第四章 憧れ -5-
間違っている。
開け放たれたままの扉の向こう、四角く切り取られたような無機質な光を見つめて、そうオリヴェル・リーゼフェルトは口内で呟いた。
大勢をオリヴェルが救おうとしても、その前に上崎が勝手な行動をしていては意味がない。
カテゴリー5を屠ったとする魔術師が敗北するという事実そのものが致命的な上に、界外発動による千里眼も戦闘中に物理的に破壊されれば解けてしまう。
どう考えても、ここで上崎がデスパレートと接触することにメリットなどない。ただ状況を悪化させるだけ。それは魔術師としては破綻していると言っていいほど、愚かしい判断だ。
そう思うのに、オリヴェルには去っていく上崎を制止することが出来なかった。
――どうして。
そんな疑問がオリヴェルの頭を埋め尽くす。けれどそれは、今に始まったものではない。
ずっとずっと、オリヴェル・リーゼフェルトはその問いの答えを探し続けていた。
それは、レーネがリーゼフェルトの家にやって来たその日からだ。
彼女はリーゼフェルト家の実子ではない。
名家であるリーゼフェルト家がその魔術の才に惹かれて養子に迎え入れたのだ。
だからこそ、彼女は周囲からの期待以上に、自分の存在意義を己の魔術の才能だけに見いだしていた。それはオリヴェルには想像すら出来ないほどの重圧だっただろう。
栗色の髪を泥に汚し血反吐を吐きながら、それでも人前では決してそれを見せまいと爛漫な振る舞いを続けていて。後退はおろかほんのひとときの停滞さえ彼女にとってはどれほどの恐怖だったのだろうか。そんな彼女が徐々に擦り切れていく様を、オリヴェルは間近で見てきた。
だが、何も言葉をかけられなかった。何をどう伝えればいいのか分からないまま、自分を痛めつけるようにもがき苦しみながら這い上がろうとする義妹に、オリヴェルはただその姿を見る以外に何も出来なかった。
転機があったのは、四年前。
まるで武者修行のようにたった一人で国外の特別育成プログラムを受けたいと志願した彼女は、日本という地で上崎結城と出会う。彼女が生来の屈託ない明るさを取り戻し、わがままを言ってくれるようになり、ずっと笑顔を向けてくれるようになったのはそれからだ。
レーネを救ったのは、自分ではなかった。
それはあまりにもどかしく、歯がゆく、自身の力不足を痛感させるには十分すぎた。
だからオリヴェルはいっそう強さと正しさを求めたのだ。
そんな『正しい強さ』を追い求めてきたからこそ、たとえ多数のために少数を切り捨てる必要があっても、それに胸を痛めながらも一人で十字架を背負い続けてきた。
その先に、求める答えがあると思っていた。
その先ならば届くと思っていた。
――かつてレーネを呆気なく救ってみせた、一人の少年に。
けれど。
その彼が、オリヴェルが唯一目標とした彼が、何よりも道を踏み外している。
それがどうしても理解できなかった。
冬城アリサに対する対応は、どこまでもオリヴェルの方が正しい。出来るかどうかも分からないことのために現世の数多の魂を危険に晒すような賭けは間違っている。それは目の前の小さな現実しか見ようとしない弱者の理論だと、オリヴェルはずっとそう断じてきた。
なのにどうして、上崎結城がそんな簡単なことに気づかない。
――いや、と。
そこでオリヴェルの中で、一つの疑問が鎌首をもたげた。
確かに重責から逃れるのは簡単だ。見えない大勢より目の前の誰かを救う方が心理的には遙かに楽になる。
けれど。
彼のその選択は、本当にそんな逃避の結果か?
もしも手を過てば自分の責任において数多の命が失われる。仮に成し遂げたとしても救われた命以上の謗りを受けることだってあるかもしれない。そこには何も言い逃れの余地がない。その重圧を、果たしてオリヴェルは理解できているのか。
なによりも――その選択は。
かつて自らを救おうとして魔術師の道を失った、義母の選んだものだというのに――……
「――ノル」
声がした。
見れば、自身のたった一人の妹が真っ直ぐにオリヴェルを見つめていた。いまにも泣き出しそうな少女はわななきながら、それでもキャラメル色の髪を掻き上げて、何に隠すこともなくじっと。
それは、あるいはオリヴェルの求めた答えの一つだったのかもしれなかった。




