白は牙で食わぬ米
彼女がヴァンパイアになったらしい。嘘だろと言えば嘘じゃないと涙声で返された。電話を取ってから何十回も同じ問答を繰り返している。そろそろ信じた方がいいのだろうか。彼女が泣き始めて一時間が経っている。茶碗に盛り付けた米はすっかり冷めていた。せっかく彼女が薦めてくれた米を買ったのに、開口一番にヴァンパイアになったと言うのだから話すタイミングをなくしてしまった。
「いいよ。別に信じなくても。来週会ったときに牙見せるから。それで信じてよ」
来週。週末に彼女と会う予定があった。前に会ったとき、次は泊まるからねと彼女は言っていた。彼女らしい大きく口を開いた笑顔で。その口元から尖った牙が生えているのを想像するが、上手く描けなくて笑顔ごと記憶に溶けていく。
「ごめん。やっぱりまだ信じられない」
「ヴァンパイアってさ、血を飲むらしいよ」
自分の言葉と彼女の言葉が重なる。それを謝る前に彼女が続けた。「どんな味がするんだろうね」
えっと、それは、つまり、そういうこと?
「飲ませろって言ってます?」
「言ってます。信じてくれなくても、それで許します」
血って、血か。飲みたいってことは、つまり本当にヴァンパイアなのか? 俺の彼女はよほどの事情がない限り恋人の血を欲しがるような人間ではないと思っている。ヴァンパイアにとって血は食料だが、ヴァンパイアでなかった場合、彼女が欲しいと言っているのはただの恋人の血だ。彼女は恋人の体液を欲しがるようなヤンデレではない。じゃあ、本当に。
「本当だったわ」
「でしょ」
俺の部屋に入ると彼女は早速マスクを外した。口を開くと、そこには確かに牙が生えていた。
「触っていい?」
「いいけど」
彼女が喋るたびに牙も上下する。歯なのだから当たり前だけど、面白い。
頬に触れると彼女は目を閉じた。それはキスをするときと同じ動作でこのままキスをしてしまおうかと思ったが、不意打ちに驚いた鋭利な牙に舌を噛まれたくはなくてやめた。唇に触れて人差し指と中指で控えめに開かれた口をこじ開ける。親指で牙を撫でれば、彼女の眉がぴくりと動いた。熱い息が指に当たる。見れば、上の犬歯が牙の正体のようだった。下の犬歯と比べて一本半分長く、先は鋭く尖っている。指の腹を押し付けるが、皮膚は切れない程度の痛みを感じた。結構な力を入れれば切れなくはないだろうが、針のようにすんなりとはいかないだろう。皮膚が切れる前に押し付けられたことによる痛みでギブアップだ。
指に息が当たる。熱を持ったそれは荒く、呼吸はさっきより速くなっていた。
「キスしてもいい?」
俺が手を離すと彼女は目を開けた。切れ長なそれが俺を捕らえ、そして伏せられる。
「いいよ」
赤くなった頬に触れると、閉じた口が小さく開いた。期待と欲で開いたそれに自分のものを重ねる。彼女の口内に舌を入れようとするが、彼女の小さい口では牙と牙の間は狭く、仕方なく牙を撫でるだけで口を離した。
「舌出して」
言えば、彼女は素直に舌を出した。それを喰らうように吸い、噛んで、伝う唾液を飲み込む。手持ち無沙汰に彼女の髪を耳に掛ければ、耳の先が尖っているのがわかった。牙に尖った耳。ヴァンパイアと言えば、という特徴ばかりで本当にヴァンパイアになっているのだと実感する。
「ね、待って」いきなり彼女が俺を引き剥がす。
「今、血、飲みたい」
心なしか口元から覗く牙がさっきよりも鋭くなっているように見えた。血については飲ませる約束をしていた。体の変化を確認しただけだが本当にヴァンパイアになっていたし、俺は疑ったことを許してもらわなければいけない。彼女の頬は赤く染まり、目は潤んでいる。それは、キスで興奮したからか、血を欲して興奮しているからか。俺はTシャツの襟を引っ張り、首元を彼女に晒した。
「いいよ。そう約束したから」
「ありがとう」
肩に手を置かれ、ぺろりと首筋を舐められる。
「なるべく痛くないようにするから」
痛いだろうな、と思った後にそう言われても不安がある。だが、痛いからやめてくれなんて言うつもりはない。必死そうな彼女の顔を見ると、中途半端に止めるなんて可哀想なことはできそうになかった。
牙は本当に鋭くなっていたのかもしれない。痛みはあったが、思っていたよりもそれは酷くなかった。それでも、肌に牙が刺さった瞬間思わず痛いと声を上げたが、血に夢中になっている彼女が止まることはなかった。ずるずると首元から体の中身を吸われているのを感じる。熱い息が肌に触れてくすぐったい。俺の血を飲んで興奮しているのだろうか。痛いのは嫌だが、それは少し嬉しいかもしれない。思わず彼女の頭を撫でる。
「俺の血、美味しい?」
「美味しいよ」
そう言われ、背中に抱きつかれる。
「最近は何を食べても美味しく感じなかったけど、これは美味しい」
それは初耳だった。ヴァンパイアになった影響は味覚にまであったのか。教えてくれなかったことと自分が信じなかったから話せなかったであろうことを思うと悔しくなる。
「いいよ。満足するまで吸って」
これは罪滅ぼしだった。この一週間、彼女が一人で抱えてきた辛さを俺の血を吸うことで紛らわせることができたら。
俺の言葉に彼女は笑った。「じゃあ、遠慮なく」
再び彼女に血を吸われながら、曖昧になっていく頭で、そういえば、と思い出す。炊飯器の中に米があった。彼女を迎えに行く前に研ぎ、水を吸わせるために放置していた米が。結局、彼女が薦めてくれた米を買ったということは言えていなかった。泊まりに来たら一緒に夕飯を食べるのだからその時でいいだろうと思っていた。しかし、彼女の話を聞く限り、彼女は普通の食事ができない。ということは、俺が午前中に作ったピーマンの肉詰めや味噌汁を彼女は食べられないということだ。いや、食べることはできるだろうが、美味しくは食べられないだろう。せっかく俺が愛情を込めて作ったのに。別に、食べられないと言わなかったことは怒っていない。きっちり二人前を作ってしまったが、翌日の俺の飯にすればいい。そもそも言わなかったのではなく言えなかったのだ。ヴァンパイアになったことを信じなかった俺のせいで。だから俺が彼女にあれこれ言う資格はない。ただ。ただ、彼女が美味しいらしいと言っていた米を。彼女が食べてみたいと言っていた米を。俺がスーパーでにやけながら買った米を。彼女が食えないことに気が付いて、それに少しだけ悲しくなった。