は最初は嫌がった。だけど、ボクが父上の近くで起こったことを一つ一つしっかり書きとめ始めると、小言を言わなくなった。
特に、あの陸遜ってやつ。最初は父上をいじめていると思っていたんだ。すっごく口が悪くて、「未熟な私にできるのです。あなた方にできないはずはありません」ばっかりだったよ。
だけどある夜、父上は教えてくれた。「あやつはこの国の民のことを真剣に考えているんだ。南の呉の国から一人でやって来て、彼らが持っている新しい食べ物の育て方を、命懸けで教えに来てくれたんだ」って。
信じられないことだけど、父上は嘘をつかないから、本当なんだよね。でも、あいつを褒める言葉の中に、何だかいくつもの、複雑な気持ちがありそうなんだ。
何十も年下なのにさんざんな言いかたをしてくる奴へのいらいら。
聞いたことのない、だけど確実にうまくいきそうな、そのやり方への驚き。
それを思いついたのが、自分の国の人じゃないことへのあせり。
それを学んで、民さんや兵さん達に教えるのがなぜ自分なのか、というもやもや。
その学んだことのその先を、見ることができないという、自分の年へのあきらめ。
そんな感情たちが、ぐるぐるしながら、その食べ物で冬を越せた、次の春に持ち越されていたんだ。そして、久しぶりに帰って来た洛陽の夜は、やっぱり眩しかった。
父上は、少し前まではこんな元気じゃなかったって、兄上たちが言っていた。人は、どんな気持ちであっても、その気持ちが高ぶることが、元気につながるのだろうか。
これは大事な気がするから、ちゃんと覚えとくんだ。これぐらいなら書かなくても覚えておけるね。
でもなぜか、元気にしている時と、元気じゃなさそうな時、いや、元気じゃないふりをしている時があったんだよね。
その理由がわかったのは、ボクと、すぐ上の兄上が、この国の一番えらい人、つまり陛下に会ってから、少し後だったんだ。
ん? 陛下にあった時のこと? ああ、それはなんかちょっと騒ぎになったんだよ。兄上と一緒に陛下に会った時、兄上はドキドキで汗が止まらなかったみたい。
正直に、「陛下の前で緊張して、汗が止まりません」っていったら、みんな笑顔だったよ。さて困った。ボクは汗をかいていない。緊張? ちょっとだけ。だってそこには、本当に怖い人たちはいなかったから。
泣く子も黙るっていう張遼様、虎といい勝負をするっていう許褚様は、戦いに明け暮れる日々。本当に恐ろしい先先代の陛下はもう過去の人。
そして、狼のような目で、この世界の全部を食ってやろうって見るあの方は、どこにも見当たらなかったから。
そんな中、どうしようって思って、うっかりいつものように冗談がでてしまった「緊張して、汗も出てきません」。
父上にはその後たっぷり説教……されることはなかった。その前に、陛下が大笑いしちゃったから。
だけどその後の評判は、ボクにとっても父上にとっても、あまり心地のいいものじゃなかった。特に兄上にとってはもっときつかったんだ。
正直さが一つの柱だった父上に対して、ちょっと違ったボクの答え。正直だった兄上に対して、ちょっとしたやり過ごし方で名を上げてしまったボク。
だいぶギクシャクして来た。兄上と仲良くお話しすることも減って来たし、父上もなんだかやりづらそうだった。久しぶりに帰って来た、まぶしい洛陽の夜も、なんだか急に色あせて見えたんだ。
その生活がガラリと変わることになったのは、その年の秋ごろだった。少し前に、父上と同じくらい偉くて、よくお話をしていた王朗様がその生涯を終え、続いて華歆様もいなくなった。
そして、元気な父上は元気なまま、元気じゃない父上が死んだ。
ん? 意味がわからない? ああ、そうか。そうだね。父上は、洛陽からいなくなったんだ。死んだことにしてね。
それに気づいたのは、ボクとすぐ上の兄上だけだった。兄上は、「どうする?」とボクに聞いて来た。
「どうもこうも、ついて行きたいよね」
「ああ、お前ならそういうだろうな。俺もそうだ。正直でいられれば、父上のように偉くなれる、そう思っていたんだけど、どうもこの都ではそれだけじゃ無理みたいだからさ」
「ボクも、別に嘘つきでいたいわけじゃないんだよ。どんなに賢くても、父上や兄上みたいに真っ直ぐでいられるはずだから」
「そうだよな。別に大人の人たちも悪気があるわけじゃないんだろうけどね。まあしょうがないね。評判ってやつをひっくり返すのは大変だよ」
「そしたら兄上、どうするんだい? 父上に行っても、ついていくのを許してはくれないんじゃないかな」
「大丈夫だ。しばらくこっそりついて行ったら、多分戻れなくなるさ。どこへいくのかだって、お前のことだからもうわかっているんだろ?」
「うん、あの狼男様のところに行くんだよね? なんか、すごく北の方っていうのも、あの人たちが話していたよ。冬が寒いのと、羊の世話をしないといけないんだよね。大丈夫だよ。ボクはもう本を読んで大体覚えたからね」
「ふふっ、やっぱりお前は賢いな。よし。そしたらどうにか見つからないように、荷物に紛れてみよう」
「うん、わかった!」
そして、父上も隠れて向かう集団の中で、僕たち二人は荷物に紛れて隠れていたんだ。保存食は、自分たちで持てるだけ持って行ったんだよ。
何日かたって、何日寝たか分からなくなったころ、まず兄上が見つかった。でもその頃にはもう、追い返すのは難しいところには来ていたみたい。
そしてボクは最後まで見つかることなく、北の遊牧民たちの街に到着した。これ以上隠れるのは難しいから、ボクは街の中を歩きまわって、子供がお手伝いをしているところに紛れ込んだ。
たまに兄上に会ったり、父上から隠れたりしながらすごす。父上たちには見つからなかったのに、あの狼男、司馬仲達様にはあっさり見つかっちゃった。
「そのままこっそりとしていても構わない。それはそれで面白い。そなたはまだ幼いから、父上の元に行くことを勧めるがな」
しばらくボクをほっといてくれるようだった。
「わかりました。仲達様にとっては、どちらが良いですか?」
「くくっ、我にとって、か。それは無論、より活用の幅が広がる方、だな」
「つまり、今の通り、ってことですね」
「そう捉えるならそう考えると良い。何にせよそなたの邪魔はせん。やりたいようにやるがいい。用があればこちらから勝手に探しだして声をかけるさ」
そして一年が過ぎたころ。厳しい冬を超えて春がきたころ、仲達様が世界中に宣言した。世界を我が物にする、とね。
やっぱりこっちへ来て正解だったよ。こんな大それたことをする人のもとで、自分の力を試し続ける。そんな生き方が出来るのは、最高に面白いことだろうからね。
そしていつも通り羊の世話をしていたボクの元に、仲達様から言伝が届いた。曹仁様と共に、西の地を目指せ、と。そして、ボクのことをすでに聞いていたみたいな曹仁様についていくため、再びボクは荷車に隠れた。
兄上はこの地に残って、父上たちの手伝いをするみたいだ。そしてボクが紛れ込んだ曹仁様の軍はというと、はるか西の地、ローマとペルシャのどちらからも近く。
そしてこの、どこを攻めるでもなく、ただその場に居座るこの大軍勢の中で、ボクは羊の世話だけじゃなくて、食べ物の残りの計算だったり、現地の街とか村の場所の記録をとったり、いろんな仕事をするようになった。
この部隊には、子供だの大人だの言う人はあんまりいなさそうだね。そもそもほとんどの人が、何故自分たちがこんなことをしているのか、あんまりよくわかっていないみたいだし。だからボクも、ためらうことなくいろんなお手伝いをしながら、ちょっとずつ大人たちと話をするようになって行ったんだ。
「うーん、この次に仕掛けるとしたら、としたら、こっちの町よりもこっちの村が良さそうだよ。こっちの町は、守りがゆるそうに見えるけど、すぐにペルシャの奴らが駆けつけやすい街道に続いているからね」
「なるほどな。確かにこんな立派な町が隙だらけなのは、わざとやっているのかもしれないよな。わかった。こっちの村に行ってみよう」
また別の日には、
「なんだ? これは、これまでの羊の動きの記録と、次にどこへ向かえば良いか、の予定がびっしりだな」
「はい。場所が限られている中での遊牧なので、羊まかせにし過ぎず、こちらでもしっかり動きを制御していかないと、と思いまして。まずは動きを線で見せるだけでも、どんな動きにしていくのが良いか、思いつくかもしれないな、と」
そうこうするうちに、冬になったら南下して羊たちの食事を追いかけ、その中で、兵の動かし方を随分詳しく学ばせてもらった。
そしてボクにとって八回目の、そして忘れられない春が来た。
ボクの名は鍾会。魏の三公、鍾繇の末っ子にして、行方不明のやんちゃ坊主さ。
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