第四章 憧れ -6-
青白く輝く、光の扉があった。
吸い寄せられるかのように、彼女の胸元で輝く鎖はその扉へと向かって伸びている。その色は、元の白銀ではなく黄金色へと変貌していた。
ゆっくりと這わせるようにそのゲートにまで指先を運ぶが、いざ扉に触れようとすれば電流が走ったような衝撃と共に拒絶された。その資格はないと、そう告げられているかのように。
うっすらと煙の漂う痺れた指先を西洋兜超しに見つめていた彼女は、その拒絶の残滓を味わうように指先をぺろりと扇情的に舐める。
「――ちょうど、困っていたところなの」
宵闇の中、一人佇む魔獣はそんな声をかける。その口元は蠱惑的な笑みに歪められていた。
「現世へ行って好き放題しようかとも思ったんだけど、うまくいかなくて。――これ、あなたたちの仕業ってことでいいのよね」
「……どっちだっていいだろ」
ざり、と靴底が砂を食む。――夜の帳を引き裂くように、少年と少女が、金色の髪をした魔獣の前にその姿を現す。
「お前はここで俺たちが止めるんだから」
氷を弾くような音と共に周囲が白藍色の結界に包まれる。
黒革で総身を縛り上げた魔獣は、いっそう艶やかな笑みで舌なめずりをしながら、黙したままその光景を眺めていた。
――ぞくりと、極寒の冷気にも似た肌を刺すような威圧感を上崎は感じていた。それがただの錯覚の類いだと理解していても、気を抜けば簡単に足が下がりそうになる。
それでも、上崎結城は地面を踏みしめるように力を込めて、眼前の獣と相対する。
冬城アリサとデスパレートはもはや同一だ。そこを否定することに意味はない。その目を逸らしたくなるような痛ましい現実を受け入れて、それでもなお、上崎は彼女を救うと決めたのだから。
「そうやって必死に虚勢を張る姿は、少し可愛らしいわね。――ペットにして愛でたくなる」
「先輩は私のものです。誰にだって譲ったりなんかしません」
その魔獣に啖呵を切るように、水凪六花は一歩を踏み出す。
いつだって彼女はそうだった。
上崎が怯え躊躇する場面でも、彼女だけは上崎のほんの少し前に立つ。それは上崎なら立ち向かってくれるという、そんな無稽の信頼の形だ。
だからそれに応えるように、上崎は武具生成術式を発動した。
上崎の体が光に包まれ、解けるように形を失っていく。やがてそれはもう一度より合わさっていき、その姿を変貌させる。
夜闇の中でもなおその闇さえ切り裂くほどの、黒曜石にも似た漆黒の刃。
鈍く重々しい金属音を伴って大地に突き刺さったその一振りの剣を、水凪六花は片手で軽々と抜き払った。
「いいわ。その魂、お望みどおり私が美味しく頂いてあげる」
瞬間。
とっさに一文字に構えられた上崎の剣の腹を、黄金色の鎖が痛烈に打ちつけた。
ただそれだけの無造作な一撃で、六花の足は簡単に地面から引き抜かれて一〇メートル近く吹き飛ばされていた。着地してもなお、がりがりと靴底をすり減らすばかりで止まれない。
「まさかこれで終わりとは思ってないわよね?」
デスパレートのそんな声を掻き消すように、無数の金属音が炸裂した。
人の身体など容易く砕く鎖の鞭が、いまだ体勢を整えることもままならない六花へ乱舞のように振り下ろされる。その殴打を六花はどうにか漆黒の剣で打ち払っていた。
一撃を受ける度、上崎は全身が痺れるのを感じていた。それを受け止めた六花の腕もおそらくは同様だろう。それでも彼女は正確無比な防御を続けていた。
だが数があまりに多すぎる。一合ごとに大きく姿勢を崩され、ほとんど宙に浮いた状態で身を捩りながらどうにか防いではいるが、もはやお手玉のように転がされているありさまだ。
「反撃に出ないのかしら?」
そんな余裕を与えていないのを理解していながら、西洋兜の向こうでデスパレートは笑みを浮かべている。
だが六花はこれでも善戦している方だろう。
元よりまだ東霞高校の一年生、それも入学してひと月程度だ。それで身体強化術式で魔獣との戦闘に耐えられるレベルに到達しているだけでも十分すぎる。ましてやカテゴリー4の攻撃を捌き続けるなど、本来彼女の持つ実力以上のものを引き出しているはず。
それでも、そこが今の彼女の限界だった。
『……っ』
上崎に出来ることは何もない。
骨兜の魔獣の討伐のときと同じだ。そもそも上崎のオルタアーツは、敵の攻撃を吸収し倍加して押し返すことで真価を発揮する。ただの打撃だけを相手にする限り、上崎は無駄に重量のある剣でしかない。何も出来ず、上崎は六花が次第に疲弊していく様を見ているしかなかった。
そのとき。
上崎の視界が、デスパレートの愉悦に歪む口元を捉えた。
『――っ、駄目だ、六花!!』
「遅い」
上崎の指示をデスパレートの声が裂く。
直後。振り抜かれたのは獣のように肥大化した左腕だった。その巨大で鋭利な爪が、上崎の剣と激突する。
耳障りな金属音と共に襲う、無数にあった鎖鞭の攻撃からは傑出した一撃。その衝撃波は、六花が固く握りしめていたはずの上崎の剣を弾き飛ばすには十分すぎた。
くるくると宙を舞った黒曜石の剣は追って放たれた鎖に絡め取られ、あまりにも呆気なくデスパレートへと奪われる。
「せんぱ――……」
泣きそうになった彼女の声は続かない。
たった一つの武器を奪った以上、魔獣の次の一手など決まっている。
思考だけがいやに加速した。
デスパレートの振り抜く爪も、回避よりもまず先に上崎の剣へと手を伸ばしてしまった六花も、全てが鮮明に上崎の幽体の目に映った。
――変わらない。
いつだって上崎は傍観者で。
その身を危険に晒すのは自分以外の誰か。
そんなことをいつまでも上崎結城が認めるわけがない。
「ふざけんじゃねぇよ……っ」
その声は、幽体ではない、上崎の声帯そのものから放たれたものだった。
「――ッ!?」
その身を鎖に縛られたまま、無理矢理にオルタアーツを解いたのだ。鎖にその身を引き裂かれ血を流しながら、それでも上崎は拙いフィジカルエンチャントで鎖を掴んでデスパレートの動きを僅かに引き止める。
稼げる時間はきっと一瞬にも満たないだろう。それでも、六花ならその刹那を稼ぐだけでも危機を脱せられることを確信していた。
「俺の大切な人なんだ。何度も何度も奪われてたまるかよ……っ」
「――なら、先にあなたから仕留めるだけよ」
そして。
六花への攻撃が空を切ったその瞬間に、返す刀でデスパレートは上崎を標的に定めていた。
その身は既に生身で鎖に縛り上げられている。抵抗はおろか回避も防御も選べない。それでも、上崎はうっすらと笑みを浮かべていた。
六花の悲鳴とも絶叫ともつかない悲痛な声が聞こえた気がした。
けれど、デスパレートの爪が上崎の身を引き裂くことはなかった。
代わりにあったのは、耳をつんざくような金属音だ。
「こうして助けるのは三度目……いや、四度目かな。ダーリン」
ふわりと、蜂蜜のようなにおいがした。
上崎の魂を切り刻むはずだった爪を阻む、まるで天使のような誰か。
――それは。
漆黒の長靴を足にまとい、ハーフアップに結われた髪をなびかせた、眼前の魔獣の肉親かもしれなかった少女。
レーネ・リーゼフェルトがそこにいた。




