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うっかり尋ねてしまってから、浅葱ははっとして口を閉ざした。愚問だった。神の坐す霊山を犯した者を彼が知らないはずがない。いくら理由があったとは言っても、それは人間の間だけでのことだ。
しかし、彼は怒ることなく頷いた。
「知っている、と言えるほどではないが。汝を生み出してくれたことに感謝している」
「え……?」
浅葱はぽかんとした。彼は怒っていないどころか、良い印象すら抱いているようだ。
「その、禁足地に無断で入り込んでしまったのですが……」
「理由があったのであろう? 我は祟り神ではないぞ。身重の女人をいたずらに傷つけることなどせぬ」
あまりに真っ当で、親切ですらある言葉に、再び浅葱はぽかんとした。卑小な人間のことなど理解しない、神とはそうした圧倒的な存在だと思っていた。
「ですが……あなた様は、生贄を受け入れることもあると。この山に入り込んだ人の命をお取りになることもあると……」
「受け入れる? いや、受け入れることはせぬ。汝だけが例外だ。ちょうどいい、少し見せてやろう」
「え……? きゃあっ!?」
龍神はいきなり浅葱を抱き上げた。花嫁衣裳を着込んでいるというのに重そうな素振りも見せない。体がいきなり宙に浮いて、しかも神に抱き上げられているという状況に、浅葱の頭がついていけない。
龍神の足が、とん、と軽く地を蹴った。そのまま彼はふわりと飛翔し、不思議な神の世界の地面が遠くなる。
(…………!)
突然のことに、初めての感覚に、畏れ多くも龍神の首に腕を回して縋り付いてしまう。しかし龍神は嫌がる素振りを見せるどころか、嬉しそうに微笑んだ。
「怯える姿も可憐であるな。だが安心せよ、我が汝を落とすことなどあり得ぬ」
どこから突っ込んでいいか分からないが、ともかくも頼もしい言葉に少しだけ体の強張りが溶けた。不安定で身の竦む感覚が恐ろしいが、あたりの景色を見る余裕ができる。
(…………! なんて、綺麗なの……!)
そして浅葱は、息を呑んだ。
神の世界はどこもかしこも清浄で美しく、整えられた町並みを誇っていた。山の上からはるかに見下ろす人里や町などとは雰囲気が違う。すべてが整然として、道は広く大きく白く、建物は幾何学的に配置されている。
道端や庭などに緑はあるが、人間の世界のそれとは違って生命力を感じなかった。かといって枯れているわけでもなさそうで、先ほどの庭の木と同じように作り物めいた印象を与えている。おそらく枯れることはないのだろうと浅葱は思った。
そして当然のことながら、町があればそこを歩く者もいた。浅葱は都に出たことはないが、溢れるように人がいるという都とは違い、人混みもなければ牛馬のたぐいもいなかった。ただ、普通に歩いているのではなく宙を滑るように浮いている者や、龍神のように空を飛び、町へ降りていく者などもいて、明らかに人間の営みとは違った。
言葉も出せずに驚きながら見入る浅葱に、龍神が説明した。
「我々の住むところにも町はある。そも人間の町が我らのそれを模したものであるからな。しかし森などはない。ここには雨も降らぬ。そうした自然は人の世と神の世の境に存在するものであるから」
「そう、なのですか……」
呑み込むしかなくて浅葱は頷いた。疑問を持とうにも頭がついていかない。
「どれ、何か買ってやろう」
言うと、町を見下ろす高所から龍神はゆっくりと降下した。慣れない浅葱を気遣ってくれているのが分かり、ほとんど死んでいるはずの心が波立つ。
そっと地面に降ろされた浅葱はふらついた。着ているものは重いし、体にも状況にも現実感がないし、抱えられたまま揺さぶられていた体がおぼつかない。だが、倒れる前に龍神に抱き留められた。
「歩きたいか? 抱えられたいか? 汝が望むなら少し休もうか」
浅葱に選択を委ねる言葉に、何度目になるか分からない驚きを覚える。浅葱の意思を問うてくれる者など、今までにいた試しがない。
即答できない浅葱に、しかし龍神はじっと待ってくれる。その様子に、自分が大切に扱われていることをすとんと納得した。初めての感覚で――胸がむずがゆい。
「……では、少し休みたいです」
「汝の望むように」
言うと、龍神は再び浅葱を抱え上げた。道が広くなって大きな木が木陰を作り、腰掛が用意された一角に浅葱を下ろし、座らせてくれる。近くの水路を流れる水が涼しげな音を立て、浅葱の気分がいくらか落ち着いた。
「ありがとうございます」
「うむ」
龍神は頷き、自らも腰を下ろした。仕草の一つ一ひとつが無造作でありながら優雅だ。
「何か飲むものでも買ってやりたいが、汝の体はまだ人間のものだ。この世界のものを飲み食いすることは象徴的かつ実際的な意味を伴うものであるから、ここで軽々に済ませたくはない。済まぬが、足を休めるだけにせよ」
「いえ……大丈夫です」
そういえば、喉が渇いていない。腰を落ち着けて何か飲みたい気持ちはあるが、渇きではなく慣れた行為をなぞりたいという理由でしかないと自分で気づいた。
見回してみると、周りの人々――そう呼んでよいものか分からないが――は普通に食べたり飲んだりしながら談笑している。当たり前といえば当たり前なのだが、その普通さに却って驚く。
ぼんやりと近くの店を眺めていると、注文を受けた店の者が不意に姿を変えた。普通の男性の姿が一瞬にして鼠に変わり、人の腕が入らないような狭い棚の奥から何かを引っ張り出してきた。
「籤であるな。言葉を売り買いしている」
不思議な商売があるものだ。驚く浅葱の目の前で、鼠は再び男性の姿を取った。
「我らは神の世で、基本的には人と同じ姿で暮らす。あの者は鼠が本性であるが、肉食の獣もいれば鳥もいる、虫もいれば海の生き物もいる。まちまちな姿を取っていたら不便で仕方ない」
「それは……確かに」
小さい虫と鯨とが同じ空間で生活するのは無理だろう。人の姿で揃えるのは確かに理にかなっている。
「元から人である者もいるぞ。人の世に行き場を失い、神の世に紛れた者が。我に捧げられた生贄もどこかにいたはずだ。神の世ではなく人の世を望み、再び降りたいと願うた者はそのまま帰した。山珂国ではないどこかの国へだが。そら」
言って龍神は水路を指さした。そちらをよく見ると、驚くことに、水路の底は普通の土ではなかった。水底に猥雑な町の姿が遠く映っている。水を隔てて、その下は人間の世界なのだ。
「神の世は特定の場所に在らぬ。山珂国とばかり繋がっているわけでは有らぬ。山珂国の生贄を、別の国に降ろすのも造作のないこと」
「…………」
浅葱は瞬いた。龍神の説明を納得できるし、整合性があると思うのだが、意外すぎる。神はそんなふうに一人の人間のことを気に掛けるのか。顧みないものだとばかり思っていた。
「ずいぶんと生贄に……優しくいらっしゃるのですね」
「優しい? 否。我が優しいのではなく、人間が同胞に冷たいのだ。芙厳岳に入った者を我が殺したことなどない。死体となって川を流れ下った者はいるが、その者は人間たちの悪意に殺されたのだ。汝の母も同じ。劣悪な境遇にあり、険しい山の中に逃げ込まざるを得なかった彼の者は、出産に体が耐え切れなんだ。そうした状況を作った者たちのところへ骸を返すに忍びず、髪の一筋のみを返したが。汝の母は、山に眠っておる」
「…………!」
冷え切って凍り付いた浅葱の心が、訳も分からず叫び出したくなる。涙を忘れたはずの瞳が、せわしなく瞬きを繰り返す。