百四十四 順風 〜水神×(神学者+哲学者)=??〜
我が名はトラロック。水の神などと呼ばれたこともあったが、この洋上では、それよりも風の神などがいてくれた方が役に立ちそうだ。
テスカトリポカの願いで、東回りでもう一つの世界にたどり着く算段を固め、ククルと綿密に相談し、大陸の東海岸、かなり北の方から旅立ってちょうど一月が経つ。
一度、ある程度大きな諸島があったのは幸いだった。大変に実りのいい島々だが、住人はほとんどおらず、我らの拙いラテン語はどうにか通じる程度。
「ここはローマではないのか?」
「ローマとは言えない。カルタゴだったが、カルタゴもなくなった。多分大陸には忘れられているのだろう。こんな島に意味はないからな」
「なるほど。大陸から離れた島に、意味はない、か。だがここから大陸までは、五日くらいあれば行けそうだが?」
「そうだが……あなた達は西から来たように見えた。なぜそれを知っている? それに、なぜラテン語を話せる?」
「俺たちの世界は、西の大陸だ。この世界の大きさはだいたい分かっている。ローマがどこにあるかも、学んできた」
「わからないことだらけだ。西の大陸? 大きさ? なぜ違う大陸で、ローマを知っている?」
「世界が丸いことは知っているか?」
「わからん。わからんだらけだから、分かるやつと話すのがいい。いるとしたら、ローマかアレクサンドリアだ」
「ローマとアレクサンドリアなら、どちらに行けばいい?」
「ローマが近い。でもローマは今は危ない。皇帝が誰かもわからん。アレクサンドリアは、よくわからんが、しばらく争いもないし、変な学者もたくさんいる」
「分かった。アレクサンドリアに行ってみる。行き方はわかるか?」
「途中のカルタゴまでなら分かる。ついていっていいか? この島、何もない。つまらない」
「そうか。分かった。だが、つまらないのは今だけだ。もう少ししたら、面白い島になるぞ?」
「ん? なぜだ? ……あっ? あなた達がくるから、この島は大事になるのか」
「そうだ。この島を通ると、補給しやすい。だから、二つの世界の間の島として、大事になるはずだ」
「そうか。だが、大事になるのが先なら、今はつまらん。アレクサンドリアに行って、勉強してから戻りたい」
「そなた、知識はないが、知恵があるな。よし、一緒にくるといい。俺はトラロック。名は?」
「この島の名はピコ。俺たちは名がない」
「そうか。だがこれからは名が必要だろう。お前がピコを名乗ればいい」
「そうか。俺はピコか。トラロック。名をくれてありがとう」
そうしてピコと共に島を抜けると、数日で大陸が見えてきた。おそらくこの日は、歴史にとってはとんでもなく重要な日となるのだろう。だが、陸遜達のやったことと比べれば大したことはない。そんな気持ちになると、この日もよくある日常の一つでしかない。そんな気がした。
さらに半月ほど。一度カルタゴに寄港しようとしたが、なにやら物騒な気配がしたので、帆の力に任せて高速で駆け抜けた。どうやらローマという国は、かなり混乱しているらしい。
「何が起こっているんだ? カルタゴからローマに人が向かっているような動きだが」
「カルタゴとローマで戦闘があるのか、それとも、北や東からローマに何かが来ているのか。とにかく慌ただしいな」
「見に行くか? 食糧は足りそうだが」
「いや、この船は順風ではないと相当遅くなる。一応小回りはきくが、北へ行って戻っているうちに、問題に巻き込まれたら厄介だ」
「分かった。まっすぐアレクサンドリアに向かおう」
この地中海と呼ばれる海は、細く長い。話を聞くと、カリブ海とあまり変わらないが、狭く奥行きが長い。だがその周囲全てが、人が比較的住みやすい地域となっているようだ。だからこそ、このローマという国は、我らのいた国と比べても非常に大きく感じる。
アレクサンドリア。その地中海の一番奥。結局我らは、そこにつくまで一度も寄港しないことにした。ピコの島で十分な補給ができたので、一月もかからない航海、そして陸地が見えている航海など、さして問題にはならなかった。
行き交う船はほぼ手漕ぎ。追い風であれば、我らの帆船の方が明らかに速い。多少横風であっても、帆の向きを変えればある程度は進める。だが向かい風になったら全く進めず、漕ぐしかない。だがアレクサンドリアまでは、それなりに追い風であったので、そう苦労することもなく近くまで到達した。
そこで我らを迎えたのは、五十隻ほどの船団。我らは三十隻だが、こちらのほうが大きいから、少し威圧感を与えてしまうかも知れない。どうするか。
我らは一度帆をたたみ、敵意がないことを示してみることにした。望遠鏡を持っているので、向こうの様子もある程度わかるが、向こうにとってはどうか。
すると、彼らはこちらに近づいてきた。向こうは望遠鏡のようなものはなさそうに見える。む? あれはどうやら、何か合図をしているようだ。
だが、わからん。とりあえず大人しくしておくとしよう。彼らから武器が見えないようにしまっておく。
すると、声が届くところまで近づいてきた。
「何者だ? ローマの船ではないようだが?」
「あなた達は、アレクサンドリアの守り手か?」
「そうだ! もう一度聞く! 何者だ!」
「我が名はトラロック! 西の世界から、一月かけてこちらの世界に辿り着き、さらに半月かけてここまで来た。途中のカルタゴは、安全ではなさそうだったので素通りしてきた!」
「ラテン語が話せるのか? 西の世界……まさか。少し待っていてくれ。分かる者を呼んでくる! 停船していてもらっていいか?」
「わかった!」
すると、彼の船だけ一度港に戻り、誰かを連れてきた。そして、今度は我が船に接舷し、こちらに来ることを求めてきた。
「随分警戒心のない奴らだな」
「流石に、街を攻撃するような船団ではないことはみてわかるんだろう」
そして入ってきたのがおっさんと、若い男の二人。
「はるか西の世界からようこそ。私はアレクサンドリアの治世を任されている、オリゲネスと申す」
「同じくプロティノスです。まさか、あなた達が先に、こちらに辿り着くとは」
「トラロックだ。どうやら、何も知らない感じには見えないな。どこまで知っている?」
「東の漢から、一年以上前に、東回りで、ある船団が向かったこと。そしておそらく何かしらにたどり着いたのではないかという推測。伝わっているのはここまでです」
「なるほど。陸遜達の存在は知っているが、我らの大陸のことまでは知らない、と」
「なので、あなた方がここにきたことは、いくつかの推測でしかないのじゃ。それに、もう少し詳しく話をしたいのじゃが、この大陸では今、それどころではない状況に陥っている」
「ローマ、カルタゴで何かがあるように見えた。どうなっている?」
「ほほう、道中で何かを見てきたのじゃな」
「カルタゴからローマへの輸送か、上陸。とにかく大規模な往来」
「まさか、いきなりローマに攻めてきているのか?」
「どちらにせよ、彼らに急いで伝えた方がよさそうじゃ。この船、北東には速さを出せるか?」
「風は南東か……まあ、漕ぐよりは早そうだが。漕ぎ手を貸してくれればもっと早い。我らは、風を読んで大陸を渡ってきた。外海の方が風がわかりやすいのでな。漕ぎ手は食糧がかさむ」
「なるほど。内海は漕ぎ手が必要か。あいわかった。数隻分ならすぐ用意できる。一度寄港し、すぐに北東のアンティオキアにむかってくれんか? 儂も行く。プロティノス、しばらくたのむぞい」
「ああ、任せろ」
そうして、アレクサンドリアに一度寄って、すぐに北東のアンティオキアに向かう。大陸横断という、ある意味で大偉業なはずなのだが、なにやら多くのものに巻き込まれ、それが受け流されている気もする。
――――
私は曹植。司馬懿め。しばらく見ないと思ったら、なんたる大それた不忠を。とはいえ、あやつの才覚、それがどこまでこの世界に通用するか。それを試してみたいという、赤子のような純粋な欲望。
それ自体が理解できてしまうからこそ、この事態の深刻さが理解できると言えます。まさか、漢土だけでなくペルシャやローマまでその視座に入っているとは。
確かにこの世界は丸く、北方は延々と草原が繋がっているとしたら。そして騎馬民族達を糾合し、効率的な情報網、連携網を確立しているとしたら。あやつの言っていることに破綻がないことが、朧げにでも理解できてしまいます。
「殿下、陛下から火急のお呼び出しです」
「わかりました。すぐ向かいます」
いきなり我らか。確かにあやつは、「どこが弱いかを知っている」と言っていた。ならば確かに、隣の蜀や匈奴と比べたら我らでしょう。
ですが、それだけではないような、そんな短絡的な話なのか、という感覚が、私を含め、多くの者の心に引っ掛かりを与えていました。
――――
私は馬謖。ここ長安を含め、各地に同時に届いたのであろう書状。そこには、あの司馬仲達がどこから何をするという情報は読み取れませんでした。
ですが一つわかることは、「無意味な手は打たない」、「当たり前の手は陽動」。こんなところですね。
「魏には、鮮卑の軻比能らが攻勢を見せているとのこと。ですが、その程度であれば心配はいらないかと。孔明様。やはりそちらは主目標ではない、と?」
「でしょうね。陽動、あるいは牽制でしょう。魏を本気で攻め落とすのは相当な労力、それに例えそれが叶ったとして、その後に呉や我らとの三すくみが待っているだけ」
「それは、逆の端である、西ローマも同じことが言えましょうか」
「西ローマという地域が、単独でよほど肥沃なのであれば、まだ可能性はあるでしょう。ですがそんな話は聞きません。おそらくあの地も、統治するのに相応の苦労がありそうです」
「中央のペルシャは、すでに一部を彼らが手中にしているとも聞きます」
「そうですね。ですがあの地も、絹の道という往来あってこそ成立する地。それに、徐庶から聞いた時点でも、あの国はたいそう英明な主君のもとで団結しているとか」
「だとすると、彼らの、陽動ではない真の初手は……」
「二カ所、ですね。その前に陽動が入りそうですが」
急報。ですが孔明様はどこからかわかっておいでのようです。
「馬超殿からですか?」
「はい。楼蘭に攻勢。ですが羌で対応はできるとのこと」
「わかりました。馬謖、趙雲殿を読んでください。それと、匈奴に残った魏延に急報を。直ちに全軍北上し、彼らの助けとなれ、と」
「やはりそこですか。承知。直ちに」
「まあ魏延なら、すでに動いているかも知れませんが」
――――
我が名はトラロック。アレクサンドリアでオリゲネスというおっさんを拾い、アンティオキアへ。
おっさんが持ってきた、大きな白黒の板だの、旗だなのおかげで、アンティオキアではすぐに港に入れてもらえた。
そのおっさんの質問攻めがとんでもなかった話は、おっさんの弟子か誰か横で書き留めていたから置いておく。
とにかくアンティオキアに着くとすぐに、政庁へと連れて行かれた。そこで待っていたのは、一目でこいつは強いとわかる若者と、その背後に控える女性。さらに若い少女と、その娘が前に出ることに慣れてしまったかのような父親風の男。そして、こちらも少年と言ってもいい若い男が二人。一人は恐ろしく賢く、もう一人は強い。
そんな若い者らが、おそらく国の行く末を担っている。我が隣に着いてきたおっさんが、目でそう語っている。
こちらの大陸についてから一月近く。ようやく始まった、現地の者らとの話は、歓迎でも警戒でもなく、どうやら何かに巻き込まれるような雰囲気のようだ。
お読みいただきありがとうございます。




