百 再建 〜 (神学者+哲学者)×(幼女+マニ)=紙神?〜
西暦二三〇年。西の大国ローマ。
この年、人々は思い知る。知識や記憶を忘れ去る、失うという現象は、もはや存在する必然性がないことを。
この年、人々は思い出す。家屋や倉庫の中に、落書きでしかなかった、腐りかけたパピルス片があった事を。
この年、人々は思い定める。考えた事、話した事、起こった事の全てを、書き尽くしてもいいという事を。
一度目の船は、二十万枚の紙が、二人の少女と一人の親、三人の東国の若者とともに降り立った。その紙は、パピルスの五分の一の銀貨で売られた。それらは直ちに、傷んで読みづらくなっていた古書の写しや、紙や神に関する白熱した論議、そして学者たちの思考によって、瞬く間に埋め尽くされた。
二度目の船は、五十万枚の紙が、半年後に届けられた。少しだけ割高な銀貨だが、誰一人買い渋るものはいなかった。なぜならその頃、何も書かれていない白い紙は、中身が崇高な理念や貴重な知識で埋め尽くされたそれの、半分ほどの価値があるという常識であったから。
三度目の船団は、百五十万の紙が、一年後に届けられた。必要な銀貨は一度目と同額にまで下がり、多くの知識人が、好きなだけ手に入れられるようになり始めた。なにせ一月の給金で千枚だ。そして人々は想像する。この紙がおそらく、毎年同程度の量、このアレクサンドリアに届くかもしれないと。
その間には、ゼノビアやトトガイウス、ヒィらのこんな会話が繰り広げられたという。
「ねえ、陸上のキャラバンの規模と数は、まだまだ増やせそうだよ! アンティオキアに届く量は、もう三倍くらい行けそう!」
「ひ費禕のおかげで、せ関所はほとんど止まることはなくなったぞ。そんだけ増やしても問題ないぞ。それに、きょ姜維と一緒に、海路も見てきた。あっちも年に何隻かは行けるぞ」
「マニがクテシフォンへと往復し、ティグリス河流域に紙工房が増えたと聞いています。持ってくれば飛ぶように売れるので、管理を任されているシャープール王子も気合を入れておいでとか」
「なら来年は三百万、再来年は五百万いけるね!」
彼らの言を信じるとしたら、近いうちに一千万の紙が、この地に存在することになる。そうなると、その意味は、大きくその様相を違えることとなる。
アレクサンドリア図書館。四十万巻の所蔵とされているが、現在ではその半分ほどを残し、それ以外は散逸したか、各地に分散している。そして、その一巻は巻物の形をしており、この紙を束ねた書籍よりもだいぶ少ない。およそ百枚分といったところか。
そしてこの紙、なんと両面に物を書いても問題が起こらない。さらには、平らで手に馴染むため、より小さく書き記しても可読性に支障がない。だとすると、およそ三十枚もあれば、一巻分は容易に収まる。
図書館に残る二十万に、分散した十万。それが一つ三十枚。この掛け算を間違える者は少なかろう。つまりそう。足りるのだ。三年で。
無論、新たな作品や目録、解説や論述などを加え、それに現在の知識人や神学者のあれやこれやでその見積もりは増えるだろう。だがそれでも、五年もあれば足りてしまう。あのアレクサンドリア図書館が五年で。
人々は思い知る。あと十年もすれば、人が生み出す知識の分を超える量の紙が、世にあふれかえることを。そして知識や論述などいくらでも増やせることにまた気づく。
人々は思い出す。忘れたくないが、いつ忘れるかわからぬ、そんな価値のある記憶を。それを永遠に目に留められることを喜び、他者が書いたものを読むことを楽しむ。
人々は思いを馳せる。この軽く丈夫な紙束に、遠くの者に伝えたいことを伝えたいだけ書き記し、容易に運搬できることを。些細で雑多な情報が、ローマ中を駆け巡る。
この夜明けを、なんと表現するのだろうか。その表現だけは、まだ我が手がこの紙に書き記す言語を、持ち合わせてはいない。
――オリゲネスから、ローマの友に宛てた手紙。それは新しい紙二百枚分にぎっしりと埋め尽くされた、自身とプロティノス、ペルシャの神童マニ、パルミラの才女ゼノビア、そして東国の奇術師トトガイウスらとの、時を忘れた対話の議事録が添えられていた――
「オリゲネスさんよ、もう知識ってやつは、神の意を汲み取らんとする者達だけが享受する啓示でも、人が一生をかけて突き詰め、研ぎ澄ませただけものだけがが見出す至宝でもなくなりそうだぜ。そこんとこどう折り合いをつけていけばいいと思うんだ?」
「プロティノスよ。儂もそなたも、この変わりすぎた状況においては、初生の赤子と何ら変わらぬぞ。故に、儂や、そなたの師、アンモニオス=サッカスらに聞いても、答えなどは出てこぬと見ているのだよ」
「お二方とも、少々難しく考えすぎておいでなのかもしれませんね。すでに対話や議論、それに個人での思考や、神への問いかけといった全てが、その場で完結するものでも、要旨を残して忘れ去るものでもなくなったんですよ。であれば、余計な歯止めなど忘れて、考えたいだけ考え、話したいだけ話せば良いのです」
「マニ少年よ。そなたの、まだ幼さが残る風貌に似合わぬその悟りよう。儂らより少しばかり早くこの紙や、あちらの三人にであったから、と言うだけでは、その真理にはすぐには辿り着けまいて」
「マニ、お前のその光と闇の二元といったな。あまりに短絡的な、あまりに幼稚な摂理だが、なにやらその表面的な描像と、お前のその真理の掘り下げが、どうも噛み合わねえんだが、どういうことなんだ?」
「そうですね。光と闇。それは、前と後ろという言い方に置き換えても、大きく外れることが無いのかもしれません。つまり、立ち止まった者は、つねにその背中から闇に飲まれる可能性がある。だから人は常に探求の手、開拓の足、観察の目、対話の口を止めてはならない」
「つまり、闇に飲まれるのは、常に己の後ろ向き、もしくは停滞した思考と行動から始まる。そういいてえのか?」
「はい。その通りです。だからこそ、己は己の、人は人の歩む道を妨げてはならない。あなたには見えているボクやオリゲネス様の背中は、それぞれにとっては闇でしかありません」
「立ち止まることは、安息にはならないのかね?」
「ひとときの安息は、誰にでも必要です。それはすなわち、光のみを常に追い続ければ、人の目は焼かれ、喉は渇く。だから闇が常に悪ではなく、時に目を閉じて、闇の中で問いかけることも必要です。そしてその結果を、光の中で再び書き留めるのです」
「マニ、紙は白くて、インクは黒いんだよ! 白と黒がなかったら、誰も意味のあるものを書き表したりできないんだよ!」
「なるほど。そうだねゼノビア。紙は光、そこに意をなさしめるのは影にして闇。なら人は、その裏表一体で、ようやく人になるのかもしれないね」
「空椀配飯、空屋住人、だぞ。あ空いたところがあるから、皿や椀に飯を乗せられる。あ空いたところがあるから、人は家に住める。光と闇もおなじだぞ。光があるから影が形になる。闇があるから、光がものを照らして形を見せられる。どっちかじゃたりねえんだよ」
「トト、その最初のやつはなんだい? 論語とも孫子とも違うような気がするんだけど」
「これは老子ってやつだぞ。こ孔子と大体同じ頃の人で、無為自然を信条にしていたんだ。だけど、それはそれでどっちもいいことなんだぞ。自然のままにした方がうまくいくときと、考え抜いて答えを出した方がいいときと、両方あるんだよ」
「トトガイウス、それ、まだ荷車にある? あったら後で見せて!」
「ああ、あるぞ。ひ費禕がお気に入りなんだ。似たようなやつで、荘子ってのもあるからな。老子の中には、知る者は言わず、言う者は知らずって言葉もあるな。なんか似ているやつがありそうだぞ」
「それはソクラテスの、無知の知だな。東でも西でも、人が思いを馳せているうちに行き着くところは、結構似てくるのかもしれねえな」
「それだな。そうしたら、知らないって事が、悪いことでも無いんだな。知ってると思ったらそこで終わっちまうんだ。それはマニが言ってた闇と一緒かもしれねえ」
「知らないと思うから、人は知ろうとして、話したり考えたりする。でもそれが、書き留められなかったから、忘れてしまうかもしれない、ずれてしまうかもしれない。そんな恐れがあったら、話したり考えたりするのが止まってしまうかもしれないよね」
「それだよマニ! みんなが戦うのは、お互いを知らないから、だけじゃなくて、知ろうとするのと、忘れたりずれたりするのを考えていたら、大変すぎて、話し合ったりできないんだよ!」
「だから人は争いにかかる対価を、余計に軽く見てしまうんだね」
「やっぱり、みんなが書いて読んでってできるようになれば、きっと余計な争いは減らせるんだよ! だから、なんとしてもアレクサンドリア図書館を立て直して、みんながみんなと話し合って、わかり合うことにかかる対価を減らしてあげるんだ!」
「なあオリゲネスさんよ。不遜なのかもしれんが、このゼノビアという幼子や、マニという少年が、神々しくすら見えてきてしまうんだが」
「プロティノスよ、それは、神は一つという教えに反する、そこをどう考えるのか、という話かな? だとしたら答えは出かかっておるかもしれん。光と闇の裏表。それが神と人、一と全。そんなところまで当てはまるのならば、神は一にして全。であれば、人の優れしに、人の気高きに、神々しいという表現をしたとしても、それは決して不遜では無いかもしれんぞ」
「つまり、尊いと思う気持ちの先に見える者に、神の面影を感じたとしても、それは一にして全なる神の、その面影が皆見えたというのなら、それが間違いだとは言えないわけだな」
「ああ。それは決して、マニやゼノビア、トトガイウスそのものが神に近づいたということでは無い。誰しもがその高みにたどり着かんとするとき、それは神に近き面影を持ちうるのだ。それは人にも然り、もしかしたら、ある紙の上に、至高なる書き記しがあれば、そこにも神の面影があったところでおかしくは無いのかもしれんぞ」
「聖書が神の面影をたたえる、というのはそういうことなのか。それは、質の高い対話や書き物が、イデアを垣間見せる、ということを意味するのだな。神とイデアは同一なのか?」
「なんだ? 神はイデアではないのか?」
「いや、神すらイデアではないというのなら、人にイデアを探求する術はないと言えるさ。いずれにせよ、ただ対話し、ただ書く、今はそれしかできねえってことだ」
「ああ、そうだよ。神は人に言葉を与え、木と水と時を与えた。ならば、人がただ対話し、ただ書くという所業に、神の意思が入っていないはずはないのだよ」
これだけ取り止めもなく話を進めているが、誰一人心配はしていない。それは、その後ろでヒィが、黙々と我らの話を書き留めてくれているからに他ならない。
こんな日々がしばらく続き、アレクサンドリア図書館再建の目処が立ってきた頃、本国ローマ、属州ガリアとアフリカ、そしてアンティオキアから、凶報や不穏な報がとどく。
ローマから伝わりし、「現帝がアフリカ属州出身者の手で暗殺。やはり、治世の才があっても、ペルシャに勝ちえぬ帝を、中央と属州も認めなかった。そしてアフリカの地で、独自に帝を僭称する者あり」
ガリアからは、ゴートの猛攻あり、アンティオキアからは、関所近くにフン族が増、という報告が上がった。
そして、トトガイウスが、こんな事を言っていたと伝わる。
「あれ、フン族じゃねえかも」
ローマは一日にしてならず。だが、ローマが崩れ始めるのは、作られた時と比べて相当に短いのかもしれない。
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