九十一 四者 〜マニ×(王+王子)=寛容?〜
アレクサンドリア図書館を衰退から救う。そんな目標を立ててしまった姜維、トト(鄧艾)、費禕、そしてこのマニ。そして気づくといつもキラキラとした眼差しで誰かの横に引っ付いている、サーサーン朝の幼いシャープール王子。
腰を据えて紙作りを整備することとなってから、五人は多くの時を共に過ごすようになる。その間、お互いが断片的には知っていた事柄を確認しあうように、四六時中なんらかの話をし続けることになった。時には現王のアルダシールをもその輪に加えながら。
「アレクサンドロス。時に我らの言葉ではイスカンダルと称するが、多くの場合その名は忌まわしき、恐ろしき響きと捉えられる。何しろ我らの前身、アケメネス朝を滅ぼし、ペルセポリスを廃墟たらしめたのであるから」
「陛下の仰せの通り。だけどその一方で、彼のもたらした、ヘレニズムと言う文化が、我々に大きな恩恵をもたらし始めている側面があるんだ」
「芸術や思想というものは、それぞれの土地柄や歴史、宗教によって受け入れられるか否かは変わってくる。だが、こと学問や知識においては、大いに受け入れられて然るべきなのだ」
「数学や天文学、医学と言った、役立つ先が明白なものが、この国にも多く流れてきているんだよ」
「だ、だけどそれがぜ全部じゃねえってことか? だからアレクサンドリア図書館の荒廃と聞いて、内心の引っ掛かりを隠せねえってことか」
「その通りだトトよ。その図書館こそ、ヘレニズムの中心と言っても過言ではない。部分的に流れ着いてきた知識ですら、我らにいくつもの恩恵を与え始めているのだ。であればその本家というものが、どれほどの価値を持つものか。それこそ温故知新というのを踏まえたら尚更であろう」
「父上! やはり学問、知識の場を守ることは、大事なのですね。ならば、民にも学びを与えることも大事でしょうか?」
「ああ、もちろんだ。国や文化によっては、民が学びを得ることで王権が脅かされること恐れて、民を愚かなままにさせる、という考え方もあるようだが。そんなものは、周囲を強国に囲まれて、いつ敵として攻めてくるかわからないこの国では愚策という他はない。限られた民や土地の中で、いかに強く、いかに豊かな国となすか。それ以上に重要な治政など、そうあるものではないのだよ」
「わかりました! この都を学びの都、そして紙と筆記、書物の都となしたいと思います。いずれどこか落ち着いた土地に、第二のアレクサンドリア図書館を作ることもできたら、と」
「ああ、それは良い目標だ。シャープールよ、まずはそなた自身が学びの火を絶やさぬようこころがけよ」
「はい!」
また別の日、ヘレニズムや、アレクサンドリアのその後について、そしてローマ帝国の立ち上がりについても話題になった。
「アレクサンドリアという都市自体が、アレクサンドロスによって建てられた都。プトレマイオス朝エジプトの中心、と言うよりも、西の世界の中心と呼ぶのが相応しい。そんな栄華を誇っていたんだよね」
「ヘレニズムとよばれる知識の宝庫は、その国の隆盛をも支えることとなる。数学や天文、地理学、医学の発展は、農業や人の生活にも恩恵を与えた。ギリシャの哲学が、ともすれば貴族の余暇つぶしという位置付けを免れぬのとはだいぶ様相が違いそうだな」
「数学の祖となったユークリッドや、実学として多くの価値を生み出したアルキメデスなんかが分かりやすいかもしれないね」
「ま、丸い世界の大きさを測っていたエラトステネスっていうのもいたぞ。俺たちよりも時間をかけて正確に測っているんだ」
「特に造船や航海術の発展は目覚ましく、エジプトからギリシャ、ローマ間の行き来を容易なものにした。図らずもそれが、その地中海周りの国々を一つにまとめ上げようとする原動力の一つにもなってしまったのだが」
ここから、ローマ、ギリシャ、エジプト、そしてペルシャを中心とした終わりなき戦いへと話題が移るのだが、ボク達はただ話をしているだけ、と言うわけでもなかった。
パルティア朝を駆逐し、自らが新王朝の始祖となったアルダシール王は、自身が最大戦力と言っても過言ではない強さ。そして屈強な将や、巧みな用兵をする将を多数抱えている。
だがそれらの誰一人、勝てない者らがいた。
ある日、王が練兵場をのぞくとこんなことが。
「そなた、一対一で稽古をと頼んだのだが、なぜこちらの将兵が五十人全員倒れているんだ?」
「誰からでも、どこからでもと申し上げたら、最初は一人ずつ正面から来ていたのです。最初の四人を退けたら、一人ずつでは無理だという話になり、いろいろやっていたら、結局一対全員になったようです」
「で、立っているのはそなただけ、と。東の国はこんなのばかりなのか?」
「きょ姜維に時々勝てるのが五人くらい、姜維がほとんど勝てないのが二人、だな。少し昔には、その二人が組んでも勝てなかったのが一人いたって聞く」
「とんでもないな。ヘラクレスやヘクトルというのはそういう存在だったのだろうか」
トトから聞いた限り、関平殿の養父さんと、その義弟の二人がとんでもない強さ、だったかな。どんな国なのだろうか。そして、その人達が警戒するフン族とは……
またある日。王朝最高位の将軍との軍事演習にて。
「同じ数じゃ勝負にならねえな。ご五十とひゃ百でいいぞ」
「トト! 流石に舐めすぎではないか?」
「いや、こいつがこう言うなら事実だ。試してみるといい。本当に勝負になるのは多分五対一くらいからなんだが……」
「きょ姜維! 俺そこまで言ってねえぞ!?」
「まあよい。舐められているばかりではない事を見せてやる」
三回ほど対戦後。
「本当に、二十対百で負けた……なんであんなところに重騎兵がいて、軽騎兵がそこに引き込まれていくんだ?」
「人の思い込みってのは、進む方向も狂わせるんだ。それと、馬は急には止まれねえ」
「軽騎兵、重騎兵を併用するサーサーンの最大の強みと弱みを、この短い期間で全部把握して制御してしまうのか。こいつとんでもないやつだ」
また別の日。シャープール王子が、眠そうにしているやつに話しかける。
「ヒィは練兵に参加しないの?」
「しましたよ? 昨日、片方の将と下士官に『こうやってください。おやすみなさい』と紙に書いて配ったら、大分あっさりと勝利しました」
「あー、殿下。負けた私から申し上げると、あんな十ヶ所に兵を伏せておいて、それを一つ残らず機能されるなんて、そんなことを、紙十枚くらいの指示でやりやがったのです」
「なんだって……」
果たしてこの費禕の行為が、「演習に参加した」と認められるのかは定かではないが、「演習で勝利に導いた」のは事実になってしまうのだ。
こんなことが続いたら、こんな親子の会話が始まるのは仕方ないのだろう。三人がそれぞれ出払っており、たまたまボクと王子が遊んでいるときに、父王が声をかけてきた。
「シャープールよ、もし万が一、この四人が本気で我々に敵対したとしよう。もしそうなったら、勝てる見込みは無いと言うしかない」
「父上ですらそう思うのですか……このサーサーン朝の創始者、つまり一つの国を始めた父上でも、四人揃ったら勝てない、と」
「そうだ。一人ずつなら幾つか手はあるのだろう。姜維ですら、千人で囲めばなんとかなる。四人が揃った状態は、そうだな……おそらくカエサルと対等な勝負が望めるといえよう」
一人がここにいるのに、なんて大げさな、と思わなくはないけど、口を挟むべきでもないのだろう。答えを返す役目の者は、ボクの隣にいるんだ。
「確かに、仮にも一国を制した将軍達がまとめてかかっても勝てない将に、五倍の兵を率いても負ける将。戦場に居合わせずとも勝ててしまう将。そしてそれぞれ軍事のみ優れているわけですらない。それは確かに、その名を出しても大げさではないかも知れません」
「カエサルやアウグストゥス、ハンニバルの強さを知るわけではない。だが、こと強さと言う意味においては、その域がかいま見えている実感。それをこの父が持っている事を忘れるな」
「はい父上! 心に刻みます。あれ? 四人? と言うことはマニも入っているのですか?」
シャープール王子が気づいた。最初から王は四人って言っていた。だとしたらその数にはボクが入っているんだ。
「ああ、もちろんだ。それにな、三人揃っていても、こやつがいなければ『何とかなる』とも言える」
「何とかなる、ということは、何とか勝てるけれども、その代わりに大きな傷跡がのこる、と言うことですよね?」
「ああ。そのせいでもし、別の外敵が現れればひとたまりもないさ。そして、我らには常に外敵がいるのだ」
「はい。だとしたら、三人でもダメだと言うことですね」
「その通りだな。それに、あの三人はもし我らが牙を向く可能性を少しでも感じたら、次の日には姿を消す。今我らがあの三人から得ている恩恵も、そこで達消えになる。それだけさ」
「なるほど」
なるほど。その通りだね。ボクには何かを残してくれそう。そんな期待くらいはしていいかもしれないけれど。
「だがな。こやつだけは違うだろう? こやつは母や友を置いて、逃げも隠れもしないぞ。そして、あの三人の中から一人か二人の支援を得るだけで、我らと対等になる力がある。そんな力があるのだよ」
「なるほど」
む? なるほど? なぜここで王子は納得したのだろう? この親子は、ボクに何を見ているんだ?
「マニよ。もしそなたとあの三人が会わなかったら、どうなっていた?」
「! ……そうですね。彼らは自らと関わりのない戦を避けながら、エクバターナやクテシフォンに少しだけ立ち寄り、そのままアレキサンドリアに向かったかもしれません」
「かもしれん、だろう? それで、そなたはどうだ?」
「……戦が続き、母とは再会できず。ボクは少し長い戦いの後で、今とは違う気持ちで陛下や殿下と会っていたかもしれません」
「そう。最後のその答えだ。そなたは、どんな形であれ、朕や息子に会いに来た。そんな確信があるのだよ」
「何と……」
「そなたの目の輝き。この世を、この国を、少しでも良きものにせんとするその目。たとえそなたがどのような経験をし、何を思い定めたとしても、その根っこだけは変わらなんだのではないか、と、そう感じるのだ」
「私の根っこにある意思、ですか……」
「『神が違う訳ではおそらくない。ただ神を想う人の心が、一人一人違ったものになってしまう』。あのバベルの話を受けて、朕もそなたもそう見定めているだろう?」
「はい。その通りです。だからこそ、『神との対話を試みるのと同じだけ、人との対話を試みるのが大切』と、そう思い定めています」
「その寛容なる心。もしそれを得る機会が、朕にもそなたにもなかったとしたら。我が信条たるゾロアスターと、仮の未来のそなたが交わった時、何が起こっただろうか。そんな恐ろしい想像が、頭から離れぬことがあるのだよ」
ボク自身も、そんな想像をすることは何度もある。なぜならあの三人に会う前のボクは、母との再会を諦めたまま、神との対話を模索し始めていたから。
「だからこそ、こやつの志の強さ。それこそが何にも代え難い強さなのだよ。それは朕と同等か、それ以上と言っても良い。教主たる朕は、その寛容が想いを弱める怖れを隠す事はできん。だが王たる朕は、寛容こそ民の想いを力となさしむ可能性を否定できんのだ。シャープールよ。どうやら分かっているようだな」
「もちろんです。この国が、マニを敵とするならば、それは神を想う人の想いを敵にすることに等しいこと。そして神がその戦いに勝者を決して定めないこと。それはこのシャープールが、次代、次々代に伝えなくてはならない。そうですよね?」
「ああ。そうだ。マニのいう事を聞けとは言わん。マニが間違えていると思ったら、しかとそれを言葉で伝えよ。マニは必ず、その言葉に答えてくれる。決して余人を交えるな」
「承知しました!」
「マニも頼むぞ。そなたはまだ、未熟も未熟。だからこの頼みは、今のそなたへだけではない。未来のそなたへの頼みと心得よ」
「かしこまりました!」
ものすごい頼まれ方をされた。ボクは、この約定を忘れることは決してないだろう。
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