九十九 到着 〜 (神学者+哲学者)×幼女=黎明?〜
この日、一隻の船が、アレクサンドリアの港に現れた。普段よりも少し荷下ろしに時間をかけたその船から降りてきたのは、黄色い肌の若者三人と、ペルシャの少年、そしてパルミラの幼女とその父親。
この、少しだけいつもと違う寄港者たちが、ヘレニズムの残滓、イエスの使徒、そしてこの地に住むあらゆる者の運命を、大きく動かしたのかもしれない。そんな記述を、今日この日にしておくことに、大きな意味があるのだろう。
なぜなら今日この地に届いたこの一枚目の紙こそ、我らが知らなかったことを知らしめた、その最初の一枚なのだから。この紙こそ、人や神との向き合い方に、新たな可能性を与えた、最初の一歩なのだから。
我が名はオリゲネス。イエス=キリストの教えを胸に、このアレクサンドリアの地に宿る数多の知識を糧に、真理を探究せし者。
とはいえ、まだ若く未成熟な教え。そして、今は収まっているが、いつまた迫害の対象となるかも分からぬこの教え。かような有様では、その教え自体がいかようにも転じうることに、誰よりも我自身が危惧をしている所。
東より伝承された、神ならぬ紙の製法と流通。それは我らやこの教え、この国、そして人々にとって、新たな福音となるのか。それとも悪魔の侵略となるのか。その未来は、その二十万と言われる紙とともにアレクサンドリアに降り立った、その六人の妙な者らにかかっているのかも知れない。
少しさかのぼって、彼らが降り立ったところから書き始めよう。まず初めに降り立ったのは、幼子と、その父親。なぜだろうか。その幼い娘を見た時から、その振る舞いや、目の輝きから目を逸らすことは出来なかった。
儂がこの者らの事績を、克明に記憶することを決めたのは、その時かもしれない。だが、その決意がすぐに不要になることを、その時の儂は知る由もなかった。
父親はザッバイと名乗り、アンティオキアの執政官の書状と、積荷の目録を港の管理官に渡した。
「ザッバイ。パルミラの部族長。たしかに執政官殿の書状は確認した。では目録……なんだこれは!?」
大声で疑問を投げかける管理官。そして、娘のよく通る声が、そこに被さっていく。
「ん? なんかおかしなところあるかな? 書き間違いとかはないはずだよ!」
「いや、嬢ちゃん。これはむしろ書き間違いである方が、こちらとしては分かりやすいんだが」
「ああ、そういうことか。トトガイウス、ひと束もってこれる?」
「ああ、ほれ。これだ。ご五百枚だ」
出てきたのは、儂も見たことがなかったが、聞いたことはある種族。はるか東の大国の者は、こういう色をしているらしい。だが目鼻立ちは、ペルシャやローマ人とも遠くはないかもしれない。それに、どもってはいたが流暢なラテン語。そして、名前はトトガイウス? ギリシャ人なのだろうか?
「こ、これが紙? 羊皮紙でもパピルスでもないぞ」
「一枚あげる! 取っちゃって!」
「これは……薄くて、すごく平らだ。すごく書きやすそうだぞ。それに、曲げても折れない。折ったら……跡はつくんだな」
気づいたら走っていた。四十を過ぎて、衰えを隠せぬ体を鞭打し、一目散に、その「紙」の元へと向かう。どうやら儂だけではなかった。もう一人……やはりこやつか。プロティノス。イデアを探求せし、賢しき若者。
「なんだよオリゲネスさん、あんたもあれ見て食いついたのかよ」
「当たり前じゃろ! この紙を目の当たりにして、なんとも思わんやつは、知の探求者とは言わん!」
「ちっ……だよな。まあこんなところであんたを出し抜いても仕方ねえ。話は後だ。嬢ちゃん、俺にも見せてくれよ」
「うん! これね。とりあえず一枚!」
「のうお嬢ちゃんや。それとも、父上のザッバイ殿? の方がよいかの。これひと束は、銀貨何枚で買えるかの?」
「うーん、20枚は欲しいところなんだけど、最初はたくさん使って欲しいからね! 特別に、15枚にして上げる!」
この娘、とんでもないことを言っている。だが、そんなことを思っているのは、こちらの管理官と、儂の隣にいる賢しい若造だけのようだ。
「ああ、まずはそんなもんだろうな。短期的な利益は求めねえよ。大損じゃなければな」
こやつら、パピルスの価格を知っていて言ってそうだ。500枚で銀貨15枚と言っているが、それではパピルスは良くて100枚しか買えんぞ。それにこの質の違い。
「15でいいんだな。ああ。いい。2枚ほど多いのはおまけだ。こっちの美味いもんでも食ってくれ」
「こやつ、機嫌をとりよるか。仕方ない。儂も17で買うぞ」
「あらら、多めに頂いちゃったね。まいど!」
そして銀貨と引き換えに貰い受けたのが、あまり分厚くはない束。500なのか? 少し重いが……なんだ?時々小さい紙が入っているぞ。1、2、……10か。
「ああ、それか。ご50枚ずつ入っているぞ。後で使う時もわかりやすいし、こっちもか数え間違いとか誤魔化しがへるんだ」
トトガイウス? なんと気の利くやり方だ。これが東国では普通なのか?
「それ考えついたの、あっちで荷物検査しているマニだぞ」
マニ……マニだと? まさか、あの「エクバターナの聖夜」の、マニか? 確かに、マニには三人の東国出身の伴がいるというのが、吟遊詩人の詩だったが。猿、豚、河獣というのは比喩なのだろうが。
「まさかその少年、そして、三人の朋輩。あのサーサーンとパルティアの戦を、一月の物語と、一夜の演説で押し留めたという、あのマニのことなのか?」
どうやらプロティノスもピンと来たようだ。
「確かに、少年と、東国の若者三人……二人しかいないな」
「ヒィは船酔いだね!」
「そのペルシャの聖者が、アレキサンドリアに持ち込んだのが、この紙だというのか?」
「誰が、というと、マニと東国人三人が、という言い方になるな。俺と娘のゼノビアは、その手伝いをするために付いてきたってとこだ」
「パピルスの五倍手に入る、より丈夫で書きやすい紙。これを持って、そなたらは何を……まさか」
「えへへ。そう。『アレキサンドリア図書館』、復活の夜明け、だよ!」
この一言が、全てだった。神の知を探求するこのオリゲネスと、人の知を掘り下げるプロティノスにとって、まさに転機と言える瞬間。もしかしたら数年前に引退した、こやつの師にして『神より教わりし者』、アンモニオス=サッカスも、また老骨に鞭打って動き出すかもしれん。
早速儂は、この紙面に何を書こうか決めた。まずはこの日の出会い、そしてこの瞬間に思いを馳せたこと。この現在を出発点に、これまで学びし過去のこと、これから訪れるかもしれん未来のこと。それをただひたすら書き連ねて行くとしよう。
すると、もう一人の精悍な若者も、何かを儂らに持ってきた。
「これは、新しい型の銅筆だ。インクは普通の水性のもので良いはずだから、試してみると良い。毛筆よりも、手早く描けるはずだ。壊れたら先だけ変えると良い。これもそのうち売りに出すから、慣れてしまっても問題ないはずだ」
「姜維、あなたも商売っ気がないんだか、商売上手なんだかわからないよ! まあいいか。この人たちには絶対必要そうだもんね!」
なんという者達だ。あらゆる動きが連動し、我らの欲しいものを瞬時に言い当てて渡してくる。神ならぬ身にして、人はここまで人の望むことを思い描き、そして成し遂げられる者なのだろうか。
「望むものがどんどん手に入る、って顔をしているな。それは当然だ。あなた方の志は、こちらのマニや、我らともそう遠くはない。より多くを学び、それを必ず故郷に役立てる。そのためになにが欲しくて、何をすべきか。それを東国からの道中、常に考え続けてきたんだからな」
「お俺たち三人は、た旅をしながらそうしてきた。マニは、は母に会うために思い悩みながら、同じように、でも一人一人違う悩みがある者らに、どうすればうまくやれるのか、ずっと考え続けてきた」
「そしてゼノビアは、ただひたすら人の営みをその目で見、その耳で聞いて、ただひたすら、どうすればより良き国、より良き暮らしを皆がなせるかを考え続けているんだ」
若き東国人二人に、父親のザッバイが、次々に「考えて」いることを語らう。そして、その娘のゼノビアは、またさらに掘り返す。
「それに、考え続けているだけじゃないんだよ! 『温故知新』」
おんこ……ちしん? 何だ? 何とも温かい響きだが。
「古いものをたずねることで、新しいことを知る。思い悩んだ時、何かを解決したいと思った時に、どんなことだったかを思い出してみると良いんだよ! そんな時のことを思い出すと一緒に気づくはずなんだ!」
「たいてい誰かが抱える悩みは、過去にどこかの誰かが、似たようなことを考え、そしてそのうちの誰かが、何らかの形でその物事を解決しているんだよ」
「それが、『温故知新』か」
「ああ。東国の、結構偉い学者が言い始めたんだ。それは今では聖人の言行として、あの国の規範となっている教えの一つだ。だが当時はそんなことはなかったらしいな。散々役立たず扱いを受けていたとも聞く」
「それでも、その言葉が一つの柱になっていること。そしてそなたらはその柱を、東から西に運んできてくれたのだな」
「そうなのかもしれないな。そして、まだ幼い二人、マニとゼノビア。こいつらがそれを一つの規範として、頭と手を動き始めた。さて、あなた方はどうするんだ?」
儂らがどうするか、だと? まだ多くの書が残っているが、荒廃著しいアレクサンドリア図書館。カエサルによって付けられた火が原因とされていたが、必ずしもそうではない。
単純に、パピルスや羊皮紙の不足が、「知識」「技術」「思想」の書き留めに対して、取捨選択を強いてしまっていたことこそ、根本原因ともいえよう。
それを、「書く先は尽きることがない」にしてしまった彼ら。ならば我らがどう変わるか。どう変わるのだ?
「えへへ。頭がついてこないんなら、まずはその両手に聞いてみると良いんだよ! 紙ならいくらでもあるんだから、その手が止まるまで、その手が動くままに書くといいんだ!」
「そ、それが昔のものの書き写しかもしれないし、あなたの中にあるものかも知れない。まずはそこから始めてみれば良いんだぞ」
ゼノビア、そしてトトガイウス。この幼き者や、若き異国人。どこまでも我らを驚かせる。ならば確かにこの頭の硬い初老は、その古くて新しい言葉に、耳と心を傾けてみるとしよう。
まずはその『温故知新』とやらから、考えてみることにしよう。となりの若き賢しら者、プロティノスも同じことを考えているようだ。
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