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百十八 凡戦 〜張遼×曹叡=愚公?〜

 蜀と匈奴が、本格的に戦いを始めたことが伝わってきた。本来は、漢からその地と民をより多く受け継ぎ、優位に立っていた魏こそ、その異族と相対するのが役目という認識が、多くの民や将兵の中に矜持として残る。


 だが、それが叶わぬ矜持だというのも、また避け難い事実。兵の数や練度こそ蜀、呉を大きく上回るものの、率いる将兵が足りず、またその大兵を持続的に戦地に送り出し続けるにはいささか食糧に不安がある。


 その食糧の問題は、飢饉に瀕する可能性があったこの地の状況を先読みした呉の陸遜がもたらした、革新的な農法によって大いに改善した。その結果、三十万の兵を対匈奴に常駐させられる体勢が整った。


 そして、将の不足は、張遼様の『魏人はすべからく魏武孟徳たらんとせよ』の一言によって、その見通しが大きく開かれることとなる。その言葉が発せられて一年余りが過ぎ、蜀と匈奴の戦いが本格的に始まった。


 その間魏はというと、特に軍を率いる人材の不足を顧み、国として出来ることできぬことを論じていた。その礎となったのが張遼様の言葉であることは紛れもない事実。



「刻々と変わる戦場であれば、臨機応変に判断し、指示を出さねばなりません。それに、兵の鼓舞や、敵方の情報収集など、相当に多くのことを同時にこなす力。そして何より、個人としての腕がなければ、簡単に狙われて仕留められてしまうことでしょう」


「なるほど。それで張遼、朕は少しばかり、そなたの言い方が気になったのだが。最初のその、刻々と変わる戦場であれば、とはどういうことだ? 戦場とは常にそういうものではないのか?」


「ご明察です陛下。そこに一つ、今の魏にできる打開策があるのでは、と考えているのです。蜀のように抜きん出た将が育たずとも、呉のように水軍という得意分野で伝統を築かずとも」


「つまりあれか? 大軍に兵法なし、と言ったところか? 確かに兵数では優位であろうが、それで膠着を繰り返し、我らが弱った隙を狙われてたのがこれまでぞ。古くは蔡琰殿が拉致され、直近では徐晃が重傷を負い、曹仁は行方がわからぬ」


「はい。兵法なし、というのは、やや誇張のある申しようです。大軍においては、原理原則を外れた突飛な機略や、一瞬の機微を悟った仕掛けなどが必要ない。それくらいのご理解がよろしいかと」


「突飛な機略や、一瞬の仕掛け。それはそなたが合肥でやっていたような、だな。だとすると、十倍とてひっくり返されるのではないか?」


「まこと無策ならば、十倍どころか百倍でも殆うさが残るのが戦場です。大兵には大兵の理がある。それをまずは諸将に覚え込ませるのです。まあどちらにとっても、つまらぬ戦になりましょうが」


「よいのか? つまらんで」


「戦にという命のやり取り。そこに面白さや信念、物語を求めてしまうことから、すでに悲劇は始まっているのやもしれません。命を賭すことの愚かしさ、そしてそこに変わる心の奮い立ちさえ見定められれば、最後は互いを理解し合うこととて不可能ではありますまい」


「そうか。あいわかった。そのそなたの最終的な理想に関しては、引き続き論じていくとしよう。これは勘でしかないのだが、曹植叔父上が戻ってきたときに、その答えに近づけるような気もするのだ」


「曹植殿、ですか。確かにそうかもしれませんね」



 そして一月後。張遼様は、これまでよりもさらに多い、三十万の兵を率いて匈奴の領域へと進軍した。三十万というのは、魏の国で、実質的に常備できる兵の上限に近い数といえた。

 赤壁で七十万、ということがあったが、あれは占領地への高い賦役も含めた、短期的な動員であったとも言える。


 騎兵だけでなく、槍や弓を持つ歩兵、そして屯田も可能な工兵も多く見られる。


「張遼殿、もしや匈奴の地に、砦でも建てるおつもりですか?」


「ああ、于禁殿か。そうだな。ある程度それに近い事はするつもりだ。今回は少しばかり長い滞陣を予定している。五箇所ほど陣営を作りたい」


「なるほど。だとしたら俺や郝昭がしばらく学んできた屯田の技法は役に立ちそうだな」


「つまり張遼様。しばらくの間、守りながら前進する。そんな戦い方を続けようとしておいでですか?」


「ああ、そうだな郝昭。それはそなたも得意とするやり方であろう?」


「は、はい。そうですね。それに、一人一人がやることは簡略化できますので、まだ実践経験のない若き将達にも負担は少ないかと存じます」


「あの若者達も、いきなり匈奴の主力と向かい合うことになったら厳しいからな。まずはこの砦づくりと守りに専念させよう」



 そこで懸念を伝えるのが、やや長きにわたり、匈奴との戦いに明け暮れていた龐徳。彼はすでに、匈奴の考え方を、相当深いところまで理解していた。


「ですが張遼様。彼らは拠点を作られるのを極端に嫌がります。長城のように破壊し難いもの以外は、必ず奪い返して更地にしようとしてきます」


「龐徳、そうだな。だがそなたなら、その理由もわかっているのだろう?」


「はい。遊牧を日々の糧とする彼らは、移動式の住居を持っています。そして、牧草を得るためにはできるだけ広く動き回ろうとします。そんな時、放棄された拠点があると、そこが賊や猛獣の根城となりやすい。それに、廃墟は衛生面でも悪く、病をもたらす原因にもなります」


「ああ、だからこそあいつらは、拠点を作らせること自体を忌避する。そして、必ず追い払おうとしてくる。だが数千数万ならそうはいくが、三十万ならどうだ?」


「二十万で陣を敷き、五万十万で後方に拠点を、という形であればあるいは。もしや、そのつもりでのご準備ですか?」


「ああ」


「そのやり方は着実かもしれませんが、相当な年月を要しますぞ。それに、一度その采配を誤り、元をやられでもしたら、全てが無に帰すことになります」


「ああ。そうだな。だからこそ今回は、何歩も進むことは考える必要はない。一年に一つ、三年で三つ。そして三つが必ず連動して守れるように築いていく。そうなったら四つめ五つめは、守りやすい形で増やしていくことができる」



 まだ若い曹彰様が、やや性急さをもった意見。だがそちらこそ、多くの者の意見に近しいと、皆思っていそうな意見。


「それは、どれほどの時がかかりましょうか? 何十年、いや、百年かかっても、目の届かぬ先まで繋がる全てに届くことはありますまい」


「曹彰殿。その見通しは誠に正しい見通しです。ですが、人の住める地は無限ではありません。であれば、もしそのままの速さなら何百年かかるという見定めでもよいのです」


「む、それは……」


「もしかしたら、より効率の良い建築法や、より遠くても守りを連携できる術が見つかるかもしれません。衣食が安定して、人がまた増えるかもしれません。匈奴との戦いの中で、英雄とも呼ぶべき強き将や、私以上の才を持つものが現れるかもしれません。そんなとき、私たちがここに手をかけているのかいないのか、それは大きな違いになる。そうは思いませんか?」



 そんなやりとりの中で、さらに若い将の一人が、何かに気づく。彼の名は曹爽。一度東の海への船団を経験し、広い視野と、柔軟な考え方を持ちつつも、漢という文明の特異性にもまた、思いを馳せている若者である。



「……愚公、山を動かす。張遼様、よもやそれをなすというのですか?」


「ああ、そうさ曹爽。よく気づいたな。どんな遅い歩みであろうと、それが歩みである限り、人はそれに気づく。それは敵も味方も同じ。そしてその大兵を持ってその敵を防ぎ続ければ、前に進んでいるのは我らだ、ということを、長きに渡り示し続けることになるのよ」


 愚公、山を動かす。『荘子』に記された、古代の逸話とされている。

 ある山のふもとの民は、畑の実りを妨げ、そして隣町との往来も妨げるその山を、大層疎んじていた。

 そんなとき、ある男が立ち上がり、農具とかごを持って山へと向かった。

 彼は「山をあっちに動かしてくる」といって旅立ち、馬鹿にする村の友にこう言ったそうだ。


――確かに何百年かかるかわからん。だが、俺が終わらなくても、子がいて、孫がいて、だんだんたくさんの人でできるようになる。でも山はあそこにあって、動くことはない。だったら、少しずつでも動く俺達のの勝ちは、最初から決まっているんだよ――


 それを聞いた神が驚いて、山を動かしただとかどうとかいう結論だったと思うが、そんなことは重要ではない。


 張遼様は間違いなくそれを実践する。彼はやると言ったらやる。それは誰もが知っていた。



 数日後、三十万の兵は、草原のある位置で立ち止まった。確かにここであれば、一万ほどの兵を置けば、何日も耐えられる拠点を築けるだろう。そう諸将が考えていると、


「お出迎えだな。十万か」


「向こうも揃えてきているようだな。はじめに言った通りだ。突撃は、真っ直ぐ受け止めずとも良い。我らの陣の深さで受け止めて、押しつぶせ。射掛けてくる矢は盾で守れ。とにかく引いてはならん。一歩ずつでいいから進め」


「「「応!」」」


 匈奴の将が誰なのかははっきりとはわからない。だが、以前蜀や魏が相対したうちの誰かだろうとは想像がつく。そして匈奴は、一当てしてくることに決めたようだ。


「突撃、は、してこないようだな」


「向こうも様子見だろう。手筈通り、後方で砦を作り始めよ。できたら悟られない方が望ましいが」


「むっ、匈奴は大きく散開し始めました」


「ちっ、やはりそう来たか。こちらの意図を探りにきたぞ。円陣に切り替える。工兵を守り、全方位からの攻撃に備えよ。十五万で外殻を作り、十万の内殻は、外の様子を聞きながら、相手の動きに合わせて外を補え。中の工兵まで入られぬようにせよ」


「承知。内殻は龐徳、郝昭、曹彰、曹爽でそれぞれ見定める」


「さて、ここで固めたとして、やつらはどう出るかな」


 双方の陣の形がおおよそ整ってきた。魏は三重の円陣。対して匈奴は一度散開して背後に回った後、こちらを



「まずは矢を射掛けてくるだけのようですね」


「この兵数の差で突撃はしてこないか」


「張遼殿、やられたくないことは?」


「増援を呼ばれ、消耗戦に持ち込まれることだな」


「そうなったらどうする?」


「一度拠点を諦め、少しずつ引きながら、相手の追撃を受け止めて削り合う」


「つまり、円陣のままよりもさらに守りに適した固め方をして、消耗戦で不利にならないようにする、という形か」


「だが、それをやってくる気配はなさそうだな」



 そうこうするうちに、外殻から報告が入ってくる。


「外から近づいて、走りながら射掛けてくるのですが、向こうは相当な手練れ。盾の隙間を狙われ、怪我をするものが続出しています。急所は守っているので死者こそ少ないものの、盾や弓が持てなくなる者が続出しています」


「なんだと……仕方ない。少し見てくる」


「ああ、気をつけろよ。そなたも全盛期とはいくまいからな」



「おや? やはり張遼様ですか。こんなところまではるばる大軍を率いて、ひとつひとつ拠点を作ろうとは。あなた様の派手な事績に似合わぬ地道ななしよう、まさに『愚公、山を動かす』といったところですかな」


「ちっ、そなたは漢人の血を引くようだな。もしや、李広様、李陵様の後裔というのはそなたか?」


「その通りです。不運と共に李家の血を引く、李運とは私のことでございます」


「なるほど、それでその弓の腕、そして運、いや、こちらの不運を使って、その精度で矢を、か」


「三十万程でしょうか。まあ一万や二万ほどの負傷者が出れば、無理はできなくなりましょうからな。こちらは何日もかけて、削っていけば良いだけのことです」


「ちっ、愚公に愚公で返してくるとはな。なんてやつだ」


 お読みいただきありがとうございます。

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