百六 開国 〜(陸遜+曹植)×水神=??〜
我が名はトラロック。水の神などと言われているが、我が女神ショチトルの偉大さに比べれば微々たる功。
数日前、ショチトルは山奥の、夜の国へと旅立っていった。それはこの泉の国の豊穣に目をつけた彼の国の神、テペヨロトルが、彼女を生贄に差し出せと命じてきたからだ。
我らに抗する術があったら、せっかくモチェから連れ出し、生きる喜びを知った彼女を渡しなどはしない。我は戦の心得もなくはない。誰かに負けたこともない。だが、あの夜の国は違う。
この地の民を守るため、その選択しか選べない。前の時は、彼女だけの命の問題だったから、迷うことはなかった。だがこたびは、ここにいる万の民の命がかかっていた。
そんな口惜しさと、力及ばぬ空虚。全てに絶望していた。そして気づいたら、都を離れて、海辺の街へと足を運んでいた。娘のマヤウェルにでも会いに行こうとしているのだろうか。
だが港に足を運ぶと、何やら騒ぎになっている。
「どうした? まさか、テペヨロトルが約定を破って攻めてきたのか? だがこっちはあの国からは遠いが」
「トラロック! いや、そうじゃねえ。黒い船だ。四隻の黒いカヌー。大きな声で何か言っている」
行ってみるか。
確かにそこには、黒く塗られたカヌーが四隻に、それぞれ二人ずつ乗っている。その黒は、翡翠の海によく映え、陽の光をも飲み込む黒。彼らは獲物を狙うカラスか、はたまた言い伝えのある黒きジャガーか。
すると、やたらととおる、大きな声。何か筒のようなものを持って、巨人がカヌーに立ち上がり、叫んでいる。カヌーが小舟に見える。
「我らははるか西から、一年かけてここまできた! 全てはこの地の、生贄という名の野蛮で低俗な文化に終止符を打たんがため! この世界の広さ、己の無力を知り、世界の中で、その貴重な知を活かす未来を与えんがため!」
……なんだと? 生贄を止める、無力を知らしめる? たった四隻で?
「文句があるなら、兵を集めて参陣せよ! 我ら八人、幼子と弱輩がいるから総勢六人! それだけいれば、この弱国など、瞬く間に平定して見せようぞ!」
すると彼らは、二人を残し、まことに六人で上陸してきた。全員槍や刀剣を持ち、誠に戦わんとしているように見える。巨人が一人、屈強そうな者が三人。そして、強そうではないのが二人。
放っておくのは良くないだろう。行ってみるか、と思ったとき、喧嘩っ早い大男らが三十人ほど向かっていった。だが、
「潮の風が侵す鉄刃 贄の儀が蝕む人心
人の技を伝えるは組紐 神の意を残せしは刻印」
槍を手にした弱そうな者が、これまた通る声で何やら拍子を切って何か言いながら、次々にこちらの大男らを組み伏せていく。そして巨人が再び叫ぶ。
「終わりか? まだいるように見えるが? 我らは百や千では破れんぞ? 何千と連れてくるか? それとも話で解決するか?」
我の近くにいる街の者らは、どうすべきかわからないでいる。
「トラロック、どうする? あいつら千はわからんが、この街の勇士の百は討ち果たすぞ?」
「確かに、弱そうな奴に三十ほどやられたな。ここは我が行こう。話をしてみる」
そして、これ以上向かうのをやめた、街の勇士たちをとどめつつ、彼らに問いかける。
「我が名はトラロック。水と嵐の加護を負い、この地を統べし者! 遠くから来て御足労だが、その数でそのなさりようは、狂気としか思えぬ! 改めて、何をしに来たのだ!?」
「我が名は陸遜! はるか西の漢から来た! トラロックと言えば、南の国、そして海の橋パナマ、クナの地でも名が轟くほどの水の神にして、花と豊穣の神たるショチトルと共にあるはずの者! それが一人で、こんな端の港町で、用もなくくすぶる理由は見当たらん! 果たしてその名はまことなりや? まことならば、都から千でも万でも連れてきてから話をするのが常道!」
まさか、トラロックの名を知りながら、ここにいる我を信じぬ、と来たか。そして何人か、その言い方に棘を覚えたのか否か、再び彼らに向かう。今度はやや小さいが屈強な者が何かをすると、向かうものがうずくまる。
「イテッ!」
「ぐわっ!」
「がっ! なんだ? 石!?」
どうやら、石をぶつけられているらしい。なんとも妙な技を使う。
それにしても強い。最も強そうな三人がまだ何もしていないのに。
「そなたら、まことにこの国を抑え込み、この地から生贄を無くそうとするのか?」
「その通りです! トラロックと共に南から逃げおおせた女神ショチトルも、結局は逃げた先で生贄となる運命を逃れられず。優れた者、特に優れた女子が命を神に捧げられる。それではその国が百年千年経っても、新しい何かを生み出すことはありません」
「千年? 新しいもの……それは確かに我とショチトルは、新たな豊穣と、より大きな繁栄を願ったのに近しいが」
「あなたが真のトラロックなら、あなたの居場所はここではありません! 早々に都に戻り、我らを追い払う算段をするか、はたまた我らを迎え入れて、山奥の国からショチトルあるいはその亡骸を取り戻すか、二つに一つ!」
「要求が極端な奴らだな。我が真のトラロックなら、とまで言うか。いずれにせよ我らは戦いは好まん。それゆえ、失うことに慣れてしまっているのやもしれん」
「敵国の数はいかほどで、こちらの勇士はいかほど?」
「こちらは、二百。かき集めても五百。向こうは三千は容易と言っている」
「言っている、ですか……調べる必要がありますね。ですがまずは五倍、あるいは十倍なら勝てると言うことを知らねばなりません」
「な、何を言っているんだ?」
「先ほど示したばかりでしょう? 私たちはそちらの二十や三十をねじ伏せます」
「それは個別の力強さの話であろう? 兵を率いて五倍十倍は違うのではないか?」
「私や曹植殿は、兵を率いるほうが得意なのですが、それはおいておきましょう。そうですね。あの箱がちょうど良いです」
そういうと、巨人が、空き箱をこちらに持ってきた。
「力の自信がある者はいますか? 先ほど負けた者の中で構いません」
最初にねじ伏せられた中から、回復した者が名乗り出た。だが負けた手前、すこし気後れが見られるが。
「う、では、俺が行こう」
「何をするんだ?」
「曹植殿。不得手と知りながら恐縮ですが、腕相撲を」
「は、はあ……まあ良いでしょう」
「互いに向かい合って、肘をおいて、手を組んでください。先に相手の手を、向こう側に着かせた方の勝ちです。できますか?」
「それなら良く酒場でやるぞ。まさかこの小さい兄ちゃん、それも強いんじゃねえだろうな」
「やってみたらわかります。ではどうぞ」
「むぐぐぐ……」
「げ、弱い……勝っていいか?」
「ど、どうぞ」
「こんな形です。腕っぷし自体はさほど強いわけではなく、あなた方の勇士の方が上かもしれません」
「そこの巨人はどうなんだ?」
「やめた方がいいと思いますが」
「……そうだな。やめとく。では先ほど三十人がやられたのは」
「まず、戦場としての心構えがあったかどうか。相手の虚をつき、同時にかかることのできない方向から制圧し、一人ずつ確実に仕留めていく。それに何より、我戦場にありと言う覚悟と、それによる昂り」
「さっきなんか呟いていたのはそれか」
「はい。彼は詩を愛する者。ならば自らの言葉を持って、その戦意を高めると言うことをやってのけます」
「この兄ちゃんが一番強いのか?」
「いえ、一対一ならそこの四人には手も足も出ません。そして、百対百なら、私には容易に手玉に取られます」
「つまり、この中では特別強いわけではない、と」
「得手不得手、と言ったところでしょうな。どちらもできると言う意味では貴重なのです」
「つまり、この地でかき集めた五百くらいなら、そちらの六人で容易にねじ伏せて見せる、と」
「それも可能でしょう。ですが何より、この六人、いや、向こうの二人も合わせて八人いれば、こちらの五百で、向こうの五千を制するのも問題ないということです」
「五百で五千……」
「それに、誠に三千や五千を集められるか。それも怪しいものです。正確な数は分かっておられぬ様子」
「ああ。千は見たことはあるがな。向こうの国は、おおよそ五万か十万の人が、一つの街に暮らすと聞く」
「それなら五千は……いえ、どちらが正しいかはやはり実際に見てみましょう。ではトラロック殿。どうしますか? まずはその、六対五百をするか、我らの兵法を知るために二十と二百でというのも出来ますが」
「むむむ、そうだな。いずれにせよ、この港町ではらちがあかん。ムトゥルまで案内する。港の勇士たちよ、そなたらは、一度各地を回り、各村の勇士たちを集めてきてくれるか?」
「わかった。水の神よ、黒い怪物に飲まれぬよう、お気をつけて」
「ああ、よろしく」
そうして我は八人を連れていくことにした。するとその中に、一人の少女がいるのに気づく。
「そなたは、もしやモチェ、南の国の者か?」
「そうだよ! あたしはククル! はじめまして、水と嵐の神トラロック」
「ククル……たしか、西の海から流れ着いた、船と星の神の系譜に、そんな名の赤子がいた気がするが」
「そうだね。赤子っていう年だったのか。ご先祖はそっちから来て、代々星読みと、船の術を欠かさず学んできたんだ。それが、この人たちを招き入れた、と言っても良さそうなんだよ」
「それで、そなたの星読みは、彼らをこの地まで導くことを選んだのだな」
「うん。それが、元の未来を大きく変えるかもしれない。だけど、その舳先が示す星の向きは、停滞と衰退の未来を変えるかもしれない光明なんだよ」
「停滞と衰退の未来。生贄がそうだと?」
「そうだよ。とくに才ある人、知恵のある人が、その生を閉ざされる。それは閉ざされた世の安定は生むかもしれない。だけど、世は閉ざされていなかった。そもそも山奥の国を外と見てしまえば、その意味はわかるだろう?」
「ああ、人は多ければ強い。それだけではないと思うが、それが一つの真理なのは確かだ。それを妨げる、知の停滞と、人の数の停滞。それは、限られた地での秤を保つ事しかできない世の形、といえような」
「それを一度は変えようとしたあなたとショチトルなら、分かっているんだね。だけど変える力は足りなかった。私がそこに加わっても、それだけでは不十分だったかもしれない」
「だがそこに、彼らが現れた、か」
「そうだね。その訪れの意味が分かるのは、もう少しだけ先のことさ。今はまず、その力と考えを知るといいよ」
「ああ、分かった」
そうして話をしながらムトゥルの街へ着くと、そこには三百ほどの勇士たちが、街の外で待ち構えていた。
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