第11話「揺れる地と揺るがぬ意志」(その1)
1995年1月のこと、重工長崎は吉報に沸いた。
だがこの月、柿岡は未曾有の出来事に遭遇する。
韓国から戻るや否や、柿岡は報告書を仕上げる間もなく、連日会議に追われた。
だが東京本社から、『極東重工業ロンドン支店が、ダイヤモンド社から10万トン型客船2隻+2のオプションでL/Iを受領』の吉報が届くと、資材部は歓喜に沸いた。
たちまち渡部副所長を中心に、副所長室を母体とする『大型客船プロジェクトチーム』が正式に発足の運びとなり、柿岡をリーダーにスタッフも補充され、都合10名となった。
1月半ばの連休、柿岡は会社に出て仕事をした。韓国の出張報告はまとめたものの、訪ねたメーカーの見積が届いていた。それに、新日本の山岡からのメールも入っていた。
――呉の某造船所へ持っていった資料、ご参考までに――
その書き出しのメールをゆっくり見る余裕はなかった。
だが内容には興味があった。
それは釜山で夕食の際、山岡から聞いた話だった。
彼が新国際フェリーの監督とドイツを訪ねた際に見た居住区システム。工場で家具や配線、配管を組み込んだユニットをクレーンで船に搭載し、手押しリフターで配置するだけの、非常に簡便なシステムだった。
「このシステムなら現場作業が驚くほど効率化する。だが日本では受け入れられない……」
そんな釜山で聞いた山岡の言葉が、柿岡の心に重く響いていた。
「同じ居室が何十、いや何百個あっても、固縛金物の納品と同じことになります」
重工長崎で造る大型自動車運搬船で、一隻500屯からの固縛金物を、少しの納期遅れを出さずに納め切った山岡の言葉だけに、その意味するところの重みは計り知れなかった。
「だけど柿岡さん、某造船所の資材課長は、なんと言ったか……、分かります?」
そう聞かれても、柿岡はすぐには答えられなかった。
それは悔しそうに山岡は続けた。
「ユニットの運搬費用と置き場所を考えたら、このシステムは駄目だな――ですよ」
その話は後から考えても悩ましかった。このシステムには、新たな可能性を感じざるを得なかった。ただそれには、帳合取引以上に難しい問題が含まれているのは確かだった。
柿岡も様々な船の機器や装備を扱ってきたが、こと居住区は系列会社の独壇場であって、彼らはそんなシステムを持っていない。大型客船を造るとなると、彼らを外す訳にはいかない。それでなくても波の激しい仕事量の中で、大勢の船大工を雇うのは彼らだった。
それにしても柿岡は客船モードに集中して、プロジェクトをやり遂げてようと胸が高鳴った。だが新組織でスタートした柿岡には、驚天動地の出来事が待っていたのだった。
(つづく)




