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――私に近付く人は、みな厄災に見舞われる。
目の前に並ぶ豪華な御膳を眺め、浅葱は無感動に目を伏せた。
ふっくらと炊かれて粒の立った白米の御飯、上品に仕立てられた蓴菜の汁物、何種類もの小鉢、海が遠いのに新鮮な刺身が彩りよく並べられた皿、もちろん醤の用意も抜かりない。
素材も調理も一流で、どこも文句のつけようがない。贅を凝らした御馳走が蒔絵の椀に盛られて宗和膳に並べられている。品数が多いので八十椀では足りず、皿がいくつも付け足されていた。
満腹の者でもつい箸を伸ばしてしまいそうな御馳走だが、浅葱の箸は遅々として進まない。炊き立ての御飯も、熱々の汁物も、目も舌も楽しませる季節の小鉢も、花びらのような薄造りも、徐々に室温に近付いて食べ頃を過ぎていく。
(勿体ない、と思うべきなのだろうけれど……)
他人事のように考えつつ、浅葱の心は動かない。勿体ないとも思わないし、作った人に申し訳ないとも思わない。自分にそんなことを思われては、料理人も迷惑だろう。
食が進まず、手ずから急須のお茶を煎茶碗に注いで口をつける。暖かく香りの高い冠茶は心を落ち着かせる効果があるはずだが、あるのかないのか分からないような浅葱の心は反応を示さなかった。食べるよりも飲む方がいくらか楽だから、お茶に口をつけたのはそれだけの理由だ。
飲み物を流し込んでみても、心と同じように体もろくな反応を返してはくれない。食欲は湧かないままだ。十六歳の少女である浅葱の体はまだ成長しきっておらず栄養が必要なはずだが、そもそもこの体は生きようとしているのだろうか。健康面に問題はないはずで、適度な運動もしているのだが、この体は――いや、問題は心か、それとも両方か――食べたい、生きたいなどという意志に欠けている。
浅葱は再び御膳に目を向けたが、そこに並ぶ御馳走から目を逸らした。これが美味しいと思えないお前はおかしいのだと責められているような気持ちになる。それで痛むような心はないが、不快さを避けるくらいの反応はするのだと他人事のように納得した。
大きな硝子窓の向こうは薄闇が下り、山並みが影を濃くしていた。
海から遠い山珂国の中でもいっとう内陸の高地にあるこの里は、どちらを向いても悠然たる山々が見える。季節は初夏であるから森の緑が日増しに色を濃くし、山間に降りた霧が空気を豊かに香らせた。
神に守られる――神守里。
まるで隠れ里のようにひっそりとたたずむこの集落は、山珂国で最も高い芙厳岳に鎮まる龍神を祀っている。山裾とは言っても、他の山々の中腹などであったりするため、里の標高は山珂国の平均的な山よりも高いくらいだ。芙厳岳は山々の上にさらに山があるような塩梅で、山珂国を俯瞰している。
里に住むのは、鍛冶や炭焼きといった山と切り離せない生業を持つ者。そして――神を祀る祭司の家系だ。
芙厳岳の龍神の気配を最も強く感じるのはこの里だが、神は国全体を守護している。古に神々が争った結果として国々が分かれたため、国はそのまま神の縄張りなのだ。
神が去れば山は崩れて水が噴き出し、大地が崩壊して高波がすべてを流し去ってしまう。そうして失われた国がいくつもある。
ただし、そうした出来事も今は昔。神々は基本的に人間の政や諍いや商いなどに介入をせず、それぞれの国の中心に鎮まっている。
古くは一体であった政と祀りごとも、今では分けられ、山珂国の国主は利便性の高い低地に築かれた都で執政にあたり、祭祀は祭司たちに任せられている。
祭司の家系は四つあるが、元を同じくするものであるため、それぞれ多かれ少なかれ繋がりがある。各家の当主は世襲で官位を受け継ぐ官人だ。国には立法と行政と司法をつかさどる太政官という機関があるが、それと同等の位置づけにあるのが神祇官で、当主たちはここに属している。各家に予算が割り当てられるので、一族の中から選んで、雑用ならば外部の者でも、当主の裁量で仕事を割り振ることができるのだ。
四人いる当主たちのうち交代で二人が里を出て、都、必要とあれば国内の他の場所へ赴任して国や地方との連携を取り、各地の祭事を主導する。里には二人が残り、龍神の慰撫を行う。
浅葱の生まれた東常家もそうした家のひとつ。父親が神祇祐――神祇官の中で三番目の地位だが、慣例的に年功序列なので、四人いる当主の中で三番目に年齢が高いという意味でしかない――を拝命しており、今は都に赴任している。
(一年くらいお顔を拝見していないかも。でも、むしろありがたいわ)
都に行っていようが里に残っていようが、父親は自分をろくに見ない。忌々しい厄介者めと疎んじているのは分かるのだが、極力その感情を抑え込んでいる。
理由は――簡単だ。
「まあ……またこんなにお残しになって。いったい何がご不満なのかしら、勿体ない。こんな御馳走、見ることさえできない子供たちが大勢いるっていうのに」
結局食欲が湧かず、たいして手をつけていない御膳をそのまま部屋の外へ出してしまった。それを片付けに使用人が来てくれたようだが、もしかして新人なのだろうか。潜められてもいない声が廊下から聞こえてくる。
(……私が食べなかったところでそういう子供たちのところへ届けられるわけでもないのに。東常家の使用人なら生活に不自由はしていないはずだけど、そういう人に憐れまれるのってどうなのかしら。傲慢なのでは……?)
うっかりそんなことを考えてしまった浅葱は、はっとして思わず口を押さえた。そんなことをしても思った言葉は取り消せないし、言葉として零してもいないが――駄目なのだ。
「しっ! 注意をちゃんと聞いていなかったの!? あの方を悪く言うと……きゃあっ!?」
こちらは聞き覚えのある女性の声だ。前々からの使用人だろう。潜めた声だが、浅葱の耳には届いている。
「……っ、痛っ……!」
「大変! すぐ手当しないと!」
「このお皿……ひとりでに割れませんでしたか!? まさか私の責任になるのでしょうか!? こんな高そうなお皿……!」
そのやりとりから大体の状況が分かった。新人が持っていた御膳の皿が勝手に割れて破片が彼女を傷つけたのだろう。古参の方が心配しているようだが、新人の方は自分の怪我よりも弁償のことの方が気になっているらしい。
たくましいことだ、と呆れながら考えてしまうが、そもそも自分がそんなことを考える筋合いなどなかった。
それは――浅葱のせいなのだから。
「そんなことにはならないから大丈夫! 昔からよくあるの、こういうことは。だから怪我を治すことだけを考えて!」
「よくある、って……あの噂は本当だったんですか? 東常家の下の娘に関わると、わざわいに見舞われるって……!」
(……本当のことよ)
浅葱は心の中で呟き、廊下から遠ざかるように窓辺へと歩いた。
――浅葱の周りでは、厄災が起こる。
――浅葱だけを、避けるようにして。