百十二 駆虎 〜(水神+蛇神)×(夜神+豹神)=未来?〜
「この場にいるはずの者が、今どこにいるかを思い浮かべてみよ。そしてこれもまた、『開かれた知』の一つ、『虎を駆りて狼を呑ましむ』策。さあ、思い至ったら、ただちにそこへと向かうが良い」
我が名はテペヨロトル。森の民の勇士にして、夜の神王テスカトリポカの同志。我らは知ある巨人が演じ、『開かれた知者』たるカンのリクソンが仕掛けた罠に嵌り、あと少しで全員が炎に包まれて神ならざるなにものかへの贄となるところまで追い込まれた。
そしてその罠を明かすリクソンの最後の言。確かに、あの男はどこだ?
「トラロック……どこにいる? それに、泉の国の勇士も、わずかしか見当たらん」
「まさか、奴らは森の中に紛れていたのではなく、この場には本当にあれだけしかいなかった、というのか?」
「だとすると、どこにいる?」
ここで、神王が気付かない可能性のあることに、我は気づいた。
「神王よ、我らが神の都と、かの泉の国の間を行き来する道は、幾つあるか知っているか?」
「ん? この森を抜け、海岸を通り、半島の平原を抜ける道ではないのか? あ、いや。確かにそれだけではない。陸の道はそれだが、『海の道』は確かにある」
「ああ。その通りだ。半島をこえたら、そのまま海を渡り、都に一番近い港から、真っ直ぐに向かう道。カヌーさえあれば、そちらの方がだいぶん楽といえよう」
「それはそうだな。だとしたらどうだと? ……むっ、まさかトラロックは」
「そう。トラロックは今頃、残りの勇士とともに都に攻め登っている可能性がある」
「なんだと……ならば是非もない。直ちに引き返すぞ。ここの奴らは数は少ない。追撃などできはしまい。それと……」
「ん?」
「森の民よ。そして、カンの国の、リクソンと言ったか?」
「何だ?」
「そうだが?」
「そなたら、無闇に命を奪うのを好まぬ様子。ならば、ここでその巨人にやられた、五百近くの傷ついた者らを、頼み申す」
「なかなか都合のいい申し出だが、仕方あるまい。いずれにせよ、あの獣道は、かなり危険が迫っていよう。人の争いが終われば、そこには獣や虫が多数群がる。貴方らは、そこに注力するといい」
「感謝する。もはや我らにその情に報いる何かがあるかはわからんが、仇で返すことはせん。では、知恵ある者たちよ、さらばだ」
こうして、夜の神王が率いる軍は、怪我や疲労で半数近くをこの地や道中に残し、急ぎ引き返すことにした。
だがその道中自体が、確かに厳しいものになった。獣道というのは、狭い獣道は小さな獣。広い獣道には大きい獣と決まっている。だとしたら、あの主要な道には……
「神王よ、この道はまずい。おそらくジャガーの縄張りだ」
「何だと? 来る時は……」
「巨人やあの者らに追い払われていた、と言ったところか」
「別の道、どうにかなるか?」
「ああ、なんとかな」
そして、木で道が塞がれたり、毒虫やワニの恐怖に怯えたり。今にして思えばなぜここまで来れたのか、というほどに難儀した帰途。
それでも何とか二千ほどで森を抜け、街へと向かう頃には、勇士達の疲労は頂点に達していた。そんな状態で、都に帰り着いた時、その都には、トラロック率いる泉の国、そして海の民、湖の民の勇士達が、その前に立ちはだかっていた。
その先頭に姿を見せたのが、大ぶりの羽飾りと、蛇を型どった腕輪をした少女ククル。
「お帰りなさい、夜の神王。だがすでにこの地は、あたしたちが制圧したよ」
「くっ……そのようだな。だがどうやって? 勇士は五百ほど残していたはずだが。まさか、海の民と湖の民をそちらに手懐けたのか?」
「えへへ、そこはちょっと違うんだ。実は彼らには、直接手を出させてはいないんだよ。ただ傍観者として、どちらの進む未来が、あなた達の選びたい未来かを見定めてくれ、っていう頼み方をしたんだ。だからただついてきただけだね。まあ示威行為のための、人数のかさ増しにはなったけどね」
「むう、だとするとなんだというのだ……これもまた、『開かれた知恵』とでもいうのか」
「うん、その言い方は間違いなく正解だよ。漢という国ではね、ある有名な、戦いの術を目的とした書物があるんだ。それはいろんな応用が効きすぎて、最初はあたしも『星読みの術を活用するための手引き』かと思ったぐらいにね」
「書物……」
「ほら、これね。読み方は後でゆっくり、だね」
「この文字の数。これがショチケツァルが目の色を変えて、消えゆく予定だった碑文を書き写した先なのか」
「うん。そうだよ。それをすぐに理解したあの人も、やはり知者、だよね。あなたと同じように」
「かもしれんな。確かにこれは、『開かれた知』をうむ源泉と言えよう」
「それでね。その後ろの方には『間者』つまり、情報をあつめたり、相手の情報を乱したりする役目のことが書いてあるんだ。その中に『反間』『郷間』ていうのがあってね」
「郷、そして反。その響きからすると、その土地の者、そして、叛意を持つ者、といったところか……つまり、貴様は我が見過ごすのをいいことに、この地でこそこそと、味方を少しずつ増やしていっていた、ということか」
「そういうことだね。もちろん、最初から『裏切れ』なんていう刺激の強いことは言っても聞いてもらえないんだよ。だから、あなたのことや、ここの暮らしのこと。地震に対する不安や、ショチトルのこと。そんないろんな話をしながら、この紙と書物の存在も、いろんな人にしてみたんだ」
「そんなことが、効果を……いや、それは、賢ければ賢いほど、その意味を理解するだろう」
「うん。そして、だんだん聞いてくれる人が増えていくと、お互いに話し合い、論じ合う人たちも増えてきたんだ。そうしているうちに、たまに湖や海の民のところにも連れていってもらって同じことしたり、ショチトルとも議論を深めたり、あたし自身も漢の書を読み深めたり」
「そうするうちに、月が一回りし、巨人が現れた」
「そう。それであなたは、数だけ指定して、行く者と残る者に分けた。夜明けになって、そこに参加していなかった人たちは、今までの暮らしが作る未来に、ちょっと大きな疑問を持ち始めた人たちだよ。それに、その疑問がなくはなかった人たちは、あなたについては行ったけど、ちょっと軍の後方に控えていたはずだよ」
「むっ、後方? まさか」
「そうだね。兀突骨、つまり巨人に果敢に向かって行き、罠へとはまっていった前線の人たちに対して、冷静に状況を見定めていた後方の人たち。彼らはあなたや、前線の人たちのことをしっかり見ていたんだよ」
「そうか。そうだとしたら、我の味方というのは、もう相当減ってしまったということなのだな」
「そんなことはないんじゃない? あなたを本当に嫌っている人は、本当に少数さ。それは、このひと月で重々理解したんだよ」
「くっ。だが結局は貴様やトラロック、ショチケツァルの方についてしまった、ということだろう?」
「結果的にはそうだね。この国、そして、この大陸の人たちは、開かれた世界、開かれた知を、知ってしまったんだ。そしたらもう、元には戻れないよね」
「……ああ。そうだな。確かにそうだ。我は夜の神。戦いと知恵を司る者。そう言われてきたが、そういう意味では、閉ざされた知、そして井戸に落ちたカエルだったというわけか」
「悪かったね。あれは流石に言いすぎたよ」
「いや、そんなことはない。だがなククル。そしてカンの力を借り、そして羽をもつ蛇神となりし者、ククルカンよ。そのカエルとて、閉ざされた知とて、たどり着く一つの真理があるのさ。『明けない夜はない』」
「! そうだね。そのとおりだ」
「我はまず、その神の名を捨てる。そして刹那の間、その『開かれた学び』を得たのち、この地を離れることとする」
「……いいのかい? みんなそこまで望んでいるようには見えないよ」
「いや、いいのだ。トラロックやショチケツァルがいる限り、またねじれが生じかねんからな」
「なるほど」
「だがいつしか、おそらくはるかに広いこの大地に、『夜明けの神、テスカトリポカ』の名を、響かせてみせるさ」
「えへへ、最高だねそれは」
それを聞いていた我、ジャガーの勇士、テペヨロトルは、叫ばずにはいられなかった。
「神々の地の民よ、方々の地の勇士達よ! 夜の神王、否、夜明けの神王に、羽備えし蛇に、そして水と嵐の神、花と豊穣の神に、祝福の叫びを挙げよ! そして遥か遠くのカンの地に、その名を轟かせよ!」
「「「オオー!」」」
「「「テスカトリポカ!」」」
「「「ククルカン!」」」
「「「トラロック!」」」
「「「ショチケツァル!」」」
「「「テペヨロトル!」」」
「「「リクソン!」」」
「「「ゴツトツコツ!」」」
なんか色々増えちまったが、仕方あるまい。
我こそはジャガーの勇士、山と森の神。この広き大地の夜明けを見守りし者、テペヨロトル。
あたしはククル。いつからか、漢と組み合わせたククルカンと呼ばれ始めることも出てきたんだけど、今は少し時が経ち、トラロックとショチトルの娘、マヤウェルちゃんに、あの時の話を聞かせていたんだ。
「ふーん、そしたらあたちも、その本をよんで、たくさんおべんきょうたいんだよ!」
「そうだね! お勉強をたくさんして、パパやママみたいに、いろんなひとを助けられるといいね!」
「うん! パパやママ、ククルお姉ちゃんみたいに! ねえねえ、それで、夜明けの神様はどうしたの?」
「彼はそれから数日だけ、あたしとショチトルママから、字の読み方と書き方を教わって、そして陸遜から何冊か本を貰い受けたら、何百人かをつれて、旅に出たんだ」
「へえー。やっぱりいい人だったんだね。たくさんお友達がいたんだよ」
「そう。そこにはテペヨロトルもいたし、ちゃんとそれぞれの奥さんや子供達も居たんだよね」
「うんうん、それで、どこにいったのかな?」
「海の民が使っていたカヌーをかりて、北の海に漕いでいったんだ。それは、陸遜の提案を受けたんだ。『大きな河を見つけろ。そこなら百万の民が居られる都市を作れるだろう。そして、そこを起点に千万、あるいは億の民とて生きる術があるかもしれない』だって」
「おおー、すごいね」
「それは多分、ここのあたりも同じなんだよ。あの大きな湖、高原の街、泉の平原、河が流れる丘。そして海の橋と、さらに南にある母なる地。その全体をみんなで行き来させて、大きな暮らしを作れば、沢山の人が笑って暮らせるはずなんだ」
「そうだね。おうちに帰っちゃったリクソンお兄さんも、ゴツコツコツおじさんも、そんなことを言ってたよ」
「うん。あなたが王になるころには、またあの人たちに会えるかもしれないよ。それまで陸遜とはしばしのお別れだよ。兀突骨は、こっちに居座るみたいだけどね」
「えへへ」
そう。陸遜は帰っていった。彼らにとっては一つの小さな戦役、だけど世界にとってはとんでもなく大きな変化と、幾つもの中継拠点を残して。
彼らの何人かとはしばらくお別れだけど、交易路としての東西を結ぶ海の道、『紙神の道』は、その太さを何年増していくことになる。あたしたちが馬と呼ばれる巨獣に驚き、鉄や銅、紙の製法を学ぶうちに、彼らはこちらの農作物の強さに驚き、星読みや、石造り建築を習得していく。
そして、何かを思いつきそうで少しモヤモヤしていた曹植。あたしはなぜか、モチェよりもさらに南で、その答えを見つけられそうな気がしたんだ。それを伝え、陸遜と共に南に向かうと、それはそれは膨大な叙事詩を生み出し続けながら、共に帰っていったみたいだ。
――星を読み人を煮る壇 風を切り馬を駆る軍
戦に理由の有りや無しや 智に優劣の有りや無しや――
お読みいただきありがとうございます。
第十四章、マヤ編、完となります。もう一話、やや独立した断章、そしてしばらく間話を挟み、漢土+匈奴編に続きます。