百十九 愚賢 〜張遼×匈奴=??〜
愚公、山を動かす。荘子の一話として、この時代の知識人であれば知らぬものはないその逸話。だが、人対人、国対国でそれが成立するはずがないことは、多くの者が当然として捉えている。
なぜなら、山と違って人や国は動くものだから。
そんな当たり前のことを当たり前とみなさず、愚をもって賢にあたる。鈍をもって鋭にあたる。大兵を用いるにあたり、それを丁寧に成そうとする者を、果たして人は愚者と呼ぶのかどうか。
「さて張遼様。あなたの愚策は、このまま少しずつ我らが削り切れば、いずれ疲弊を生み、その疲弊が不信を生み、そしてその不信は不運をもたらす。そんな未来が、すでに一部の兵にも浸透し始めているようですが、いかがですか?」
「なるほど、その通りだな李運とやら。その心の機微、そして運と不運までも操らんとするその意。やはりかの飛将軍らの血を引くだけのことはある。だがな李運よ。戦の場に、物語はもう要らんのだよ」
「むう、何を言いたいのでしょうか」
「いずれわかるさ。だが分かるにはもう少しかかりそうだが。何にせよ、この時代で作られるのが、最後の『戦物語』となることを、私は願うのみ」
「……続けましょう。ただ狙い、ただ挫くのです」
「おう! よーく狙え。盾の間を狙え! 足を止めたら矢が返ってくるぞ!」ザシュッ
「ダハハ! まっすぐ行ったら矢が返ってくるぞ! 走りながら、よーく狙え!」
何とも楽しそうに、馬を走らせながら、的確な距離と精度を見定め、次々に矢を放ってくる匈奴。それに対して張遼様は。
「死ぬな。できるだけ防げ。少しでも当てられたら代われ。疲れて盾が上がらなくなっても代われ。それで必ず状況は変わる。どちらがより愚なる賢か、見定めるが良い」
「「「応!」」」
そう言い残し、前線が見えるところ、だが矢が当たることは決してないくらいのところに留まり、ただ相手を見続ける。
そして数日後。一万人近くの軽傷者を出しつつ、敵の矢も少し減ってきているようにも見えてきた頃。
「張遼殿、櫓が仕上がりました」
「ああ。ご苦労。見張はそちらに移り、あの望遠鏡とやらで視察を続けよ」
そう。十倍程度の倍率で遠くを見ることのできる望遠鏡。航海向けに、蜀の技師たちはとんでもないものを生み出した。それがいくつか、すでに魏の元にも届けられている。
「たしかにこれがあれば、砦と砦の間の距離を、かなり伸ばすことが叶いますな」
「向こうの櫓が大きな黒白板を使えば、大抵の連絡は叶おうからな」
さらに数日後。怪我人は、復帰したりまた怪我したりを繰り返しつつ、前線と中軍の間を入れ替わりつづける。
「櫓と馬防柵の数も揃いました。下がってもよろしいかと」
「わかった。だがまだ完全には下がるな。煉瓦壁が揃い、火消しの水場が整うまでは、火矢を防ぐ術がない。櫓から弩が打てるところまで下がるぞ」
「承知」
すでに櫓の存在は向こうに見えているだろう。だがあまり大きく変わることなく、ただひたすら矢を打ってきているのが李運らの軍。
「これで、向こうもおいそれとは近づけなくなってきたはずだ。騎射でも櫓から弩で狙えば一般に致命打になるからな」
「あとは煉瓦壁のできるのを待つばかり、ですね」
「郝昭よ、それができたら、二万をそなたに預け、我らは進軍する。大事ないか?」
「はい。砦ができていれば、今外にいる彼らくらいの規模の軍勢でも、七日ほどは守り切れます」
「十分だ。一日守れれば良いと考えているのだ」
「そもそも視力の高い者が望遠鏡を使っても、二百里(80km)が限度ですからな。そうなれば、異変に察知できたとしても、騎兵なら数刻、歩兵でも二日で届く距離、と言うわけですな」
「ああ」
「それで、まずはどちらへ」
「草原と、魏の長城の境を平行に北東へ進み、もう一つ作る。あとは三角形を作りながら一つずつ増やしていくのが良かろう」
「よろしいかと」
「では、二万をおいていき、負傷兵一万と、護衛二万を帰らせる。あとの二十五万は、北東へ向かう!」
「「「応!」」」
そして北東へ向かうと、そこは少しばかり厄介な状況になっていた。
「ちっ、そう来たか」
砦として最適な、やや小高い地に、おそらく李運と、更なる増援を含めて十五万ほどが、広範囲に滞陣しているのが見える。
「どうしますか張遼様?」
「龐徳、ここは少しずつ西へ向かおう。今後のことを考えると、距離は保っておきたいのだ」
「あまり狭い範囲に建てますと、建てなくてはならない数が増えてしまう、ということですな」
「ああ。視認できる範囲で、広ければ広いほどよい。右翼を狙う構えを見せよう。そして、あの小高いところからある程度離れたところ、そうだな。あの辺りの平地で良いだろう」
「あの山が死角になりませんか?」
「ある程度離れていれば問題ない。魏の砦側からは見えているからな。中継してもらって通信をすれば、視界を補完できよう」
「承知しました」
そして、魏軍は左側、即ち敵右翼に向かって進軍を開始。敵左翼はそれを察知し、右翼に合流するように距離を詰める。
「向こうは、こちらが右翼に一当てすると見ているのか?」
「おそらくそうでしょう。さらに西に目当てがある、と言うことを、もしかしたら李運あたりが勘付いているかもしれませんが」
「ああ。だが問題はない。兵数の多い我らの側が、守りに徹すれば、確実に守れよう」
「戦線を伸ばさず、堅陣を保ったまま、急がず進みます」
「それでいい」
そして、視認してからたっぷり二日をかけて、真北へと進む。そこは敵陣の左側よりも、さらにもう少し左。つまり、山との距離を保つ形。そして、睨み合いを続ける。
「敵は、挟撃は避けたいでしょうね」
「ああ。我らが砦にどれほど残しているかはあまり把握できまい。砦は、守るのが精一杯なのだがな」
「それに勘づく頃には、我も適地を見定めて、建造を始められそうです」
「うむ」
そうして、一つずつ、だが着実に、砦はその数を増やしていく。時に敵将の呂玲綺や班虎、李運が突撃し、双方少なからぬ被害を受けることも。
「張遼おじさん、なんかとっても息の長い作戦だね! もうそろそろおじいさんになっちゃうよ!」
「呂玲綺、その頃にはそなたも母となり、その子が、我らの若き将と対峙しているかもしれんな」
「うへぇ、もっと気長だったわ」
「あなたが張遼。泣く子も黙るというそのお手並み、もはや見ることはできますまいか」
「すまんな若いの。老いってのは必ずくるもんだ。それは人だけでは無い。国とてそうさ」ブォン、ガイィン!
「ちっ、本気で攻めてこねえ相手はやりづれえ」
「我らにそんな力は、今はないのさ。だからこうするしか無いのだよ」
「つまらねえ、とは言えねえな。それもそれで戦略、って奴なんだろうぜ」
そして、ひとときとして、その砦作りと進軍が、匈奴の軍に対して野放しにされることが無いまま、魏軍の負傷者は常時五万ほどとなる。だがその甲斐あってか、砦は五を超え、十を数えるようになる。
「ふふふっ、流石にこれ以上野放しにはできないね、テッラ兄さん」
「へへへつ、でもここから全部守りながら増やすのは厳しいはずだよ、アイラ」
「ふっ、ようやく大将のお出ましか」
「張遼おじさん、あなたではあたし達には勝てないよ。どうするんだい?」
「決まっているだろう? 何のための砦だ?」
「む、まさか、全員でこもる気?」
「ああそうさ。さしあたり全軍、それぞれ最寄りの三つへと退け!」
「げ、まずいよ兄さん!」
「へっ、させるか!」ガイィン!
「ふっ、流石に重いな。だが、負けんことだけなら、老いた私にもできなくは無いさ」
「張遼殿、私もおりますぞ」
「于禁殿、助かります」
「ちっ、よく見えているね。なるほど。それがあなた達の、新しい戦い方か。百年でも何百年でもかける。確かに、時のことを考えなければ必ずいつかは勝てる策だよ」
「でも、それがうまく行った歴史はないんだよおじさん。いつかどこかで必ず綻ぶ。あなた達の国は、そういう国なんだ、よっ!」ガンガンガン!
「ちっ、于禁殿! 無理するな!」
「ぐうっ、これしき」ブォン
「龐徳! 助かった!」
「流石に揃ってきたね! でも、タダで帰るわけにはいかないのさ! 兄さん!」
「えっ? 飛んだ!?」
「テッラの方へ飛ん……まずい! 張遼殿!」ザシュッ!
「ぐうっ……」
「ちっ! 張遼殿! はっ!」ドゥッ!
「于禁殿!? 皆、二人を守れ!」ガンガン
「今はこれくらいだね。だがこれで、この砦達も盤石とはいかないはずさ。勝負は始まったばかりだよ」
「これ以上の長居は、ボク達も危ないからね。じゃあまた会おうね、龐徳おじさん」
「ちっ! 張遼殿! 于禁殿!」
そうして、天地の悪魔は去っていった。二人はどうにか致命傷を免れたが、傷がかなり深い。于禁殿は、以前関羽につけられた傷とあまり変わらない箇所にして、しかもより深い傷。
そして、張遼殿は、背中の神経を傷つけられたか。自力で立ち上がることが出来ないでいる。もはや戦場で『遼来来』を見ることは、永劫に叶わぬだろう。
「ぐうっ、ま、まさか馬の上から飛んで、さらに兄を踏み台にして飛び越え、背中を切りつけてくるとは」
「首周りを厚手の甲で覆っていなければ、首を狩られていたかもしれませんな」
「ああ。これは、匈奴式の兜を採用したことが、皮肉にも功を奏したといえよう」
「実際あの者らの戦い方は、とにかく死者を出しにくい。我らとて、命のやり取りから少しばかり遠ざかってすらいるようにも感じられる」
「ですが張遼殿、これではもう二人とも、まともに戦場に出ることはできまい」
「ああ、だがどうにか間に合ったとも言えよう。この十の砦を三十万で守る。それでしばらく時を稼ぐのさ」
「時を稼ぐ……それは、若者が育ち、技術が伸びるのを待つ、ということですかな?」
「ああ、そうさ。いかに匈奴の戦闘技術が伸びたとしても、そこにはいずれ限界がこよう。そうなれば、技術としての伝承をより多くした方が勝つ。これからはそういう戦いになるのだよ」
「分かりました。ですがまずは、ゆっくりとお休みいただき、療養し、その伝承できることを少しでも多く、我らにお伝え願いたいところです」
「ああ、そうだな。さしあたり龐徳、そなたに全軍を任せる。郝昭、曹彰殿と連携し、曹植殿の帰りを待て」
「御意」
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