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 霧はだんだんと濃くなっていき、あたりの景色がおぼろになっていく。手を伸ばせば、白い花嫁衣裳の袖がさらに白くかすんで見えるくらいだ。

(どうしよう……)

 ついに浅葱は立ち止まった。斜面を登っていけば間違って麓に降りることはないだろうが、この尋常でない霧の中では少し先さえ定かに見えない。顔の位置に鋭い木の枝があっても、足元に奈落が口を開けていても分からないのだ。

 待てば晴れるだろうか。どこかで雨宿りならぬ霧宿りでもした方がいいだろうか。そんなことを考えていた浅葱の耳に、不思議な声が届いた。

「何を惑うておる、我が花嫁。疾く来い」

「…………!?」

 音楽的な響きの声が、霧の中から聞こえてくる。前からのようでもあり、後ろからのようでもあり、どちらに顔を向けていいか分からない。

 とっさに浅葱は、額づこうとした。この声の主は、人間ではない。人間がこの山にいるわけはないし――こんな不思議な声を持っているわけもない。

 声は焦れたように浅葱を制した。

「そのようなことをせずとも構わぬ。そこはまだ山中であろう。汝のかんばせが汚れてしまう」

「……あの、それは……私に、東常家の浅葱に仰っておいでなのでしょうか……?」

 たしかに浅葱は花嫁衣裳を着ているが、花嫁ではない。生贄だ。誰かと人違いをされているのではと問うたが、声は明確に浅葱を呼んだ。

「是。汝だ、浅葱。待ちかねたぞ。我のもとへ、疾く来い」

「…………」

 返答ははっきりしたものだったが、却って困惑が深まる。声の主――おそらくは神だろう――が、浅葱を花嫁として呼んでいる。訳が分からない。

(花嫁と呼びつつ、やっぱり生贄のことを指しているとか……? とにかくも、状況を把握しないと)

 気になることはもう一点ある。

「そこはまだ山中、と仰いましたが……私は山から降りられぬ身でございます」

 山の中以外に行きようがない。しかし、声は逆のことを言った。

「降りずともよい。降りてくれるな。昇ってこい、我がもとへ」

「……――」

 昇れということは……この声の主は山の高みに御座すのだ。

(芙厳岳の、龍神…………)

 すぐに死んで終わるはずのこの身が、思いがけず神の御声を耳にする栄誉を得たようだ。思い残すことはない。……もともと思い残すことなんてないのだが。

「畏まりました。参ります。しかし、この霧ですので、どうにも……。晴れたら急ぎ昇りますので、しばしお待ちを」

「待てぬ。それに汝は勘違いしておる。この霧は汝を迎え入れるためのもの。神域との境を曖昧にするもの。霧の中を来い」

「…………。畏まりました」

 正直なところ、龍神が何を仰っているのかよく分からない。だが、他に答えようがなかった。おまけに龍神は浅葱を急かしている。

 どちらへ行ったらいいのだろう、と霧の中で途方に暮れるが、龍神が焦れる気配が伝わってくる。

(ええい、ままよ!)

 浅葱はやみくもに足を前に出した。方向が間違っていたらきっと止めてくださるだろう。

 だが龍神は何も言わず、浅葱の足は山中を進む。

(…………?)

 山中と思っていたのだが、いつしか足元は土と下草ではなく玉砂利になり、腕で顔を庇いつつ進む必要があった枝や藪もなくなっていた。そして気付くと、霧が晴れていく。

(…………!)

 そこは、どう表現すればよいのか見当もつかない――美しい世界だった。

 足元の玉砂利は白く輝き、乳白色の輝石のように見える。あたりは整えられた庭園で、しかし木々も流水も不思議なきらめきを放っている。世界に上等の釉をかけて名工が焼き上げたらこうなるのだろうか。硝子のような艶が世界をますます作り物めいて見せている。

 何もかもが信じがたくて、手近な枝に思わず手を伸ばす。枝に触れることはできたが、驚くことに、枝に伸ばした自分の腕さえもが、その不思議な輝きを帯びていた。

 驚くと同時に、納得する。ここが――神域なのだ。山中をやみくもに歩いても辿り着けない、隔てられた世界なのだ。

 霧はさらに晴れていき、庭の奥に見える建物の形があらわになってきた。

 朱色を基調とした、開放的なつくりだ。庭園に沿うように透廊が張り巡らされ、いくつかの建物を繋いでいるようだ。古い時代の貴族の邸宅のようだが、建物の様式は神社のそれに似ていた。

 そして、建物の方から誰かが歩いてくる。

「――浅葱!」

 あの音楽的な声が、待ち焦がれたように浅葱を呼ぶ。

 その声に、浅葱は胸を衝かれた。生まれてこのかた、誰かにこんな風に呼ばれたことなどない。こんな風に――求められたことなど。

 声の主の姿を認め、さらに驚く。

 清冽な霧雨を集めたかのような、長い銀の髪。完璧に均整の取れた長身に、彫像めいた白皙の美貌。清らかな流れの深みと同じ色の、青い瞳。その瞳が浅葱を捉え、甘く細められた。

 一目で人間ではないと分かる――あり得ざる美貌の青年だった。格好は神職のそれと似ていたが、袴さえもが白く、白一色だ。

「……あの」

 臆したように声がかすれてしまう。怖くはないし、相手は浅葱に対して友好的だが、気配があまりに圧倒的すぎる。

 だが、そんなことは問題ではないとばかり、青年は浅葱の声に微笑んだ。

「汝に会いたかったぞ。十六年など、神にとっては瞬きの間であるが……それが永劫に感ぜられるほどに」

「……あなた様が、龍神様であらせられますか……?」

「是。我が、山珂国の守護神である」

 今度こそ浅葱は額づいた。そうせずにはいられなかった。

 龍神は止めなかったが、五分くらいが経過したと思われた後、いつまでこうしていればいいのかと思った浅葱がいったん顔を上げたとき、自身も地に片膝をついてまじまじと浅葱を見ていた彼と目が合った。

「!」

 思いがけず間近で神の御尊顔を拝してしまい、慌てて再び頭を下げる。

「よい」

 そう言うと、龍神はつと手を伸ばし、浅葱の顎をとらえて上を向かせた。

「汝はどこもかしこも美しいが、頭よりも顔を見ていたい。顔を上げよ」

「……仰せのままに」

 それこそ美の化身であるような神から美しいと言われ、目を白黒させたのが面白かったらしい。龍神はふと唇の端を緩めた。

「人の美の基準はよく分からぬが、汝は美しいのではないか? 我にとっては唯一であるしこの上なく美しくあるが」

「……恐縮です……?」

「うむ」

 うむ、ではない。まったく訳が分からない。龍神はどうしてこんなにも浅葱を褒め称えるのか。そもそも態度からして生贄に対するそれではない。

「……畏れながら、龍神様。本当に人違いではないのですか? 唯一など……心当たりがなさすぎます」

 戸惑う浅葱に気を悪くした様子もなく、龍神は浅葱の顎に当てていたを離して黒髪を撫でた。

「我が汝の魂を見間違えるものか。生まれ落ちたときから変わらぬ、この上なく美しい魂だ」

「生まれ落ちた、って……」

 浅葱ははっとした。確かに浅葱は、この山で生まれた。

「龍神様は、もしかして……私の母をご存じなのですか……?」

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