八十二 漢升 〜黄忠=??〜
関羽様は「一瞬の虚実」、張飛様は「常在の相対」、趙雲様は「無我の領域」。そんな表し方になりましょうか。この鳳小雛も、それぞれ洞察力、対話力、そして脳科学と、多方面にわたる力を駆使し、皆様の強さを紐解いている最中です。ちなみにそれらは「この時代においても許されうる力」と、「人工知能の存在の根幹としてお目こぼしされる力」によって成り立っております。つまり、「知りうることは知っている」「知り得ないことは知らない」と言うことです。
さて、その「知りうる」において、かなりの思考を重ねて絞り出そうとしても、出てこない知識がありました。それは、「神話や伝承ならざる人間同士の戦において、武威の満ち満ちた両軍の将が、互いに油断や疲弊もなく充実した状態で相対し、その結果一方が他方をその戦場で討ち果たす形で勝利を収める」という事例です。
しかとご覧いただけば、それは四つの要素から成り立っていることがお分かりかと思います。
『さて問題です。これまでの歴史上において、明確にその四つを全て満たしたと言える戦いは、古今東西、ありましたでしょうか?』
「小雛殿。いくら私の仕事を横からかっさらい過ぎて、私の出番がほぼなくなったからと言いましても、かようなお情けのような形で引っ張り出されなくても、私は私で『私にしかできぬ仕事』を務め上げているつもりなのですが」
『良いではありませんか孔明様。こたびは徐庶様が「残念ながら、あの方に関しては私はほとんど存じ上げず、お役には立てないかと。ともに荊州の生まれといえど、あの方のご活躍はことごとく赤壁以後のことにて。劉表殿の麾下には高齢なる弓の名手がいる、と言う噂くらいでした」などと仰せになったのです』
「はあ……」
『それゆえ、たまにお話を聞くお手伝いくらいはしていただいても、ご負担にはなりますまいと思いまして。それに、あなた様の「真のお役目」に対しても、全く無関係ではないのではないかと考えております』
「そもそも、五虎将の強さを見定め、それを『ことば』『仕組み』として落とし込むお役目にも、私は含まれていたはずなのですけれど」
『それもそうですけどね。ただここまでのお三方に関しては、「意外と腕っぷしもある」「戦場の策士」の徐庶様の方が、明確にご適任だったことは、あなた様もお認めになるのでは?』
「確かにその通りです。どの口が、と申し上げたくはなりますが、あなたはあなたで『ことばの力』はご本尊とも言えるので、まさにお二方が適材適所、ともいえましょう」
『話が大きく逸れましたね。して、先ほどの質問ですが』
「おい、あんたら、このジジイをいつまで待たせんだよ? 諸々気持ちはわからんでもねえが、状況整理にしちゃあ、いささか無駄が多かったんじゃねえか?」
『大半失礼しました黄忠様。確かにその通りですね』
「誠に恐縮です。して小雛殿。やはりあの『定軍山』は、歴史全体を通してみても、それほどまでに希少な事例であったと見てよろしいのですか?」
『はい。間違いありません。古今東西、そして空前絶後の特異点、といっても過言ではないのかもしれません。過去をあまりさかのぼってしまうと、人と人の戦いなのか、神話や伝承なのかな区別もつかないのです。それにこの先はより一層、「充実した軍や将同士が決戦に臨む」こと自体が減ってくる可能性が高いです』
「戦自体が『始まる前に決着がついている』か、『将や兵の力以外の要素で勝敗が決まる』方が圧倒的に多くなるのでしょうね」
「だろうな。と言うかそもそも定軍山だってそうだったろ? こっちも向こうも結構な時間をかけた末に、あの地が戦略的な要地だってことを見定めた結果、どちらも一歩も譲らねえ戦局になったことは、あんたも知ってるはずだぜ」
「はい。先帝自ら、法正殿と共に戦場に立ち、並み居る魏の精鋭と相対しておいででしたな。すでに『防諜』という新たなお役目を得ていたあなた様も、この期間はもっぱら戦場でのご活躍を聞き及んでおります」
「明白に戦になっちまえば、一周回って防諜の役割は当然のものになるからな。魏延も馬謖も、斥候を見つけて仕留めるのに躍起だったよ」
『確か孔明様はあの時は物見遊山でしたか』
「誰の差金と……確かにそうですね。あの頃はあなたの知識と献身もあって、多くの将官の疲弊が抑えられ、陣営にも余裕がありましたからな。私と趙雲殿がしばしこの地を離れても問題ない充実度合いでした」
『なので、私も孔明様も直接報告は受けていませんが、後からそれはもう克明にお話を聞いております』
「左様。黄忠殿は主将としてのお務めを、これ以上ない形で果たしておいででした」
『その歴史的に見ても稀有なる武功。すなわち、双方充実した陣容の中で、将同士が相対して、弓戦で堂々と討ち取る。もちろんそれがなされ得た理由まで黄忠様が、と言うわけではないと思いますが、その稀有を成し遂げたお方だというのもまた揺るがない事実』
「そう言われてもな嬢ちゃん。あれに関しちゃあ、運としか言いようがないところがあるぜ。儂がいつものように山間を巡回しながら攻め機を伺っていると、たまたま奴の手勢が逆茂木を直すために少しだけ前に出ていたんだ。それは大きな乱れではなかったんだが、そのちょっとした陣の綻びを好機と見定めて、手持ちの手勢で仕掛けたんだよ」
「ご報告の通りですね。夏侯淵としても突出と言える突出ではなく、本当にちょっとした本陣のかたよりと言った程度と聞いております。ですがそのかたよりは、あなた様が衝くには十分といえる隙、綻びだったと」
「そういえなくもないが、あやつは強かったよ。その体勢の優位は程なくして互角にまで持ち直され、最後は互いの得意とする弓同士の撃ち合い、押し合いに持ち込まれた」
『不利な体勢を、互角にまで……それに確かあの方、足を止めた撃ち合いよりも、迅速な行軍を伴う騎射を得意としていたはず』
「じゃな。それ自体が運さ。そう、やや不安定で入り組んだ戦場、その手を流石に使えず。数百ずつの手勢同士が、不安定な足を止めての撃ち合いとあいなった」
『運、二つ目……』
「ああ。まさにその足を止めた撃ち合いを最大の得手とする儂と、実際には迅速なる騎射を得手していた奴との違い。それがさらにもう一つの、僅かな運の違いとして顕れた」
『そこにまたも運、ですか……』
「互いに矢の届く距離に身が置かれた瞬間、それと互いの撃ち合いの間隔。次の矢を先につがえ終わり、その手から矢を放ったのが儂だった。その距離なら、どちらが矢を放ったとて、命中するかは五分と五分。その五分を引いた儂の矢は、奴の迅速と、弓の精度を司っていた、その膝に命中したのだ」
『……』
「そこから一気に天秤は傾き、こちらの一斉射撃によって、奴とその手勢の命の炎は吹き消された、というわけだ。どうだ? 幾つの運が重なった結果だと思う? 三つ? いや四つか?」
「……いえ黄忠殿。細かく見れば五か六の分岐点は有ったかに見えます。まさに乾坤一擲。否。二を六つ揃えた六十四の卦から、ただ一つの『乾』を引き当てたかのような、かような運、あるいは縁の賜物ということでしたか……」
「そうだな。だから儂は、その僅かな卦を引きあてた、そんな幸運なジジイにすぎねえのさ」
まさに「運」ですね。ですがこの私や孔明様にかかれば、そんな一言で片付く話には到底なりません。読み解いて見せましょう。その「運」の仕組みとやらを。
『ふふふっ、孔明様。天文暦法、八卦卜占にも通づるあなた様。であれば、その意味をもう一つ深く掘り下げることも叶いましょうか?』
「……誠にその通りです。六十四の卦からただ一つの卦を引き当てる。それができるのは、その六十四の卦を一つ余さず見定め、その一つを引かんと思い定められる。そんな御仁のみなのですよ」
「!! ガハハッ。解っちまったかい。さすが孔明、さすが嬢ちゃんだよ」
『そう。この勝負は間違いなく、その六十四のうち、乾ならば黄忠様が勝ちを手にし、坤ならば逆に夏侯淵殿に幸運が転がり込む。そして肝心なのは、「残りの六十二ならば何も起こらずに五分の戦が続く」でした』
「その通りだよお嬢ちゃん。あの日あの時に戦を終わらせることができたのは、儂と夏侯淵。その二人だけだったのさ」
『しかもあなた様は、戦場を常に俯瞰した目、すなわち「鳥の如き目」で状況を見定め、分析し続けていました。そのことですでに、六十四の分岐を大きく減らしていたのです。おおよそ四か八ほどに』
「左様。日々巡回を繰り返して、敵陣に綻びが発生しうることを知る。この戦場が、僅かばかり彼我の得手の天秤を我が方に傾けていたことを知る。そして仕掛けた側こそが優位な体勢を取ることで、敵軍のその力を大きく削げることを知る」
「じゃな」
『……そして最後に、その齢七十に届かんとする身で、五十の弓の名手に対して、さして劣らぬ速度で弓を番え、そしてさして変わらぬ精度で標的を射止める。そんな絶え間ない日々の鍛錬』
「……」
『それもまた、運の一言で済ませるというのなら、それはもう、あなた様はその長き一生をかけて、その乾なる卦を引き当てるのに準備を絶やさなかった。その「運を我が手で掴みし老英雄」に他ならないのです』
「であれば小雛殿、あの卦は夏侯淵殿にとっては六十四のうち一つなれど、黄忠殿には四か八のうち一」
「無論、その天秤には、双方に等量のおもりが乗せられている動きもありましたが。運を手繰り寄せ、その準備をする者にしか、その等量の機会を引き当てることはできない。そう申せましょう」
「なるほど」
「すなわちあの戦い、すでに黄忠殿に、九分の優勢があったということに他なりません。それを五部まで持って行った夏侯淵殿の力量もまた、賞賛に値するものといえど」
「ガハハ! その通りだ。あの者は、『定軍山で命を落とした』意外に、その将としての評を下げる話など一つも聞かねえ。対比に出てくる夏侯惇が、何度となくその粗忽や慢心を囁かれていたのとは違ってな」
『まさに。その大器を「運」で討ち果たした黄忠様。あなたのその仕組み、謹んで活用させていただきます』
「ん? どうするんだ?」
「簡単ですよ。一人が卦を引いていれば六十四に一つ。ですが。それが百将、千兵、万卒が常にその心がけで戦場に立てば、それはもう誰も引かぬ方が稀な『確率』へと昇華されることになります」
「ガハハ! そりゃいいな。ならこうしちゃいられねえ。その『運のからくり』つまり、俯瞰と分析、心構え、そして日々の鍛錬。それをしっかりと、若え奴らに伝えていくとしようじゃねぇか!」
『よろしくお願いいたします』
――――
そして少し後、やや入り組んだ丘陵の戦場。
「ほう、あの飛将軍、李広、そして不運の忠臣、李陵の末裔とはな。弓の手がやたらと長けているわけだ」
「あなた様こそ、その年にして些かの衰えも見えずとは、恐れ入ります」
「ちっ、あんたから目を離すわけにいかねえ。これじゃあ戦場の様子を俯瞰もできねぇ。こっちの良さが消されるな。ならばここは仕掛けるのみ!」
突撃し、矢を射かける黄忠様。それは真っ直ぐにその李なにがしの元へと……
「!! 鳥!? くそっ、なんたる不運」
「良いのですかな? そこは私にとっても必中」
「くっ! 危ねえ! 肩当てに当たったか!」
「不運こそ我が鎧。一族の定めにて、運も不運もこの身の延長」
「ちっ! ここは退く!」
「くくっ、またいずれ」
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