三百円の私と霊能外科医の夫
大正時代です。何年かは明確には決めていませんが、震災前だと思います。
この時代の三百円は大体現代の90万とかそのくらいだったと思います。多分。
天海千代の義父、天海源蔵が逝去したのは今から数週間前の話だ。
幼い頃に両親を亡くした千代を引き取り、正式に養子として華族の娘にしてくれた源蔵を、千代は心から慕っていた。当然他の家の者、特に義母や姉には冷たくされていたが、それでも千代は源蔵への恩もあって耐え続けていた。源蔵だけは千代を実の娘のように愛し、女学校にも通わせてくれていた。
その源蔵が、病で亡くなってしまった。
沢山泣いて沢山悲しんで、それでもどうにか立ち上がろうと足掻いていた千代だったが、義母達は容赦しなかった。源蔵という後ろ盾を失った千代は、最早天海家に居場所などなく――――
***
「折角かわいらしいお顔なんですから、もう少しだけ元気を出して、笑って見てもらえませんか?」
三つ揃いの洋服に山高帽、と言った風貌の男、龍之介が隣で困ったような笑顔で言う。それでも千代は笑おうだなんて気にはなれない。
重たい表情のまま、車夫の背中の向こう側ばかり見ていた顔を、千代は適当に龍之介へ向ける。
「おべっか使ったってダメよ。今はそんな気分にはなれないわ……」
「ああいえ、おべっかというわけではないんですが……。でも、暗い顔したお嫁さんというのはちょっと……」
「……お嫁さんという言葉は到着する寸前まで使わないで……あまり考えたくないの……」
そう、お嫁さんなのだ。
天海家は華族ではあったがあまり裕福な方ではない。千代の学費も源蔵がどうにかやりくりして捻出していたもので、そのせいで生活面で割りを食っていたのが義母達なのだ。ただでさえ気に入られていない千代が、学費で生活を圧迫しているとなれば恨まれるのは当然とも言える。もっとも、生活面で割りを食っていたとは言っても派手な贅沢が出来なくなっただけで、庶民と比べると裕福な生活だったのだが。
そんな折、年の離れた千代の兄が事業に失敗し、大きな借金を抱えてしまう。その上源蔵が亡くなってしまい、大混乱に陥った天海家は、家長となった兄の提案でどさくさに紛れて厄介者の千代を借金の形に売り飛ばすことになったのである。
それを知った龍之介が信用出来る知り合いを虱潰しに当たり、縁談という形で千代の引取先を見つけ出したのだ。
「……でも、龍之介さんには感謝しているのよ? あのままだと私、どこに売られてしまうのかわからなかったもの」
「そうですね……流石に私もそれはどうかと思ったので……。すいません、いっそのこと私が引き取れれば良かったのですが」
「それはすごく素敵な提案だけど、龍之介さんのお嫁さんは嫌だわ私」
「えぇ!? どうしてです!」
「龍之介さん、よく女性の方と一緒にいらっしゃるから気が気でないもの」
「はぁ……それは……。でも私は浮気なんてしませんし……」
不服そうに色々呟く龍之介の顔を見つめ、千代はため息をついてしまう。東洋人としては背が高く、洋服が様になっている龍之介はスタイルも良い。線は細いもののくっきりとした、凛とした顔立ちだが、眼鏡の向こうの大きめの瞳はどこかかわいらしい。おまけに舞台役者だというのだから周りの女性は放ってはおかないだろう。
正直なところ、幼い頃は千代も憧れていたのだから。
「でも、黒鵜さんという方……すごい方ね? お医者様だと聞いているけれど、よくお母様の要求に答えられたというか……」
「ええ。黒鵜はお金には困っていませんからね。私が話をすると、わりと二つ返事で了承してくれたんです」
最初はただの縁談、という形だったのだが、黒鵜が平民だと知った途端千代の義母は相当な金額を要求したのだ。元平民とは言え、華族の娘を嫁に出すのだからそれなりの金を出せ、と。
天海家としては借金をどうにかするための策だったので、何としてでも金をふんだくりたかったのだろう。
とは言え、結局の金額は華族の娘の嫁入りとしては大した金額ではない。
「そう、良い人なのね……」
言いつつも、千代の表情は晴れない。
天海千代の人生は、三百円だったのだから。
***
悶々としながら車に揺られること一時間弱。千代は嫁入り先の黒鵜家へと到着する。
「……まあ!」
思わず顔の前で手を叩き、千代は声を上げてしまう。
「大きいでしょう? 華族のお屋敷と比べても遜色ないと思いますよ」
黒鵜の屋敷は和装の屋敷で、天海家の屋敷と大きさはそこまで変わらない。
「さあ、これからはなるべく笑ってくださいね」
「……善処する、わ……」
「黒鵜は少し照れ屋ですが、決して悪い人間ではありませんので」
「龍之介さんのお友達だから、そこはあまり心配していないのだけど……やっぱり怖いし、三百円の人生は悔しいわ」
「気持ちはわかります。ですから、三百円で手放したことを、天海の家が後悔するような人生を目指しましょう!」
何とか元気づけようと明るい言葉をかける龍之介を見て、流石に千代も気合を入れる。折角龍之介がここまでしてくれたのだから、これ以上へこたれてはいられなかった。
「それに、黒鵜は千代さんのように髪の綺麗な方が好きだと言っていたので、きっと気に入ってもらえますよ。写真を見せた時も、かわいらしいと褒めていましたので」
「そ、そうなの……?」
慌てて長い黒髪を手櫛で整えながら手鏡で確認する。出発前に見た時よりは、表情もいくらかマシに見える。
牡丹柄の緋色の小袖、藍の行灯袴。乱れがないか確認してから、千代はほっと一息吐く。
「大丈夫大丈夫。お綺麗ですよ、安心してください」
「いつもそうやって誑かしてらっしゃるの?」
「違いますよ! 何だか私の印象悪くないですか!?」
「冗談よ、ありがとう龍之介さん」
こうして大げさに反応してくれるので、ついつい千代は龍之介をからかってしまう。でも、こうして龍之介と笑っていられるのも今日が最後だ。これからは亭主のいる妻として、男性との関わり方には細心の注意を払わなければならないのだ。
華族の家に引き取られた時から自由な恋愛のことは諦めていたが、まさかこんな形で急に結婚することになるとは思っても見なかった。まだロクに恋したこともないのにいきなり終着点にたどり着いてしまった気分である。
程なくして、大きな門の向こうから使用人の老婆が顔を出す。人懐っこい笑顔の、トミという老婆だ。
「んまあなんてかわいらしいお嬢さんでしょう! おまけに華族の娘さんだなんて、私も鼻が高いです」
「トミさん、名前はもう聞いてると思うけど、千代さん」
龍之介に紹介され、とりあえず千代は会釈する。
「えっと……天海……じゃなかった、千代よ。よ、よろしく……」
「硬くならないでくださいな。今日からここは千代様のご自宅ですから! 私、ここの使用人のトミという者です」
深々とお辞儀をして、トミは屈託のない笑顔を浮かべる。
「ささ、どうぞどうぞ。客間で旦那様がお待ちですから」
トミはそう言って千代を中へ案内しようとするが、足を踏み出せない。まだ見ぬ夫のことを思うと少し怖くなってしまう。黒鵜は写真もなく、肖像画もなかったため、千代はまだ顔を知らないのだ。
「それじゃ、私はこれで……」
笑顔で一礼して立ち去ろうとする龍之介だったが、その裾を千代が掴む。
「千代さん?」
「……お願い、もうちょっと一緒に来て……?」
「……はい、わかりました」
仕方ない、と言った様子で龍ノ介がはにかんで頷いたのを見て、千代はやっと一歩踏み出した。
トミに案内され、おっかなびっくり千代は客間へと辿り着く。少し心の準備をしたかったが、トミは何の躊躇もなく襖の向こうへ声をかける。
「旦那様―、千代様がいらっしゃいましたよー」
「……そうか、入れてくれ」
恐ろしく低い重低音が聞こえて来て、思わず千代は肩を跳ねさせる。隣で龍ノ介が苦笑していたが、怖いものは怖かった。
「……大丈夫ですよ」
小声で囁く龍之介に少しだけ安心しつつ、千代はトミが開ける襖をジッと見つめる。
「……っ!」
そして、そこに座る男を見て千代は思わず声を上げそうになった。
「…………君か」
体格の良い、肩までの長髪の男だった。口元や顎には薄っすらと太い髭が生えており、切れ長の三白眼はこちらをチラリとしか見ていない。どこか不機嫌そうに見えるその男の年令は大体――
「お、お……」
四十代手前くらいだろうか。
「……お?」
「お、お願いします……よろしく……お願いします……ち、千代です……」
おじさん、と言いかけたのを何とか誤魔化して、千代は言葉の順序の狂った挨拶をしてお辞儀する。
千代は生まれて初めて龍之介を恨んだ。
決して美青年を期待していたわけではない。
借金の形に売られかけておいて、今更満足のいく結婚が出来るだなんて思っていない。
けれども、十五の千代とこんなに年が離れているとは思ってもいなかった。
華族の世界では珍しくないかも知れなくても、少なくとも千代が最低限望んだのは年の差十年以内の結婚相手だったのだ。
「黒鵜、継人だ」
お辞儀したままの千代の顔に、地の底から重低音が登ってきて耳に入り込む。ずぅんと重くなった気がして、千代は何も答えられない。
天海千代改め黒鵜千代十五歳。値段は三百円で、人生の終着点はおじさんだった。
頭を下げたまま中々上げない千代の異変に、最初に気づいたのは龍之介だった。継人とトミは首をかしげるだけだったが、龍之介はやってしまった、と言わんばかりの顔で狼狽えている。
「えーっと……千代さん、ちょっと緊張してしまったみたいで……。少し、外で落ち着きましょう……ね?」
龍之介から出された助け舟に、千代はようやく顔を上げて小さく頷く。
「ご、ごめんなさい……」
「いえいえ、良いんですよ。旦那様、少々お待ちいただけますか?」
継人が軽く頷いたのを確認すると、龍之介はすぐに千代を連れて廊下に出て行った。
「……龍之介さん……っ!」
小声ではあったものの、確かな怒気の込められた千代の言葉に、龍之介は思わず後じさる。
「た、確かに黒鵜は怖い顔をしていますが、決して悪い人間ではないんです! 大丈夫ですから……」
「そ、そこだけじゃないわよぅ……」
「えぇ……?」
情けない声を出して泣きつく千代に釣られて、龍之介も情けなく困惑してしまう。
「おじさんだなんて聞いてないわ……! 少し年が離れているとは聞いていたけれど、全然少しじゃないじゃない!」
「ああ、いや、それはですね……」
そういうことか、と納得して説明しようとする龍之介だったが、それを遮るように襖が開いた。
「千代様、大丈夫ですか?」
「え、ああ……ああ!?」
千代と龍之介を見、ポカンと口を開けるトミ。龍之介に泣きついた千代の姿を見て、色々な想像をしてしまったのか、トミは申し訳なさそうに目を伏せる。
「ああいえ、これはその……あーもう!」
矢継ぎ早に問題が畳み掛けて来たせいで、流石の龍之介もつい悪態をついてしまう。千代の方は少し落ち着いたのか、龍之介から離れて顔を赤くしていた。
「ご、ごめんなさい……もう、大丈夫だから」
乱れた髪を整えつつ千代がそう言うと、トミは少し安心したような表情を見せる。
「……ええと、旦那様がお待ちですので……」
戸惑いがちにそう言われ、千代は再び客間へと戻る。それと同時に、向こうから他の使用人にトミが呼びつけられた。
「ああ、申し訳ありません。どうやらお客様がいらしたようですので、私はこれで……」
そう言ってトミはそそくさと玄関の方へと走って行く。そして客間には今にも頭を抱えそうな表情の龍之介と、相変わらずカチコチに固まった千代、そして仏頂面の継人の三人が残された。
「ああ……えーっと、黒鵜、ほら、怖い顔してないで挨拶くらいしなよ」
重たい沈黙に耐え切れずにそう言う龍之介だったが、継人は表情を変えない。どころか――
「……挨拶は、先程したハズだが……」
などと言い始めるものだから、怯えた千代がまた肩を跳ねさせた。
「あ、はは……うん、そうだったね……。千代さん、黒鵜はこんなだけど、優しい奴だからあなたのことを大切にしてくれるハズですよ」
これはお世辞でもなんでもない、龍之介の本心だったが千代は疑いの目を向けている。そして本当なのか、とすがるような目で継人へ微かに目を向ける。
「…………」
しかし継人は何か答えるどころか、千代から視線をそらす始末だ。
「さ、先程は……失礼、いたしました……私、その……人見知りなので……緊張してしまい……」
「……いや、いい」
何とか勇気を振り絞って謝罪する千代だったが、継人は突き放すような口調でそう答えて立ち上がる。
「黒鵜?」
「患者の様子を見てくる」
「いや、え、えぇ……?」
何故このタイミングで、と龍之介が問う暇も与えないまま継人は立ち去って行く。その後姿を、千代は呆けた顔で見つめていた。
継人が立ち去り、龍之介が頭を抱えていると、今度はバタバタと客間へトミが駆け込んでくる。
「龍之介さん!」
「あっはい! どうしたのトミさん!?」
「龍之介さんとこの劇団の人が今来ててね、すぐに龍之介さんを呼び戻して欲しいと……」
「……私今日、きちんと伝えておいたハズなんですが……」
「夕方の公演に出る主演さんが倒れたって話でねぇ、代わりが出来るのは龍之介さんくらいのものだって……」
「えぇ!?」
時計を見るともう午後三時過ぎ。すぐに戻らなければならないと判断した龍之介は、慌てて立ち上がる。
「ああもうこんな時に……! すいません千代さん、ちょっと急に戻らないといけなくなったので……! と、とにかく黒鵜は大丈夫ですから! 安心してください!」
うまく言葉をまとめることも出来ないまま、龍之介は千代の返答も待たずに立ち去っていく。
「あ……はい……」
千代はまだ、呆けていた。
龍之介に返事をしたのも、龍之介が客間を出てから数秒後のことである。
***
その後、千代は自室に案内される。まだ半分思考が停止してはいたものの、広い和室に通されると千代は声を上げて喜んだ。
「旦那様が千代様のためにって、色々用意してくださったんですよ」
箪笥や鏡面台等、必要なものは一通りそろっている。どれも、天海の家にいた時よりも大きなものばかりで、本当に継人は経済的に余裕があるのだと千代は感心してしまう。
箪笥の中には、予め運んでもらっておいて着物の他に数着新しいものが用意してあり、トミによるとそれらも継人が用意したものとのことだった。
「気に入っていただけましたか?」
「……はい! それはもう……! 本当にこんな素敵な部屋、使ってもいいんですか!?」
「勿論ですとも! 旦那様ったら、顔には出にくいんですけど千代様が来る一週間も前からそわそわしてらしたんですよ」
「まあ!」
想像は出来なかったが、歓迎されているとわかって千代の気分は高揚する。確かに継人は千代からすればおじさんだし、今でもそれを考えると少し落ち込む。それでも、継人が喜んで千代を嫁として迎えようとしてくれているのは嬉しかった。
夫婦のように思えるまで時間はかかるかも知れないが、それはこれから育んでいけば良いことだ。
「何か他に必要なものがありましたら、何でも申し付けてくださいね」
「ありがとう。でももう十分です!」
嬉しそうにそう答えてから、千代はふと気になったことをトミへ問う。
「そういえば、旦那様はお忙しいのでしょうか? 先程も途中で患者の様子を見に行くとおっしゃっていたのだけど……」
「そうですねぇ……ちょっと今は大変そうですが……。その時々によってまちまちですので何とも……」
「そうなんですね……」
龍之介の話によると照れ屋だという話だし、トミの言う通り今忙しいのであれば途中で出て行ってしまったのも仕方ないのかも知れない。むしろ、忙しいのに何とか千代に会う時間を作ってくれていたのかも知れない。
「……私、何かお手伝い出来ませんか?」
「あら、千代様がですか?」
「ええ、こんなに良くしてもらっているのに、何もしないでいるなんて出来ませんわ」
「それは……旦那様もお喜びになるかも知れませんねぇ」
そんなことを言いながらトミが穏やかに笑うので、千代はすっかりその気になってしまう。出会い方はあまり良くなかったが、これから仲良くなっていけば良い。仕事を手伝うのがそのきっかけになるんじゃないかと思い、千代は少し微笑んだ。
「……そういえば千代様、龍之介さんとは……」
ふとトミがそう言いかけ、千代がトミの方を視線を向けた瞬間、遮るように襖が開く。
「あ、旦那様……」
少しだけ萎縮しつつも、千代は継人の方へ向き直る。相変わらず継人は笑み一つこぼさない。
「あの、お部屋……ありがとうございます。他にも、色々……」
やや照れながら礼を言う千代だったが、継人はすぐに顔を背けてしまう。
「そうか……」
短い一言だったが、どこか安堵したかのような声音だ。それを感じた千代は、顔を背けたのは照れているだけなのだろうと感じて笑みをこぼす。
「お仕事……大変、なんですか?」
「……ああ」
顔は未だにこちらへ向けてくれなかったが、継人は小さな声でそう答えた。
「えっと……良かったら、お手伝い……させてもらえませんか? 何か出来ることがあれば良いんですけど……」
おずおずと千代が申し出ると、急に継人は千代の方へ顔を向ける。その眉間にしわが寄っていることに気がついて、千代は思わず声を上げそうになる。
「……ない」
「いや、あの……」
「何も、ない……。何もしなくていい」
にべもなくそう言われて、千代は言葉を詰まらせる。何か迷惑だったのかと思うと、途端に不安な気持ちが募り始めた。
「今日は患者が一晩診療所に泊まる……。絶対に近づかないでくれ」
千代に背を向け、それだけ言い終わると継人は部屋を後にする。心なしか強い力で閉められた襖が、必要以上に千代と継人を隔てた。
今にも膝から崩れそうになるのを何とかこらえつつ、千代は肩を震わせる。天海家でのことを思えば拒絶されることには慣れているつもりだったが、それでもどうしようもないくらい悲しい。拒絶そのものよりも、好意を突っぱねられたことが辛かったのかも知れない。
「あの……千代様? 申し訳ありません、旦那様は少々口下手でして……別に怒っているわけではないのだと思いますが……」
「そ、そうですよね……。とりあえず今日は、大人しくお部屋の整理でもしようかと思います」
「それが良いかも知れませんねぇ。それでは、私は仕事に戻りますので、何かありましたらいつでもお呼びください」
親切なトミに礼を言うと、トミは笑顔で部屋を去って行く。
「……そうよね。旦那様のお仕事、邪魔しちゃ悪いわよね」
一人そう呟いて、千代はなんとか立ち直る。まだ新生活は始まったばかりだ。きっとどこかでタイミングを掴んで、継人とうまく話せる時が来るハズだ。
そう言い聞かせて、千代は部屋の整理を始めた。
とは言っても、千代の荷物はそう多くない。少しの着物と雑誌や、趣味で集めた切手、後は日用品ばかりである。風呂敷を広げてそれらを整理するのに、それほど時間はかからなかった。
***
黒鵜家に来てから二日目になった。トミや他の使用人達はとても良くしてくれたし、夕飯もおいしかった。しかしあれから、継人とは一言も口を聞いていない。継人から声をかけてくることは全くなく、千代もなんとなく声がかけづらいまま、いつの間にか診療所へと戻ってしまっていた。
トミは随分と気を遣ってくれたようだが、どうしても千代の緊張感は拭えない。龍之介やトミの話と、実際の継人の態度にはどうにもズレがある。どうにかして仲良く出来たらとは思いながらも、実はそんなに歓迎されていないのでは? などという思いも脳裏をよぎり始めていた。
継人は朝食の時は同席していたものの、やはり千代との会話はない。それどころか、トミ達とも必要最低限しか話をしていなかった。何とか勇気を振り絞って昨日の真意を問いたかったが、結局何も言えないまま時間は過ぎていく。そして継人は食べ終わるとすぐに仕事だと言ってどこかへ行ってしまうのだった。
「……あの、トミさん」
朝食の後、千代はすぐにトミの元へ向かう。
「はい、なんでございましょう?」
「私は……この後何をすれば良いでしょう? 旦那様のお手伝いは……出来ないみたいだけど、何か手伝うことがあれば……」
「まあ、千代様に手伝わせるだなんてとんでもありませんよ! お気持ちだけいただいておきます……。はぁ、なんて優しい奥様がいらっしゃったのでしょう……」
感極まったかのように打ち震えるトミに苦笑しつつも、千代は内心ため息をついてしまいそうになる。
天海の家では、半分くらい使用人扱いで、よく使用人に混じって家事をやったものだ。千代はそれを特に気に留めていなかったし、何もしないでいるよりは良いと思っていた。
特に何もすることがない、と言うのは千代にとってあまり嬉しいことではない。
「わかりました。何かあったら遠慮なく言ってください。喜んで手伝います!」
そう言い残して、千代はそのまま自室へと戻った。
***
自室へ戻っても、特に何もすることがないので、千代は何となく継人のことを考える。
「……やっぱり、このままじゃダメだと思う」
このままわだかまりが残ったままでは一緒に生活していくのは難しい。出来ることなら、円満な夫婦関係を築きたいというのが千代の本音だ。
やはりもう一度改めて話をした方がいい。そう思った時にはもう、千代は立ち上がって部屋を出ていた。
部屋を出てすぐトミに聞いてみると、継人は丁度屋敷に戻って来ているとのことだった。この屋敷の離れには診療所があり、そこが継人の仕事場なのである。
決意が揺らいでしまわない内に話してしまおうと思い、千代はすぐに継人の自室へと向かう。戸の前に立った段階で少し躊躇ってしまったが、千代は意を決してノックする。
「……あれ?」
しかし、返事はなかった。それに対して拍子抜けしてしまうのと同時に、少し安心してしまう自分に千代は呆れる。
「あの、旦那様?」
試しに声をかけてみたが、返事はない。いないのか、それとも何かに集中していて気づいていないのか。ひとまず確かめるために、ちょっぴりの好奇心を伴って千代は戸を開ける。
結論から言うと、部屋の中に継人はいなかった。しかし千代は、部屋の中に広がる光景を見て目を丸くする。
「……何、これ……」
部屋の中はきちんと整頓されてはいたが、何やら部屋の四方に御札のようなものが貼ってある。壁には不気味な能面等がかけられており、これまた御札の貼り付けられた鞘に収められた日本刀等も置いてある。他にも、千代には何なのかよくわからないものが置いてあり、理解出来ずに千代は表情を引きつらせた。
「これ……本当にお医者様の部屋なのかしら……」
どちらかと言わずとも、千代からすればただの危ない人の部屋だ。慌てて千代は戸を閉じて背を向ける。これは見なかったことにしておいた方が良いだろう。
逃げるように部屋から離れていくと、玄関の方から話し声が聞こえてくることに気づく。立ち止まって耳をすますと、どうやら継人がどこかに電話しているのだということがわかった。
「……はい、そうです。はい……早く決めていただかなければならないのですが……」
行儀の悪いことだとわかっていながら、千代はそのまま耳をすましてしまう。
「……では、お宅のお嬢さんがどうなっても構わない、と」
「…………え?」
継人の物騒な言葉に、千代は思わず耳を疑う。
しかし言葉の意味を考えるような余裕は与えられず、継人は話し続けた。
「……本当にお嬢さんを大切に思うのなら……はい、ですからこれ以上は譲れないと……こちらも生活がありますので……」
この男は、本当に医者なのだろうか。
吹き出した疑問がもう止められない。放っておくと全身を満たしてしまいそうだったが、止める術を千代は持たない。それくらい、千代は継人のことを知らなかった。
「……千代様?」
「ぅひゃぁっ!?」
いつの間にか近寄ってきていたトミに背後から声をかけられ、千代は思わず悲鳴じみた声を上げてしまう。
「あ、ああ……申し訳ありません千代様! お、驚かせてしまったようで……」
「い、いいえ……気にしないでください……私が勝手に驚いただけなので……」
ひとまずそのまま気分を有耶無耶にして、トミの用事を聞くことにする。どうやら、もう昼食の用意が出来ているようだった。
***
昼食は千代の予想に反して洋食で、少し大きめのオムレツが主食だった。昨晩は和食で、屋敷も和風だったのでてっきり和食ばかりが出るのだと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。
「天海様は何でも、洋風を好んでいらしたそうじゃないですか。ですから、千代様も向こうでは洋食ばかり食べていたのではないかと思いまして……どうでしょう、お口に合いますか?」
嬉しそうに問うてくるトミに、千代は大きく頷いて見せる。
「私は洋食も和食も好きですよ。だけどオムレツは洋食の中では一番好きなんです!」
ふわりとした卵の食感がなんともたまらない。トミの想像とは違い、天海の家ではそんなに食べる機会はなかったのだ。千代の食事は、厨房で使用人達と一緒に賄を食べていることが多かったためである。
「ありがとうございます。とってもおいしいです!」
「気に入っていただけて何よりです。後で厨房のものにも伝えておきますよ、千代様が大変喜んでいらっしゃったと」
妙な会話を立ち聞きしてしまったせいで、あまり良い気分ではなかった千代にとって、こういう心遣いは本当に嬉しい。疑念は晴れないけれど、おいしいものは食べている間嫌なことを忘れさせてくれる。
昼食を堪能した後、千代は居間を出る。すると、数秒遅れて食べ終えた継人が追いかけるようにして居間を出てきた。
「あ……」
何か言おうとは思ったが、言葉がうまく出て来ない。継人は継人で、黙って千代を見つめるだけだ。
しばらく沈黙が流れたが、千代は耐え切れずに自分から口を開く。
「あの……何か……?」
「…………ああ」
重たい、鉛のような声だ。
継人は少しだけ間を置いた後、千代から目をそらしつつもう一度口を開く。
「……ここは、嫌か……?」
「えっ? いや、その……」
継人の思いがけない質問に、千代はうまく答えられない。
「……いつでも、出て良い……。君を、縛るつもりはない」
「え、そんな――――」
千代の返答を待たずに、継人は千代へ背を向ける。その背中を呼び止めようとしたが、新たな疑念が胸の内で絡まってしまって解けない。それでつっかえてしまって、声が出せなくなったかのようだった。
遠くなっていく継人の背中を見つめながら、千代はそんなことばかり考えた。
***
昼食の後、しばらく考え込んだ千代は、とにかく事実を確認しようと思い至る。しかし継人本人は診療所に行ったまま帰って来なかったし、トミも何だか忙しそうで声をかけそびれたまま部屋に戻ってきてしまった。トミの様子を見る限り、ここの人達はみんな継人のことを慕っているように見えた。そんな人達に「継人は本当に医者なのか? 危ない人なんじゃないか?」などとは聞きにくい。
それに――――
「……いつでも出て行って良いって……どういう意味だったの……?」
自室で座り込んだまま、千代はひとりごちる。継人の真意が、千代には全くわからなかった。
どうにも、龍之介やトミの話と、千代自身が感じた継人の印象が食い違っている。龍之介は継人を良い奴だと言っていたし、トミは継人が、千代が来るのを楽しみにしていたと言っていた。しかし千代から継人は、良い人かどうかもわからなかったし、本当に千代を歓迎してくれているのかもよくわからない。
悪い方向にばかり考えてしまうのは悪い癖だと自覚していたが、どうしても心細さがそうさせてしまう。トミとは仲良くやれそうだとは思ったが、まだ会って二日目であることに変わりはない。亡くなった義父や、天海の家で仲の良かった使用人達、そしてやめさせられてしまった女学校にいた友人達を思うとまた泣き出しそうになってしまう。
「なら……出て……行っちゃおうかな」
うつむいて小声で呟いて、誰にも聞こえないように畳に染み込ませる。こうしておけば、ただの独り言で現実味を持たなくなる。出て行ったところで行き場はない。これ以上、龍之介に迷惑をかけるわけにもいかなかった。
そんな風に考えていると、不意に戸が叩かれる。現れたのは、皿に乗ったおにぎりを持ったトミだ。
「千代様……その……旦那様と、何か……? あまり気分が優れないようですが……」
おにぎりは気を遣って持ってきてくれたのだろうか。時計を見るともう夕方前で、丁度小腹が空いてくる頃合いだ。しかし流石に三つは千代には多過ぎるように感じた。
「……ごめんなさい、気を遣わせてしまって」
「いえいえ。丁度手が空いたところでした。お昼のご飯が少し余っていたので、作ってみたんですよ」
皿を差し出され、千代はおにぎりを一つ受け取る。食べてみると、塩加減が丁度良くておいしい。
「……私、やっぱり旦那様に歓迎されていないんじゃないでしょうか……」
独り言のように不安を吐露すると、トミはまあ、と口元に手を添える。
「そんなハズはありませんよ」
「……でも旦那様、私にいつでも出て行って良い、って……」
思わず千代がそのことを口にすると、トミは目を丸くして驚いて見せる。そして少しだけ間をあけてから、納得したように息をついた。
「旦那様は……千代様を縛り付けたくないのでしょう……」
確かに継人はそうも言っていた。だけどどう答えて良いのかわからずに千代が黙っていると、トミはそのまま言葉を続ける。
「旦那様は、千代様のしたいようにして欲しいと思っていらっしゃるのではないでしょうか。何分口下手な方ですので、少々言い方が悪くなってしまっているようですが……」
「私の……したい、ように……?」
継人はもしかすると、千代がこの家を出たがっていると考えているのかも知れない。確かに初日は動揺してしまって態度が良くなかったように思う。それに千代の事情を知っているのなら、望んで来たわけじゃないことを継人は知っているハズだ。
千代は継人に、気を遣わせてしまっているのかも知れない。
「……私、旦那様とちゃんと話したいです。考えてみたら、私ここに来てからちゃんとお話出来ていない気がするので……」
千代がそう言うと、トミは咲くように笑った。
「でしたら、そのおにぎりを旦那様の元へ届けていただけませんか? お仕事そのものを手伝うことが出来なくても、そのくらいのことは許してくださるのではないでしょうか」
「……行ってみます! ありがとうございます、トミさん」
そう言われて、持ってきたおにぎりの数が多かった理由に千代は気づく。元々トミはこうするつもりでおにぎりを用意してくれたのだ。
トミの気遣いが嬉しくて、千代は笑みをこぼす。それを見たトミも、満足そうに微笑んで見せた。
***
早速千代は診療所の場所をトミから聞き、おにぎりをもって継人の診療所へ向かった。離れにあるとは聞いていたが、屋敷からの距離はそれ程遠くない。少し歩けばすぐに小さな建物に辿り着く。
扉の前で少し躊躇してしまったが、流石におにぎりを持ってきただけで怒られはしないだろう。それに、継人とちゃんと話をしなければいけない以上、どこかで一度必ず勇気を出さなければならないのだ。
診療所の作りは洋風で下駄箱がなく、千代は履物を脱がずに中へ入る。入ってすぐに狭い待合室があり、そのまま真っすぐ進むとすぐ左手に診察室と書かれたドアがあった。
「あの、旦那様?」
ドアをノックしてから声をかけたが、返事はない。不思議に思って何度かノックしても、継人からの返事はなかった。
入れ違ってしまったのか、と千代がドアへ背を向けると、ふいにドアの向こうからうめき声が聞こえてくる。不気味に思って一瞬怯えたが、今診療所には患者が一人泊まっていると継人が言っていたことを思い出す。
「だ、大丈夫ですか……?」
思わずドアの向こうへそう声をかけたが、聞こえてくるのはうめき声だけだ。少し逡巡したものの、千代は心配になってドアを開けて中へと入っていく。
中に入ってすぐに目についたのは継人がいつも使っているのであろうデスクだ。そしてその反対側はカーテンで仕切られており、その中からうめき声が聞こえてくるのだ。
「あの、大丈夫ですか? 何か出来ることありますか?」
千代の声に、カーテンの向こうのうめき声は更に強くなる。その声があまりにも苦しそうで、千代は胸を痛めてしまう。
この苦しそうな患者に、千代が中途半端に何かして良い方向へ向かうとはあまり思えない。とにかく何とかしてやりたい気持ちをどうにか抑え、ひとまず皿をデスクの上に置いて、すぐに継人へ報告しようと背を向けた――その時だった。
「えっ……?」
カーテンが勢い良く開かれ、中から一人の女性が千代の方へうつ伏せに倒れ込む。そして千代の足首を掴むと、女性はゆっくりと顔を上げる。
「……っ!?」
彼女の顔を見た瞬間、千代は声を上げそうになったのを何とかこらえた。いや、正確には恐怖で声も出なかった、と言った方が正しいのかも知れない。
彼女の顔は、醜く焼けただれていた。
最早元の顔がどういう顔だったのかもわからない。ぐちゃぐちゃに焼けただれた顔が、苦しそうに千代のことを見つめている。
飲み込んだ悲鳴が這い上がる。
全身を怖気が走り回り、抑え込むのに必死で身体を動かせない。
しかしどうにか飲み込んだ悲鳴は、結局数秒後に吐き出すことになる。
「いやあああああああああっ!」
彼女の顔の中から煙のように湧き出した黒い靄が、人の形を成す。そしてそれはそっと千代の頬に両手で触れた。
そしてその瞬間、耐え難い激痛が千代の顔中をのたうち回る。顔に超好熱の鉄板を押し付けられたかのような感覚に襲われながら、千代は悲鳴を上げてその場でもがいた。
苦痛に呻く千代の脳裏に、ぼんやりと覚えのない記憶が蘇る。
大柄な男性に痛めつけられ、やがて火の灯った行灯に顔を強引に突っ込まれていた。
「やめ、て……お父さん……」
千代の実の父も義父も、決してそんなことはしていない。けれども、千代の口から思わず出たのはそんな言葉だった。
千代ではない誰かの意識や記憶が、ずるりと千代の中に溶けていった。
***
入れ違いで診療所から屋敷へ戻った継人が、トミから話を聞いて慌てて診療所に戻る頃には既に遅かった。患者はベッドから抜け出して倒れており、千代は既にその場にはいない。
デスクの上に置かれたおにぎりをチラリと見てから、継人は倒れている患者を抱き起こす。
「……黒鵜……さん……」
患者の女性は、抱き起こすとすぐに目を覚ます。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、むしろ楽になったくらいで……」
継人は彼女の頬へ恐る恐る触れて、一瞬だけ顔をしかめた。
「あ、あの……」
「恐らく問題はないでしょう……。もう少し休んでいてください」
継人はそう言って彼女をベッドで休むように促すと、すぐに背を向けて診療所を後にする。最初は早歩きだったが、診療所を数歩離れた途端継人は全速力で屋敷へ向かって駆け出した。
***
逃げるように診療所を出た後、千代はずっと部屋の中でうずくまっていた。
自分の身に起きたことが全く理解出来ず、ただただ恐怖と衝撃で泣き続けることしか出来ない。
一度うずくまってから、千代は一度も顔を上げていない。少しでも顔を上げれば、鏡面台が目に入ってしまう。
「うっ……うぅ……」
顔が焼けるように熱い。うずくまったままでいるのは、外気に触れてひりつく痛みに耐えられないからでもあった。
そのまま泣き続けて数分後、とんでもない勢いで襖が開かれる。音に驚いて顔を上げそうになったが、千代はグッとこらえてうずくまり続ける。
「……絶対に近づかないでくれと……言ったのに……君は何故……」
ひどく辛そうな声音が、千代の元へ落ちてくる。声の主が継人だと気づいて、千代は身体を強張らせた。
「ごめんなさいっ……ごめん、なさい……私……」
嗚咽混じりに繰り返す千代に、継人が歩み寄る。足音に気づいた千代は、震えながら頭を振った。
「こ、来ないでくださいっ……!」
「……そうは、いかない。僕の責任だ」
継人がそのまま歩を進めると、千代はうずくまった姿勢のまま後じさる。それでも継人は早足で歩み寄り、千代の目の前で屈む。
「……嫌なのはわかるけど、顔を上げて欲しい」
「い、嫌です……絶対に……!」
こんな顔、見せられない。そう言おうとした千代だったが、既に継人は強引に千代の身体を起こそうとしていた。精一杯抵抗する千代だったが、男の腕力にはかなわない。抱き上げられるような形で、千代はその顔を顕にした。
「ッ……!」
千代の顔を見た瞬間、継人は今にも泣き出しそうな表情を見せる。
「……見ないで……ください……」
千代の顔は、醜く焼け爛れていた。
少し釣り気味だった大きな瞳も、色白の柔肌も、整っていた千代の顔が全て焼け爛れている。最早、顔だけでは彼女が千代だと判別することは難しい程だった。
「私……この家を……出ます……」
継人から目を背けながら、千代は震える声で言葉を紡ぐ。ひりひりとした痛みが顔中にまとわりついて、自分が今どんな顔になっているのかを思い知らせてくる。
もう心の中はぐちゃぐちゃで、何をどう考えれば良いのかもわからない。ただとにかく、今の自分の顔を継人にだけは見られたくなかった。
「……こんな顔で……あなたに嫁入りなんて……出来ませんから……」
気持ちは自暴自棄になるばかりで、いっそのこともう死んでしまいたかった。
慕っていた義父は亡くなり、継人の元に来ても肝心の継人からは必要とされていない。その上こんな姿に成り果ててしまったのなら、もう自分には何一つ価値がないような気さえしてくる。
「……ごめんなさい……迷惑ばかりかけてしまって……。でも、良いですよね……? 旦那様は私に……帰って欲しかったのでしょう……?」
自分でそう口にして、千代は嫌悪感を抱く。こんな状況で、こんな風に卑屈なことを言って、継人にどうして欲しいのだろう。これではまるで「そんなことはない、この家にいてくれ」だなんて都合の良い言葉を求めているかのようだ。
そういう思いが心のどこかにあって、それがわかっているからこそ、余計に厭になる。もっと必要として欲しかった。忙しいから手伝って欲しいだとか、その程度でも構わなかった。求められればきっと身体だって許したし、ほんの少しで良いから何かを求めて欲しかった。
両親が死んで、義父が死んで、天海家では疎まれて、もうどこにも居場所がなくて。
千代は、継人に必要として欲しかった。その傍に、ほんの少しで良いからスペースを作って、座らせて欲しかった。きっとそれは、継人でなくても良かったのかも知れない。
「……少しだけ待ってくれ」
しかし継人は、千代の言葉にはきちんと答えない。千代をそっとその場に寝かせると、すぐに千代の部屋を後にする。
それから数秒後、バタバタと駆けてくる音がして、部屋に継人が戻ってくる。そして継人が持ってきたものを見て、千代は絶句した。
「えっ……?」
それは、千代が継人の部屋で見た日本刀だった。鞘には古びた御札が何枚か貼り付けられており、異様な雰囲気を醸し出している。
ああそうか、一思いに殺してくれるのか。そんなことを考えて、千代は息をつく。
これ以上もう、生きていてもどうしようもない。どこにも居られないまま、この顔で人に怖がられて生きていくくらいなら死んでしまった方が楽だろう。
きっとこれが、継人なりの優しさなのだ。
「……自分で、出来ます」
しかしだからと言って継人の手を煩わせるわけにはいかない。そう思って千代は刀を受け取ろうと手を差し出したが、継人はかぶりを振る。
「何を言っている……? 僕じゃないと出来ない」
夫としてのけじめだとでも言うのだろうか。それでも、死ぬ時くらいは自分で決めたい。千代は今まで色んなものに翻弄されて、押し流されて生きて来た。最期くらいは、自分で選んだと思いたかった。
「……行くぞ。少し痛いけど、我慢していてくれ」
「…………はい」
わずかな逡巡の後、千代は頷く。それを確認すると、継人はゆっくりと歩み寄り始めた。
これから死ぬんだな、と意識すると、少しずつ怖くなる。
何もかもがここで終わって、消えてしまう。あり得たかも知れないいくつもの未来も、何一つ選べないまま終わる。
そう考えるとどんどん涙が溢れてきて止まらない。頬から這い出した膿のようなものと混じって、足元にこぼれ落ちた。
「ジッとしていてくれ」
刀を抜かないまま、継人はそう言う。千代は小さく頷いてから、ギュッと力強く目を閉じた。
「……お願い、します……」
他にもっと何か言えれば良かった、と口にしてから千代は後悔する。しかしもう何も、残すべき言葉なんてないようにも思えた。
間近に迫った終わりに身を委ねてしまいたくて、千代は眠るような気持ちで意識を手放そうとする……が、その意識は力強い手に引き戻された。
「……え?」
もう刀で刺すなり斬るなりされる寸前だと思っていたが、千代が感じたのは顔を右手で掴まれる感触だった。そしてそれに困惑している暇もなく、全身が何かから引っ剥がされるような激痛に襲われる。
「……っ……!?」
その激痛は耐え難く、千代はすぐに悲鳴を上げ始める。目ももう、閉じているのか開いているのかもよくわからない。
それが数秒続き、やがて全ての痛みが消える。それと同時に、ふわりとした浮遊感が伴う。恐る恐る目を開けると、自分の足元に倒れた自分が見えた。
「え……っ……え!?」
困惑して辺りを見回す千代だったが、その視界は突如黒いモヤに覆われる。そして次に千代が見たのは、自分の眼前をすれすれで通り抜けていく刀の刀身だった。
わけがわからず困惑する千代の視界が晴れ、黒いモヤと対峙する継人の姿が見えてくる。継人は例の刀を構えて、目の前の黒いモヤをきつく睨みつけていた。
「……君にはもう少し、同情してあげたかった……」
口惜しそうにそう呟いてから、継人は刀を握りしめる。
「でも――」
そして次の瞬間には間合いを詰め、継人は黒いモヤを切り裂いていた。
「僕の嫁に手を出すなら、話は別なんだ」
千代は、まるで心臓が跳ね上がるような思いだった。
理解出来ない状況で、自分が今生きているのか死んでいるのかもわからない。千代の心臓は、もう止まっているかも知れない心臓だ。そんな心臓が跳ね上がったような気がするくらいの衝撃が、継人の言葉にはあったのだ。
それから段々気恥ずかしくなってきて、千代は継人から目を背けてしまう。
「……ごめん、無理矢理幽体を身体から剥がすのは痛かったろう? 今元に戻すよ」
そんな千代の思いを知ってか知らずか、継人は何事か唱え始める。すると千代の意識は一瞬だけ遠のいて――
「……良かった……もう、大丈夫だ……」
継人の穏やかな微笑みの前で、目が覚めた。
そっと触れた継人の手が、千代の柔肌をなでる。丁寧に、壊してしまわないように、継人は千代の頬に触れ続ける。両手で触れて、千代の目線を固定してしまう。目の前の継人が何だか泣きそうに見えて、千代は理由のわからない小さな罪悪感を持ってしまった。
ゆっくりと、継人と千代の額が重なる。そのまま数秒、千代は継人に身を委ねた。
***
「ゆーれい……ですか?」
自室で継人と向かい合って座り、千代は間の抜けた声で問い返す。すると、継人は深く頷いて見せた。
「……ああ。信じられないかも知れないけど、僕の患者は霊に憑かれている人なんだ。僕は霊に憑かれたことで起きる症状をまとめて霊症と呼んでいるよ」
あれからしばらくしてから、お互い落ち着いてきただろう、という頃合いで千代は事の真相を問いただすことにした。結果的に千代の霊症……というものは治り、一件落着したかのようだったが千代にはわからないことの方が多い。
継人が言うには、彼は医者を名乗ってはいるが正確には医者ではない。霊症を発症した人の身体から幽霊を引き離し、除霊するのが彼の仕事なのだ。
幽体を相手に、取り憑いた手術を外科的に取り除く。
「僕は、霊能外科医を名乗っている」
聞き慣れない言葉ばかりが続いたが、先程までの事態のせいで半ば強引に飲み込むはめになった。
「……じゃあお部屋にあった不気味なものも……」
「一応、仕事の道具だよ。というか……入ったのかい……?」
「ご、ごめんなさい……。トミさんが、旦那様が屋敷に戻られていると聞いて……その、少し話がしたくて……」
「そうか……。何だか妙に怖がっていると思ったら、そういうことだったのか……」
継人にそう言われて、千代は少しムッとする。別に部屋の中が不気味だったから継人のことが怖かったわけではないのだ。
落ち着いて考え直してみると、千代は少しだけ腹が立ってくる。そっけない態度を取って、いつでも出て行って良いだなんて言っておいて、今度は”僕の嫁”である。千代からすればわけがわからない。
「……旦那様が……なんだか冷たかったから……」
思わず、千代はぼそりと呟くように言ってしまう。自分の言ったことに気づいてハッと口元を袖で隠して継人の様子を見ると、継人は目を丸くしていた。
「えぇっと……。ああ、そうか……。そうかも知れない」
「ああいや、あの、そういうわけじゃなくて、私……」
「……いいんだ、ごめん。多分、僕の方に非がある」
少ししゅんとした様子でうなだれながら、継人はそう言って頭を下げる。
「わ、私……この家にはあまり必要とされて……ないのかなって……思っちゃって……」
躊躇う気持ちもあったが、この機を逃すわけにはいかない。いつまでもわだかまりを抱えたまま生活するのは嫌だったし、何やら誤解があるなら解いてしまいたい。千代はこのまま、思っていたことをきちんと継人へ伝えることに決めた。
「トミさんは良くしてくれましたけど……旦那様は、あまりお話してくださらないし……手伝うことも、何もないって……」
「……うん、そう言ったね……ごめん」
「それに……いつでも出て行って良いって……。必要ないから、どこかに行ってくれって思われてるのかと……思っていました……」
「……そう、か……」
途切れ途切れになりながら話す千代の言葉を、継人はうなずきながらしっかりと聞く。そして聞き終えると、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……でも君は、龍之介のことが好きなんじゃないのかい?」
「…………え?」
思いもよらない継人の言葉に、千代は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「私が……龍之介さんを……?」
「……違うのかい……!? 僕はトミからそのように聞いていたんだけど……!?」
「え、なんで――――」
と、言いかけて、千代は昨日のことを思い出す。
「あ、ああ……あの時の……」
千代は継人と初めて会った日、驚いて龍之介に廊下で泣きついてしまっていたのだ。その時はそれどころじゃなくて気に留めていなかったが、あの現場をトミが見れば誤解するのも無理はない。
本当は龍之介のことが好きで、嫁ぐのを嫌がっている。そう見えても仕方がないだろう。だから継人は、いつでも出て行って良いと言ったのだ。龍之介を愛しているなら、駆け落ちしても構わない、という意味だったのだろう。こう考えれば、縛りたくない、という話も納得出来る。
「あ、あれは……その、違うんです……。龍之介さんのことが好きとかじゃなくて……私、思ったより旦那様と歳が離れていて……びっくりしちゃって……」
「…………そうか……」
龍之介については誤解だと伝えられたものの、継人はどこか気を落としている。
「……おじさんでごめんね……。確かに二十五は、君からしたらおじさんかも知れない……」
「二十五!?」
驚きを隠すことが出来ず、千代は思わず声を上げた。
「いや、うん……。よく間違えられるんだよ……老け顔だから、四十前後に見えるみたいなんだけど……僕はまだ、二十五だよ……。父が思ったより早く亡くなってしまったから、この家は予想より早く僕のものになってしまったんだ……」
「あ、その……ごめんなさい……」
「……良いんだ……おじさんなんだよ僕は……継人おじさんなんだ……」
どうやら気にしていたようで、継人はしゅんと肩を落とす。慌てて取り繕おうとしたが、何とフォローすれば良いのかわからず、千代はひとまず話を戻すことにした。
「とにかく私……旦那様にはあまり好かれていないのかと思って……」
「そ、そんなことは……ないんだ……。ごめん、でも確かに……そっけなかったね……」
申し訳なさそうにそう言ってから、継人は頬を赤らめて千代から顔をそらす。
その様子に千代が首を傾げていると、継人は少したどたどしい様子で喋り始めた。
「き、緊張……してたんだ……」
「……緊、張?」
よくわからずに問い返すと、継人は目をそらしたままうなずく。
「写真を……見た時から……緊張してたんだ……。その、とても……綺麗、だったから……」
「……へ?」
間の抜けた声を上げてから、恥ずかしくなって思わず千代も目をそらす。そのまま数秒沈黙が続いたが、やがて継人が口を開いた。
「と、年も……少し離れているし……どう接すれば良いのか、わからなかった……。そんな折に、龍之介のことが好きなんじゃないかって知って……。余計どうすれば良いのか……わからなかったんだ……」
「そ、そう……なん、ですか……」
嬉しいやら恥ずかしいやらで、何と答えれば良いのかわからない。思わずそっけない言葉を返してしまい、千代は継人がどうしてそっけなかったのか少しわかったような気になってしまう。
しかしこれで、トミの言う通り、継人は本当に千代が来るのを楽しみにしてくれていたことがわかる。今まで千代が思いつめていたことは全部思い違いで、感情が全部空回っていたのかと思うと恥ずかしいし申し訳なかった。
「あの……霊は、君を見てすぐに取り憑いただろう……?」
「え、ああ……はい、多分」
「彼女は生前、何らかの形で顔が焼け爛れてしまったみたいなんだ……。それで死後、霊化して綺麗な女性に取り憑いて、苦しめていたんだ……」
継人の話を聞いて、千代はもうおぼろげな記憶を思い返す。あの霊が千代に取り憑いた時、千代は明かりのついた行灯に顔を突っ込まれる彼女の記憶を自分のもののように見ていたのだ。
「だから……僕は、君に必ず取り憑くと思ったんだ……」
「そ、それであんな言い方になったんですね……」
「……うん、ごめん」
継人が頑なに千代を手伝わせたがらなかったのは、あの霊が必ず千代に取り憑くと確信していたからだったのだ。
更に話を聞くと、どうもあの時の電話は患者の父親とのものだったらしい。てっきり千代は身代金でも要求しているのではないかと疑っていたが、向こうの父親が継人の請求する額を聞いて支払いを渋っていたようなのだ。
「……多分このままだと支払ってくれないだろうから、強く言ったんだけどね……ダメだったよ。仕方がないから、とりあえず除霊だけはすませて様子を見ようと思ってたんだけど……」
一通り話を聞き終えて、千代は全身から力が抜けていくような思いになる。つい机の上に突っ伏してしまいそうになったが、そんなはしたない姿は見せられないので無理に背筋を伸ばして見せた。
「……ご、ごめんなさい……私、旦那様のことすごく誤解してて……」
「ああ、いや、良いんだ……僕こそ……ごめん……」
そうやってお互いに謝り合っている内に、何だかおかしく思えて千代は吹き出す。すると、継人も釣られて笑みをこぼした。
「……うん、じゃあ、ちゃんと僕から……言わないとね……”千代”、これから……よろしく頼む」
少し恥ずかしそうに、それでも真っ直ぐに千代を見つめて継人は言う。また心臓が跳ねた気がして、千代はつい胸元を抑えた。
「…………はい、……」
旦那様、と言いかけて、千代は一度口をつぐむ。折角名前で読んでくれた”夫”に、いつまでも旦那様というのはよそよそしい。トミや他の使用人と同じ呼び方をするのも何だか嫌だった。
「不束者ですが……こちらこそよろしくお願いします……”継人さん”」
名前を口にして、慣れない口当たりに千代は思わず唇を結ぶ。今の変な表情を見られたかな、と継人の顔を見ると、彼は彼でなんとも言えない照れくさそうな顔で千代を見ていた。
天海千代改め黒鵜千代十五歳。値段は三百円で、恋愛は……きっとこれから、この人と少しずつ。