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尋ねられた二人は互いの顔を見合わせた。そして、ぱっと喜色を浮かべる。
「姫様、つけてくれるの!?」
「姫様、名前をくれるのか!?」
「えっ……!? あの、名前がなかったの……?」
二人の反応に驚いて問うと、揃って首を縦に振られる。
「名前は個を認めるものだから」
「我らは主様の一部でしかないから」
そう説明しつつ、期待にきらきらした目でこちらを見てくる。浅葱は反応に困った。
(そういうことだったの……。龍神様の一部ということは、喩えるなら人差し指とか中指とか、そういう感じなのよね。確かにそれなら、わざわざ名前はつけないか……)
他人の――それも、畏れ多くも龍神様の――一部に勝手に名前をつけるのは出過ぎた振る舞いではないだろうか。だが、嬉しそうな二人の様子を見てしまうと今さら言葉を取り消せない。
「では……あなたは紅。あなたは藍。それでどうかしら」
髪が短くて朗らかな印象の子に紅の名前を、髪が長くて怜悧な印象の子に藍の名前を、それぞれ提案する。
二人は揃って笑った。花が開くような笑みだ。
「ありがとう、姫様!」
「感謝する、姫様!」
その途端、二人のそれぞれの着物の色がぱっと変わった。白一色だったものが、それぞれの名前を表すような美しい紅色と藍色に変化する。浅葱は目を瞠った。
「可愛い、花の名前! 色の名前!」
「我らの、我だけの名前!」
飛び跳ねてはしゃぐ二人を眺めながら、浅葱は不安を押し殺す。
(…………大丈夫なのかしら……)
変わったのは着物の色だけのようだが、それだけでも大きな変化だ。勝手にこんなことをしてしまって本当に大丈夫なのだろうか。咎められるとして、自分だけで済めばいいが。
しかし、そんな心配をすべて溶かしてしまうくらい、お湯が心地よかった。
身を清めて着物を替え、紅と藍に案内されて邸の中を進む。風呂を出た二人は薄い帷子から単衣の姿に変わっていたが、相変わらず、着物にそれぞれの色がついている。名前をもらったことがよほど嬉しかったらしく、二人の足取りは弾むようだ。
(……まあ、そこまで喜んでもらえたなら……)
勝手を咎められるとしても、引き合うだろう。そう考えて龍神のもとに案内された浅葱は、彼の渋面に身を竦めた。敷き詰められた畳の上に胡坐をかいた龍神は、腕組みをして、不愉快さを隠さない表情をしている。これまでは蕩けるような表情しか見てこなかったのだと今さらながらに気づくが、そうして改めて見てみるとやはり威圧感がすごい。
浅葱だけを部屋の中に招き入れると、龍神はさっそく苦言を呈した。
「その者らに名前を与えたようだな」
「二藍のことですね。申し訳もございません……」
「二藍?」
「あ、紅と藍のことです。二つの色が調和して一つの色になるさまが、双子のようなあの子たちの印象にぴったりだと思って……」
二藍は、藍染の青に紅花の赤を染め重ねた色のことだ。それぞれの濃度を変えることで色合いがいくらでも変わっていき、広く愛好される。
「…………」
さらに顔を険しくした龍神に、浅葱は伏して頭を下げた。そこへ、拗ねたような声が降ってくる。
「眷属でありながら、我より先に汝から意味あるものを与えられるとは……!」
「……えっ、と?」
気に入らないとでも言いたげな悔しそうな声に、ひれ伏していた浅葱は思わず顔を上げた。
「だが、我の一部であるぞ!? 咎めるわけにもいかぬではないか。汝から受けたものを無碍にできようか。そのようなつもりも有らぬが」
「……ええと、私が勝手をしたことに怒っていらっしゃるのでは……?」
「我より先に、我の眷属が汝と近づいたことに怒っておるのだ」
「…………」
なんだか認識が食い違っている。それは怒りというより、むしろ嫉妬とか、そういったものではないだろうか。
そんな感情を向けられたのは初めてだ。驚いてまじまじと見つめると、龍神の頬が薄赤くなっていく。やがて耐えかねたように彼は視線を逸らした。
思わず笑みを誘われて、浅葱は肩を揺らした。龍神ははっとしたように視線を戻し、じっと浅葱を見つめる。今度は浅葱の方が居たたまれなくなって視線を外した。
じれったいような視線のやり取りの後で、龍神は感心したように息をついた。
「やはり汝の笑顔は可憐であるな。幾千年見続けても飽きぬであろう」
「え……っと、それは、過分なお言葉を……」
「過分でなどあるものか。いくら称えても足りぬ」
「――……」
浅葱は返す言葉を探しあぐねて口を閉じた。自分の頬が熱くなっているのを自覚する。
言葉と態度とでここまで示されれば、いくら何でも理解する。龍神は人違いをしているわけではないし、心底から浅葱と会えて喜んでくれている。
だが、はっきりさせなければならない。
「龍神様。私は……」
「浅葱。我にも名前をくれぬか。我だけの名前を」
「え…………!?」
神に名前をつけるなど、あまりに畏れ多いのではないだろうか。そもそも、龍神は名前を持っていなかったのだろうか。
「その……龍神様は、お名前をお持ちでいらっしゃらないのですか……?」
「いちおう、山珂の名で呼ばれておる。山珂国を守護する神であるゆえに」
「なるほど……」
それは確かに、自分だけの名前とは言い難いかもしれない。
(だからと言って、ただの人間の私が、神に名前を付けるなんて……)
畏れ多すぎると断ろうとしたが、龍神の美しい青の瞳が期待に輝いてこちらを見ている。その様子が、名前を付けられる前の二藍の様子にそっくりだ。
彼女たちは龍神の一部だからというべきか、本体も同じような気持ちを抱いているらしい。……断るのを封じるような、このひたむきな眼差しはずるいと思う。
浅葱は溜息をついて諦めた。
「…………お嫌なら断ってくださいね」
前置きをして、
「……青霧様。このお名前でいかがでしょう」
「青霧……」
龍神には霧の印象が強く結びついている。山の中での霧もそうだし、彼の髪は霧雨のようだ。髪も肌も着物もすべて白いのに、瞳だけは鮮烈な青。その両方を取った名前だ。さらに言えば、芙厳岳には同音の青桐が多く自生していた。守り神として象徴的な名前になるのではないか。
そう言うと、龍神はいきなり浅葱を抱きしめた。
「きゃあっ!?」
「浅葱! 浅葱! 青霧だ、我だけの名前だ! 汝が我のために考えてくれた名前、しかと受け取ったぞ!」
その高揚が、着物を通して熱のように伝わってくる。無邪気とさえ言える喜びに、浅葱の胸も暖かくなった。
自分は――他人を、喜ばせることができるのか。
――厄災を振りまくばかりではなくて。
「浅葱。我を呼んでくれ」
「はい。青霧様」
「もう一度」
「青霧様」
「もう一度だ」
「青霧様……」
そんなやり取りを何度繰り返しただろうか。出迎えたときの不機嫌をすっかり流し去った様子の龍神――青霧に、しかし浅葱は確かめなければならないことがある。
「あの……青霧様」
「うむ」
「…………」
やりづらい。名前を呼ばれるだけで満足げな顔をする神に向かって、しかしはっきりさせなければならない。
「私は生贄です。そのような立場で送り出された者です。青霧様が生贄にひどい扱いをなさらないことは理解しましたし、喜ばしく存じますが……私を花嫁と仰ったのは、どういうことなのでしょうか?」