第一章 岸は遠く -1-
――自分が命を落とした瞬間は、今でも克明に覚えている。
どこか遠くで流れている、ハウリングしていて聞き取れないウィンターソング。頭上からはキリキリとワイヤーの擦れるような音が降り、背後からは安っぽい電子的な信号音が周期的に続く。
そんな賑わいを見せる雪山で、ギギ、ギチ、と、ケーブルを伝ってゴンドラにまで重い音が響いてきた、その次の瞬間。
突然の浮遊感と共に、彼の視界から形が失われた。目まぐるしく変わる景色の中で、ただその色だけが網膜に焼き付いた。
白。――それは放り投げられて真下を向いた雪の色。
青。――それはくるくる回りながら見上げた空の色。
黒。――それは折れたリフトの支柱が眼前に迫る色。
最期に一瞬。
赤い色を見た気がした。
*
それが上崎結城の生前に見た最後の景色であり、――そして、いままさに走馬灯のように脳裏を駆け巡る記憶でもあった。
眼前。
覆い被さるように立ち塞がるのは、炎の毛皮をまとった異形の獣だった。
比喩でも何でもない。熊にも似た丸い頭に尖った口を持ったその獣の体表は、紛れもなく燃え盛る炎と一体化していて、そこに境界など存在しない。およそ現実離れした化け物だ。
「……まだ消えたくない、けど」
ぼそりと口から漏れた本音に、上崎は指先の震えを自覚しながら苦笑を浮かべる。それでもいま目の前まで迫った命の危機に、心臓ははち切れそうなほどの鼓動で悲鳴を上げている。
炎をまとった超常の獣を見上げる上崎は――否、この天界に住まう誰しもが、理解していた。
魔獣/ビースト。
死後の魂が現世と同じように暮らすこの世界で、人の負の感情が集積した結果生まれたその獣だけが人間の天敵として君臨している。
魂の寿命が迎えるか、あるいは『核』と呼ばれる器官が破壊されない限り消滅することのない天界で、この悪食の獣は人間の核ごと魂を貪り喰らう。
まさしく絶体絶命。この窮地に立たされて、まともな人間に出来ることなど何もない。――しかし走馬灯のように死の恐怖を思い出しながら、なお逃げ出すことなく立ち尽くしているのは、一つ。
「……だ、大丈夫、ですからね……っ」
上崎結城の背後。そこには、幼い子供を抱きかかえた少女がいた。まるで亀のように身を丸めながら、抱いたその小さな子供を自分の身体全てを使ってでも守るみたいに。
魔獣のひと薙ぎで自分も諸共に消えてしまうと知りながら、それでも小さな魂を守るために、自身の消滅の恐怖すら押し殺している。
この天界は死後の世界。そこで魂が消えてしまえばその存在は完全に消滅し、先には何もない虚無だけが待つ。故にこんな繁華街の中心に現れた魔獣に対し、誰もが逃げ惑い、危険に晒された少女を助けようとはしないのだ。身代わりになることもできず、ただ犠牲が増えるだけだと理解しているから。
けれど、この少女は違った。
突如魔獣が現れ大勢が悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げる中で、彼女だけはその流れに逆らって幼い子供を守るために必死だった。――そんな彼女の健気な勇気が、報われなければ嘘だろう。
もしもここで彼女たちを見捨てるのであれば、上崎結城はそもそも魔術師を目指しはしなかった。
だから、上崎結城もまた魔獣を前に立ち塞がろうとしているのだ。
「……あぁ。安心してくれ」
かばうように左腕を下がり気味に開き、震える指先をごまかすようにその拳を固く握る。
自身を落ち着けるように深く息を吸い、上崎は背中越しに笑みを向ける。
「俺が守ってみせるから」
その強がりを真実に変えるために。
瞬間、上崎と火炎を纏う熊を囲むように薄藍色の半透明の壁が生み出される。
編纂結界。魔術師が魔獣を狩るために生み出す特殊な結界だ。
可視光以外の全てを内外で分断し、そしてその内部でのみ魔術師は己の魂を変化させ、銃火器すら通用しない魔獣を屠る唯一の武器と成して戦える。
その空間を生み出した上崎は、己の右手に意識を集中する。そこから湧き出るように輝く粒子が漂い、撚り合わせるように一つの形を為していく。
闇より深い黒色。黒曜石のような刃を持つ片刃の直剣。それが上崎自身の魂の一部を元に生み出した彼の魔術――オルタアーツだ。
一振りの黒剣を手に、上崎結城は眼前の魔獣と対峙する。
「……行くぞ」
地面を蹴る。二メートルを超す巨躯を前に、跳び上がった上崎の一文字の一閃が、熊の魔獣の目を切り裂いた。
魔獣が苦悶の雄叫びを上げ、その右腕を無闇に振り回す。ただそれだけでも重機が激突するような威力だ。どうにか黒い剣の腹で受け止めた上崎だが、その体は呆気なく砲弾のように撃ち放たれる。――しかし、空中でくるりと半回転し体勢を整えた上崎は、着地と同時に地面を蹴って魔獣へ立ち向かう。
距離を詰めようとする上崎に対し、魔獣はその喉から咆哮と共に火炎を噴射した。身を守る術がその剣ひとつしかない上崎は急制動をかけ、アスファルトさえ一瞬でドロドロに溶かすその一撃を回避する。
白煙を上げる地面を睨むように見据え、上崎は汗で滑りそうになる柄を固く握り締める。
「さすがに喰らったら一巻の終わりだな……っ」
思わずこぼれる弱音に対し、言語を理解しているわけでもないだろう熊は、その本能の赴くまま顎を開いてさらに炎弾を撃ち放ち続けた。
オルタアーツの一つ、身体強化術式によりその全てを難なく回避する上崎であったが、その周囲は既に溶岩のように変容しはじめていた。赫赫と熱せられた地面からの照り返しが、じりじりと瞼を貫いて眼球を焼く。
触れれば焦げるどころか、骨すら残さず溶かし尽くす地獄の業火。一歩出遅れた時点で致命傷という極限の中で、上崎は懸命に反撃の隙をうかがいながら疾駆する。
「せめて入学したあとなら、まともに戦えたかもしれないんだけど……っ」
炎の嵐を掻い潜りながら、どうにか先ほどの少女たちに魔獣の矛先が向かないよう立ち回る上崎が独りごちる。
そもそも人体を超える巨躯を持つカテゴリー3の魔獣の討伐など、プロであっても複数人で挑むのが通常だ。それをいくらオルタアーツが使えるからと言っても、魔術師どころかその見習いにすらなれていない上崎がどうにか出来ると意気込む方が間違っている。
上崎結城はまだ中学三年生。来月からは魔術師を育成する専門学校に入学するが、所詮はそれだけだ。今まで入学前でもオルタアーツに触れる機会が人より多かったというだけで、扱えるのはこの身体強化術式と、ただ黒い剣を生成する武具生成術式だけ。魔術の名に相応しい、炎や水を自在に使役するような特性を武器に与える術は、まだ身につけられていない。
「――っ」
とうとう獣の本能に動きを読まれ、目の前に迫った炎弾。それを黒い剣で打ち払うように切り捨てどうにか防いでみせる。
右方で爆ぜるようにアスファルトが溶ける中で、足を止めた上崎は深く息を吸う。
「――……ふぅ」
救援を待つだけではじり貧だ。元より剣一本で特異な能力もない以上、防戦すら選択肢に挙げられない。その上、逃げ惑っていた溶岩の砲丸にも追いつかれている始末だ。
熊の魔獣は上崎の動きに適応しているし、上崎の脚も次第に遅くなっている。これから先は体力と集中が削られれば削られるほど、間違いなく状況が悪化する。
だから。
「見せてやるよ、カテゴリー3」
低く、低く、低く。
腰を落とし、剣は脇に構え、ただ一足に身体強化術式と集中の全てを注ぎ込む。
――答えは何よりも簡潔で単純だ。
防戦も持久戦も選べないのであれば。
ただの一刀で切り伏せてしまえばいい。
元より上崎のオルタアーツは、その一点のみに特化しているのだから。
「これが、最高の魔術師の一振りだ」
瞬間。
上崎結城の姿が消える。
遅れて撃ち放たれた魔獣の炎弾は、脚力一つで大きく抉られたアスファルトを溶かすだけだ。周囲の誰も、対峙する魔獣さえ、その姿の残像さえ捉えられた者はいない。
ただ、ごとり、と。
鋭い牙をたたえた丸い頭が、滑るように地面へ落ちる。ゆらゆらと毛皮を漂う炎が、吹き出た青い血液をかすかに焼いていく。
首を失い立ち尽くす体躯の背後に、漆黒の剣を振り抜いて上崎結城は立っていた。
足下に転がる魔獣の頭蓋を、振り返り様に刺し貫く。
かがり火のように喉奥からかすかに火の粉を散らしながら、核を貫かれた魔獣は取り残された巨躯諸共に、黒い灰となって散り散りに消滅していった。
それは、上崎結城がたった一人で魔獣に勝利した証左だ。
「まぁ『未来の』が付くんだけどな」
きらきらと降り注ぐ日の光は、どこか上崎をたたえるようで。
無事に助かった二人へ向けて、上崎は少年らしい無邪気な笑みを浮かべるのだった。




