第四章 憧れ -7-
それは、上崎たちがデスパレートと会敵する少し前のことだった。
上崎がオリヴェルに啖呵を切る間、レーネ・リーゼフェルトは廊下で何も出来ずにただそれを聞いていた。その姿を見る勇気さえ、彼女にはなかった。――本当は、彼女こそ何か言わなければいけなかったというのに。
レーネにとって冬城アリサは特別だった。確たる証拠はないとしても、それでもレーネはこの短い間にアリサのことを本当に妹のように思っていた。
その彼女が魔獣に墜ちて。
それをオリヴェルは討伐せよと言う。
そんなことを認めるわけにはいかない。交わした言葉は少なくとも、それでも、アリサがかけがえのない存在であることに変わりはないのだ。
そう思うのに。
レーネはついぞ、オリヴェルの言葉にただの一言も異を唱えることが出来なかった。
普段の奔放な振る舞いはただのメッキだ。剥がれてしまえば、その奥には賢しらで人の顔色ばかりをうかがう臆病が巣くっている。
そんな彼女だから、理解してしまっていたのだ。――アリサを救いたいと思う心と同じほどの大きさで、オリヴェルの掲げる義の正しさを。
その板挟みに何も言えずにいた。
どうするのが正解かが分からなかった。
――だから。
「あなたは、どうしたいですか?」
そっと優しい声がつむじに当たる。それでようやく、自分がうつむいて何も見えなくなっているのだと気づいた。
「えっと、先生……?」
「はい。上崎くんたちの担任の白浜です」
明らかに自分よりも幼く見える容姿の大人に戸惑うレーネに対し、彼女は何も気にした様子はなくにっこりと微笑みながらそっと近づいた。
「……先生なのに、ダーリンを行かせちゃってよかったんですか?」
「いいか悪いかで言えば、よくはないですね。正直、上崎くんをぶん殴る前に懲戒免職になっちゃう可能性もあるかも。――その程度で済む話ならむしろいいですけどね」
――最悪のケースは現世へデスパレートが渡ること。そんな事態になれば、一個人の懲戒の有無などさしたる問題ではない。その可能性を考慮しているからこその、白浜の発言だった。
「じゃあ、どうして」
「魔術師は規律に従って行動しなければならない。だから命令を無視することは絶対悪。その理屈は正しいと思います。規律違反を容認していては、救えるはずの魂さえ救えなくなる。――だけど、それは大人の理屈でしょう?」
そう言って、彼女は笑う。
「自分が正しいと思うことを考えなさいと、と私は生徒に指導しています。そして上崎くんはそれを自ら選んだ。ただそれだけですよ。たとえ魔術師としてその選択が間違っているとしても、教育者としてその選択は正しいと言ってあげたい」
その二律背反に悩みながら、それでも、うずくまってしまったレーネとは違って、彼女はその答えを導き出していた。それが、ただひたすらに眩しく思えた。
「……強いんですね」
「子供の選択の責任を取るのは大人の務めだと、そう思ってるだけです。――でも、このままじゃきっと何も解決しない。それはレーネさんも分かっているでしょう?」
彼女の言葉に、レーネは唇を噛む。
一度相対しているからこそ、分かってしまうのだ。
カテゴリー4:デスパレートと、上崎たちの間には覆しようのない壁があると。
たとえ上崎結城がカテゴリー5を討伐した偉大な魔術師であろうと、その実力自体はそんな異次元にない。あれは奇跡の寄せ集めだったと本人が公言しているように、オリヴェルとの試合でさえ圧される程度が彼の底だ。
このまま放置すれば事態は最悪の方向へ転がるだけ。
「――そうです。……けど大丈夫、です」
その先は言われずとも理解した。だから、レーネはぎゅっと拳を固く握りしめて、顔を上げた。四角く切り取られたような光の向こう。そこでただ立ち尽くす家族へ、彼女は無言の白浜に背中を押されながらその一歩を踏み出した。
「ノル」
兄を呼びかけるレーネのその声は、かすかに震えていた。
レーネは魔術師としての才をリーゼフェルト家に求められている。それはオリヴェルの言う貴族の義務を全う出来るような者を指す。
その為に、彼女はリーゼフェルト家から様々なものを与えられてきた。
あたたかく豪勢な食事も、きらびやかな無数の衣装も、絵本で見るような豪奢な部屋も、望まざるとも全てを与えてくれていた。
だから、彼女はその返しきれないほどの恩に報いるために全てを捧げてきた。
血反吐を吐き、何度も何度も袖を濡らしながら、それを誰に見せることもなく魔術の腕を磨き続けてきたのはその為だ。
オリヴェル・リーゼフェルトがそうあるように、レーネ・リーゼフェルトもまた正しく強き魔術師であり続けなければならなかった。たとえ普段どれほど奔放に見せかけようと、その根底の部分が変わることはない。
だからレーネは動けずにいた。
冬城アリサを救いたい。けれどそれは最大多数の最大幸福とは対極にある。
レーネが目指し続けてきた、リーゼフェルト家が彼女に求め続けてきた、正しく強き魔術師の姿とはかけ離れている。その願望一つを口に出すことさえ彼女には全てを失うに等しく、あまりにも恐ろしいことだった。
だから、あの少年は言ったのだ。
お前はそこで黙って見てろ、と。
レーネの今までの価値観を、いまい抱く葛藤を、全て正しく理解してくれた彼の優しさだ。リーゼフェルトの家を裏切るような真似をする必要はないと、代わりに自分が矢面に立つからと、そう守ってくれたのだ。
本当に優しいと思う。
その優しさは昔からずっと変わらない。
その甘さに、思わずすがりつきたくなる。
だけど。
それでも。
「わたし、は」
空唾を飲み、引きつった喉を無理矢理に開いて、レーネ・リーゼフェルトは宣言する。
たった一人の妹だ。
現世で会えた時間など一秒だってない。そもそも本当に血が繋がっているかさえ分からない。それでも、この短い間で彼女と心を通わせた日々だけは本物だ。
レーネにとって彼女がかけがえのない存在であるのなら。
その役目は誰にも、たとえ愛しい少年にさえ譲ってはいけない。
「わたしは、アリサちゃんを助けたい……っ」
それはきっと、本当の意味でレーネが初めてオリヴェルにわがままを言った瞬間だったかもしれない。
「……アリサちゃんは、わたしの妹かもしれない」
「……っ」
その告白には、意味があっただろうか。
きっとオリヴェルはその言葉を噛みしめた上で、それでもアリサを切り捨てる選択をするのだろう。そうでなければ、今まで彼に切り捨てられた人間が浮かばれない。
正しさのために誰かに犠牲を強いた以上、オリヴェル・リーゼフェルトは常に正しくあり続けなければならない。ある意味でそれは、呪縛のようなものだ。
だから突き放される。そう分かっていても、レーネはその事実を伝えずにはいられなかった。
「確証があるわけじゃない。ただの偶然かもしれない。そう思うよ。だけどいいの。本当はアリサちゃんと血が繋がっていなくたって。……だってわたしにとっては、ノルだって本物のお兄ちゃんなんだよ?」
血の繋がりよりも、心の有り様でレーネは家族を定義する。施設で暮らしていた頃の職員も子供たちもみんな家族だと思っている。だから、真偽はどうだっていい。
ただレーネにとって、アリサは本当に妹のような存在だった。
だから、救いたいと思ったのだ。
「わたしはノルみたいに、世界中の人を平等に救いたいだなんて思えない。そのために自分一人でそんな重圧を背負えない。わたしはそんなふうに『見たことのない誰か』に自分の感情を明け渡せないよ」
「……レーネ」
「ノルの方が正しいよ。魔術師は人を救うためにいるんだから、身近だって言うだけで少数を選ぶのはえこひいきだよ。大勢を救うことが正しくて、少数のために犠牲を強いるのは絶対に間違ってる。それは分かってるよ。分かってるけど……っ」
そうあるべきだと理解はしている。リーゼフェルトの魔術師として、あるべき姿も求められている姿も克明に自らの目に浮かぶ。
けれど。
「わたしは、そんなことのために魔術師になろうって思ったわけじゃないの」
リーゼフェルトの家に引き取られるより遙か前。初めて自らオルタアーツに触れた日。
彼女が心底から願ったのは、自分の周りの人間を守りたいということだけだ。
言葉も通じないのに自分なんかを育ててくれた施設の人が、隅っこでうずくまっているだけだった自分なんかにいつも笑顔を向けてくれた家族のような友達たちが、魔獣なんかに怯えて暮らすなんてどうしてもレーネには許せなかった。だから必死になって魔術を学んだのだ。
ただ目の届く範囲を、両の手で抱えられるだけを、救いたいと願って彼女は魔術師になった。
「もしもここでわたしがアリサちゃんを見捨てるのなら。それを諦めてしまうのなら。――わたしはもう魔術師になる意味がないんだよ」
だから、と。
彼女はその丁寧に結わえられた髪を垂らすように、ただ一人の兄に向かって頭を下げた。
「手を貸してほしいの……っ。アリサちゃんを助けるために」
レーネ一人ではアリサを救えない。たとえ上崎たちに加勢したとしても、攻撃に特化した彼女のオルタアーツではデスパレートから冬城アリサを取り戻すことなど出来るはずもない。
冬城アリサを救いたいのならオリヴェルの助力は必要不可欠になる。しかし、いまのレーネには論理的に彼にそのメリットを示せない。だからただ頭を垂れて乞いねだるしかない。
「お願いします、ノル……っ」
静寂があった。
レーネの独白に耳を傾け続けていたオリヴェルは、瞼を下ろして天を仰いでいた。
それからどれほど経っただろう。ほんの数十秒が永久にも感じられる空白の時間のあとに、オリヴェルはこぼすように呟く。
「……私がリーゼフェルトの当主だったら、それを聞いてもレーネの背中を押せなかっただろうね。レーネの妹ということは私にとっても家族であるけれど、それでも家族よりも市民を優先するのがリーゼフェルト家だ」
「ノル……?」
「けれど、私はまだ家督は継いでいない。魔術師を目指す身ではあるけれど、それ以前に私は君の兄だよ。君が本物だと、そう言ってくれたね」
――その言葉が、オリヴェルにとってどれほど特別だったかをレーネは知らない。
だがそれは、彼女が藻掻き苦しんでいる中で手を差し伸べられなかったオリヴェル・リーゼフェルトにとって紛れもなく大切な言葉で。
彼が正義のために戦い続けた理由も、あるいは「たすけて」とその一言で妹が素直に頼ってくれることを願っていたからで。
だから、彼は小さくほほえんで彼女の嘆願に応える。
「妹のわがままを聞いてあげるのは、兄の勤めだろう」
その一言で、彼は今まで抱えてきた全ての重責をなげうつとそう言い切った。
その兄の強さに、優しさに、レーネの視界は滲むようにぼやけていた。
「ただしアリサを人間に戻せないと判断した場合は、その時点でデスパレートの核を討つよ。それは魔術師として、最低限の役目だ」
「……うん。うん、それは、分かってる」
レーネたちが魔術師であることに変わりはない。たとえどれほど譲歩しても、非情にならざるを得ないときはきっとある。
だが、それでも十分だった。
「大丈夫だよ」
こぼれるあたたかな涙を拭い。
レーネ・リーゼフェルトは屈託のない笑みを浮かべる。
「だってダーリンとお兄ちゃんが、わたしと一緒に戦ってくれるんだから」




