第四章 憧れ -8-
――そして。
レーネ・リーゼフェルトとオリヴェル・リーゼフェルトは、自らの矜恃を否定して戦場へと降り立った。
その顔に憂いはない。
それはいっそ、眩く輝くような笑みと共に。
オリヴェルたちの横やりによって鎖が緩んだ隙を見て、上崎はその呪縛から逃れ再度オルタアーツを発動していた。漆黒の直剣となった上崎を、六花が抱え込むように抱き留める。
「大事なものは、掴んだまま離してはいけないよ」
「はい、絶対に離しません……っ」
オリヴェルの言葉に、六花は力強く応える。先ほどまで潤んでいた瞳に涙はもうない。ただ二度と離すまいという固い決意だけがある。
『……いや、戦闘が終わったら離して?』
「絶対に嫌です」
即答があった。ふんすと鼻息を荒くするいつもの彼女に、上崎は思わず呆れたような笑みをこぼしながら、そんな日常を失わずに済んだことに安堵する。――上崎の拙速な判断一つに、彼女がどれほど心を痛めていたか。もしもレーネたちが間に合っていなければ、上崎は六花の心に消えないほどの深い傷を残していたことだろう。
だから、上崎はまた素直に感謝を口にする。
『……助かったよ、レーネ』
「うん、助けたからね」
そんな風にレーネは笑う。ほんの少し前まであれほど追い詰められていた少女が、だ。そこにはもう弱音など欠片ほども残さず消え失せていた。彼女の底なしの明るさと比類なき強さだけが、そこにはある。
「けれど、オリヴェルさん。私たちに加勢してよかったんですか?」
「いいか悪いかではないよ。たった一人の妹にせがまれたんだからね。それに、君たちがこうして戦ってしまっている以上、手を貸した方が被害は少ないと判断しただけだよ」
「ノル、それ照れ隠し?」
「レーネ。あまり調子に乗らないように。――左腕だよ」
にやにやと意地悪げな笑みを浮かべるレーネをいさめながら、オリヴェルはそう言った。
「髪や鎖をはじめとしてデスパレートの容貌のほとんどはアリサのまま。けれど左腕だけが明らかにアリサの面影をなくした魔獣のそれだ。おそらくはそこに魔獣の核がある。――だから左腕を切り落とす。それが今回のゴールだ」
『……はい』
「心配は要らないよ、ダーリン。あたしのフィジカルエンチャントで、アリサちゃんの怪我は絶対に治す。痛い思いなんて一瞬だってさせないんだから」
力強く宣言するレーネに、上崎はふつふつと胸の奥から湧き上がってくるものを感じていた。
状況が好転したわけではない。初めにアリサがデスパレートへと変貌したときと変わらず、こちらの戦力は学生四人だけ。カテゴリー4、それもその中位に位置するであろう魔獣を相手にするにはあまりにも心許ない。本来の討伐であれば前衛だけでもこの一・五倍、後方支援にだって最低でも一〇名の魔術師は必要だ。
それでも。
どれほどの劣勢であろうとも、いまだけはどんな絶望にも立ち向かえる気がした。
「分かっているね。――ここで敗北すれば現世は崩壊する。失敗は許されないよ」
たった一つの道だ。些末なミス一つで数多の人間が危険にさらされる。細い細い、綱を渡るような極限。自分の命以上のものを背負う重みは途方もなく、その重圧は逃れることを許さぬように上崎たちの肩へ重くのしかかる。
だが、それでもなお上崎の笑みは絶えない。
『アリサの命が懸かった時点で、許される失敗なんか一つだってあるかよ』
そんな覚悟は、あまりにも今更だと上崎は笑い飛ばす。ここで必ず冬城アリサを救う。その決意に、四人の少年少女はその眼光を燃やす。
「なんだか楽しそうで結構だけれど」
そんな四人に手を出すこともなく、デスパレートはただ呆れたようにため息を吐く。――それはいっそ嘲りにも似た余裕故に。
「感覚で分かるわ。私が現世へ渡れなかったのは、そこのキャラメル色の髪の子の能力だったのね」
「……だったら?」
「あなたを消せば現世で好き放題できるわけでしょう? もうそろそろ体も馴染んできた頃合いだし。――現世の魂の前のオードブルとして、あなたたちの魂をいただこうかしら」
桃色の唇を、その長い舌が這うように舐める。
瞬間。
デスパレートとの間にあった距離が消えた。
臨戦体勢だった上崎でさえその動きが何も見えないほど、もはや常軌を逸した速さだった。並の魔術師であれば、その初撃をもって倒れ伏していただろう。
だが、オリヴェルの構えた純白の長槍と六花の握った漆黒の直剣は、デスパレートの振り下ろした爪を互いに交差するようにぴたりと受け止めていた。
響くのは重い金属音だけ。途方もない衝撃を堰き止めた二人の体は一ミリたりとも下がらない。それはどこかで、この場の誰しもの思いを体現していたかのようでもあった。
「そう簡単には食べられてあげないよ?」
言葉と同時――いや、あるいはそれさえ置き去りにするように。
天から落ちた雷霆が、デスパレートの体を射貫いていた。――それは上空で舞うレーネ・リーゼフェルトの一撃だ。下手な魔獣であればそれだけで炭になるような威力を前に、さしものデスパレートも即座には動き出せない。
そして、その一瞬があれば十分だった。
「攻守交代ですね」
流麗な剣舞を思わせるほどの、美しい連撃の嵐。
漆黒と純白の双刃が幾重にも重なるようにデスパレートを追い立てる。
痺れを無視して防御に移るデスパレートだが動きは鈍い。その隙を突くように、六花とオリヴェルの剣閃は幾度となくデスパレートの身を切り裂き続けていく。
どれほど固い表皮を持っていても、数で攻め立てればいずれは限界が来る。――まして、デスパレートを魔獣たらしめているのはその左腕だけだ。鎖の他にはその腕以外の武器を持たないデスパレートは、自身の弱点だと理解していてもそれを庇うような立ち回りが出来ない。
六花と上崎の斬撃はその左腕で、オリヴェルの槍撃は鎖で防ぐデスパレートだが、手数はそこで尽きる。剣戟の隙間を縫うようなレーネの紫電を躱す余裕などそこにはない。
『……これなら』
――届く。
誰もがそう確信していた。それは、泥の中に差すひと筋の光のようだった。
一呼吸の間断さえなく、それどころか上崎たちの連携は一撃ごとにその速度を高め続けてさえいた。たとえデスパレートの表皮がどれほど硬く、どれほどの再生能力を有していたとしても、既に上崎たちの回転数がそれを凌駕している。その閾値を超えた以上、勝敗はすでに決したも同然。
上崎たちには勝利条件が明白に存在する。その左腕一本を斬り飛ばせば、上崎たちはアリサを救えるのだ。その目の前に見えた勝利が、上崎たちをさらに後押しする。
――その希望を。
カテゴリー4は容赦なく打ち砕く。
がぎり、と。
異物を巻き込んだ歯車のような、そんな音がした。
「そういうの、要らないんだけど」
舌打ちと共にあったのは、先ほどまでの剣戟とは明らかに異質な金属音。――それは、デスパレートが二人がかりの剣閃をいとも容易く受け止めた音でもあった。
「っな……!?」
六花の顔が驚愕に染まる。まるで動画を停止するかのようにぴくりとも動かない。六花の身体強化術式の出力がじりじりと上がっていることを握られた手からも感じながら、それでもデスパレートはあくびをかみ殺すような気軽さで、その全てを否定する。
「目障りなのよ、いい加減にさぁ」
鎖がしなる。
振り抜かれたその一閃に六花の体は空中へと打ち上げられていた。どうにか上崎の剣の腹で防いではいたが、焼け石に水だ。そのままきりもみ状態で失墜する六花にはもはや為す術はなく、次いで放たれたなぎ払うような鎖の一撃を正面から食らってしまう。さながら砲弾のように水平に吹き飛ばされて、微塵も減衰することなくそのまま編纂結界の壁面にその背中が激突する。
「――ッ」
心配の声をかけるより先に、オリヴェル・リーゼフェルトは一歩を踏み込んだ。
間断ない連撃によるデスパレートの制圧は完全に破綻した。だからこそ、抜けた六花の穴を埋めるためにこの場で最も優れた魔術師である彼が、魔獣との距離を詰めることは至極当然だ。
その理路整然とした正解さえ、デスパレートは一笑に付す。
どっ、と。
矢弓のように放たれたデスパレートの鎖は、オリヴェル・リーゼフェルトが攻勢に出るよりなお早くその胸を穿っていた。
「……っが……っ!?」
いままさにオリヴェルの銀槍に収束していた数多の光の粒子が、その形を見失って霧散していく。ぼろぼろとその穂先さえ崩れ落ちて、紺碧に輝く宝玉の杖があらわになる。
ずるり、と黄金色の鎖がその胸から抜けた。
まるで体が遅れて気づいたかのように、彼の真っ白な制服の中央がゆっくりと滲むように、毒々しいほどの赤色へ染まっていく。
「ノ、ル……?」
「呆けるだなんてずいぶんと余裕なのね」
ただの薄っぺらな翼の羽ばたき一つ。それだけで、デスパレートは十メートル以上はあった空中を舞うレーネとの距離を瞬きより早く埋めていた。
禍々しく光を返す魔獣の爪と漆黒の長靴が激突し――そして、ガラスの砕けるような音が木霊する。
彼女の脚にまとう漆黒の鎧に無数の亀裂が走ると同時、レーネの体は真下のアスファルトへと叩きつけられて、瓦礫の山へと沈んでいく。
ここまで、たった十秒足らず。
たった数手の攻防で、三人の魔術師が地を舐めさせられていた。
「なぁに、魔術師ってみんなこんなものなの? つまらないわね」
どこまでも冷ややかな声があった。もはやそこには微塵の興味さえ残っていない。
「食前の運動にもならないわね。――まぁ、どうだっていいのだけれど」
じゃらりと黄金色の鎖が音を鳴らす。
「誰からいただこうかしら?」
獲物を見定めるように蠢く鎖の先端が鈍い煌めきを放つ。――そしてそれは、ぴたりとキャラメル色の髪をした少女の眼前で動きを止めた。
「そうね。あなたからにしましょうか」
桃色の唇が愉悦に歪む。それを前にしながら、それでもレーネ・リーゼフェルトは動けない。
「だめ、だ……っ」
とっさに自らのオルタアーツを解いて身を挺しようとした上崎が、そのまま膝から崩れ落ちる。全身を貫いた衝撃の残響が邪魔をして、もはや一歩を踏み出すことさえままならない。
ただ漫然と、大切な少女の魂が刈り取られる瞬間を眺めるしかない。――そんなことを何度繰り返すのだろうか。
「さようなら」
そんな別れの挨拶と同時。
デスパレートの胸元に、その金色の鎖は突き刺さっていた。
誰の理解も、そこにはない。
ただ、人のそれと何ら変わらない真っ赤な血だまりだけがある。ばちゃばちゃと夥しい量の鮮血をまき散らしながら、デスパレートの顔が苦悶に歪んでいた。




